このところ、、震災のあった月をむかえ、それに関する番組を
多くTVで目にします。
子供を亡くした方の生の声を聞くごとに、涙を流さずにはいられない
わけですが、それとともに、「こういう思いなのか?」と
考えさせられたりします。
たとえば、「励ましの言葉よりも、この事実を忘れないでほしい」。
この言葉から・・。
我が家に難病の子がいるのですが、
すでに我が子の地上でその姿が見られない悲しみを持つ方と
同じではないと思うのですが、あえて自分の側での話にしますと。
自分も、(事情を知る方から)励ましの言葉をいただくことが
あります。その方の精一杯の「しっかりね!」の思いが届きます。
そして、ありがたいと思います。
また、具体的な言葉はなくともさりげない会話や、行動などから
「あ~、覚えてくださっている」と気づくことがあります。
これは直接「励まし」の言葉ではなくとも、本当にありがたく
嬉しく思います。
これはなぜか?
「こんな苦難と思えることを背負っているんだよ」「悲しみに耐えて
いるんだよ」と、認識してもらいたいためなのか?
(私の場合は)そうでなく、「知ってもらう」ということがとても慰めなの
です。一人で背負っているのではない、(実際一人で背負っている
のではない)という気持ちが心に広がるのです。
どうしても困難な事柄について、率直に聞くのはためらう、という
意見を聞いたことがあるのですが、「最近どお?」ぐらいに聞いて
もらって、一向に構わないと思うのです。で感想など言わなくても
、「そうなんだね。。」という返事だけでもとても嬉しいのです。
(これは私の場合であって、人それぞれ、ということもあるでしょう)
さて「知る」という言葉を何度か書きましたので、少し方向が違い
ますが一つだけ。
こう見えて(どう?)けっこう執念深い?と最近思うのです、自分。
一見して、気ままな性格に昔から見られますし、自分もそう思って
きたのですが、
実は「シタッ」という性格。
ん?「シタ~ッ」とした性格ってわかりますか?これは母のセリフなので
関東地方ではつかわないのかな?
物事をけっこう冷静に観察して、心に留めてあれこれと自問自答しな
がら、悶々と考える、というようなあまり明るいとはいえないような
そうそう!したたかな性格?そこから来たのかしらん?(笑)
あ、説明が長くなりましたが、そんな意外な面に気づいたのですが、
過去において、心に深く刻まれた喜ばしいこと、あまり喜ばしくないこと
をしっかりと記憶しているのです。
それであるとき沸々とその思いがよみがえることがあるのです。
゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚
そのとき、イエスがこう言われた。「父よ。彼らをお許しください。
彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」
(新約聖書ルカによる福音書23章34節)
この「そのとき」とは、ふたりの犯罪人とともに、死刑にされるため
十字架につけられたときです。
彼らー、十字架につけるため、手を下した者、そうせよ!と叫んだ者、
あざ笑う者、最後に逃げ去った弟子たち・・
そこには、先ほどの話に戻るけど、、私が許せない事柄に関する人も
含まれるでしょう。そして、何より私自身がまずそのようにして許され
イエスさまによりとりなしていただいていて許され、存在している者、で
あるということ。
「覚える」「知る」ということがとても大切なことだな~と
思いながら、長くなりましたが、読んでくださった方、
ありがとう♪