とても大切な友人がいる。


その人はクリスチャンではないが、今日はそのこと(クリスチャンであるかないか)は


問題にしないで書きたいと思う。


さて、話は尻切れトンボになるかもしれない。が、あえて書き出してみる。。




最近、ちょっと落ち込んでいた。


どこに?どこに落ち込むの?


・・・いえ、よくある「気持ちが参っていた」という意味で。(笑)



真剣に考えていたし、持っているものは惜しくないほど、一つの事に


向き合っていた。


でも、ある部分は受け入れられ、こちらのいわゆる「思い」の部分は退けられた。



とても痛かったし辛く苦しかった。



その、こちらに向けられた「ノン!」により、何がなんなのか何がどうなのか


途中から思考することも出来なくなっていた。



そんなときに、友人B子さんはとても有り難い存在。


「こうなのでは?」「ああなのでは?」と率直な意見を出してくれる。


私にない、というか正反対に近い性格だ。



もし、ここに「私の性格の人」とB子さんが居て、、


私にどちらと友達になりたいですか?と聞かれたとしたら、


私は「B子さん!」と


答えるかもしれない。。



さて、そのB子さん、驚くべきことを言う。


ちょっと、その前に、、


私は小学生のときなど文集などに「好きな言葉は?」と書く欄があったりすると


大抵、「思いやり」と書いた。


また、「将来の夢」を皆で短冊に書いたときに、


「困っている人のための仕事」などと書いたのだから、


いわゆる「いい子」であり、道徳心を大切にしようと思っていた子供だったようだ。



特別、意識してそのように思っていたのでなく、全身に染まるようにそのようで


あったのだから、、その後遺症みたいに(後遺症をいうと、悪いことのようだが


特別、悪いことというのでもないだろうが)


私の人格に、「クセ」のように(クセ?)残っているだろう・・




さて、この度の、「落ち込み」により何がなんだか、何がどうなのか考えることも


できないほど、打ちのめされた私はB子さんとおしゃべりをしていた。


あ、そうそうさっき、B子さんは驚くべきことを言う!と書いたのだっけ・・



何度かB子さんから聞いたセリフなのだが、、


「私は、指先からこれっぽっちも、思いやり、を持って人と接そうなんて


 思ったことはないよ!」と言う。



何度も言うが文集の好きなセリフに「思いやり」と書いていた自分は


どひゃ~~!と驚いちゃう!!


書いていただけでなく、子供時代はいつも他人の「辛さ」や「大変さ」はいかばかりか?


と考えていた。


B子さんは、指先からこれぽっちも・・・無いそうである。



であるが、、


B子さんは、とても弱者に優しいのである。


ここで弱者とはどんな人を指して言っているかは言わないが、そのまなざしがとても優しい。



ということは、、あえて人に対し、優しい思いやりを持とうと思わなくても


真心のある人はあるのだということだ。



そんなことをつらつらと考えていたら、たとえば、人が「絆」を大事しよう!と


志したとして、、それが出来ているか出来ていないかは、なかなか計れないということに


なる。



新約聖書のローマ人への手紙3章10節に


『義人はいない。ひとりもいない。』とあるが、


そんな人間の身代わりとなり神にのろわれ捨てられた神の御子イエス・キリスト。


信仰に生きる道を与えられたことを静かに感謝するのである。。