ちょっと挑戦的かもしれないけど、


たまに思うことがあるんだ~。



人は祈る対象にどれほどの信頼を寄せているのか?って。




たとえば・・



ある団体で、、部活動でもいいし・・若者のグループがあったとして、


その中にお誕生日をもうすぐ控えた女子がいたとします。


同じ部員のある男子は彼女のことを大事に思っていて、


もうじき来るお誕生日を祝ってあげたい気持ちがとてもあると


します。


どこでお祝いをしようか、プレゼントは何にしようか、はてまた


サプライズまで考え用意して、その旨を他の部員にも伝え


皆で盛り上げて祝おうと協力してもらいます。(その男子は密かに


自腹を切り、費用をまかなっていたかもしれません)



さて、お誕生会当日、彼女さんは、サプライズまで支度して


お祝いしてくれたことに感激してとても喜びます。



そして、「皆でお祝いしてあげたいので」との意向により


当日ブラッとやってきた、とある男子をつかまえて、


「今日は本当にありがとう。素敵な誕生日になりました。一生


忘れません」と言ったらどうだろう。。



一人で準備、支度した男子は、誕生日の彼女が喜んだ!という


ことで、このことを喜べるだろうか。




また、あるところに介助の必要なお年寄りがいたとして・・


お嫁さん、または娘さんが一手に引き受け


心を砕き、そのお年寄りの身になり、毎日を送っていたとします。



ある日、そのお年寄りの娘や息子、または別居のお嫁さんなり


訪ねてこられ、お年寄りとひと時を過ごします。



すると・・(お年寄りを女性だとして)おばあちゃん、その日に来てくださった


一人の人に甘え、「たのみがあるの。。」とすがるようにしていたら、


いつも面倒を見ている娘なり嫁なりは、なんとも思わないだろうか?



えっ?ちょっと例がイマイチですか?


まあ、たとえばですのでお許しをパー




日本では八百万の神とかいうのですか?


山、太陽、神社、はてまたサッカーの神まであってー!



それらいくつも拝んだりすることがあると思うのですが、


これはどの神(?)をも拝んでいれば間違いはない!という


発想からなのでしょうか?


よくわかりませんので、いや!違うよ!と言う意見はどんどん


お聞かせください。



さて、さっきの例で考えた場合、


もし絶対なる神がおられるとしたら、そうでない対象に頼みごとをしたり


すがったりしているのを見て、それをどう思われるでしょうか?



このように考えると、色々な対象に祈るのも大変、恐ろしい(?)


ことのように思われませんか?



自分が何を信じているのか?


また信じている対象はいかなる神なのか?






ちなみに私は聖書であかしされているイエス・キリストを信じる者です。


絶対なる神があり、御子イエス・キリストを地上にお遣わしになった。



本来、私たち人間は自分勝手な存在であり、神の前に祈ることすら


出来ない者。


そんな我ら人間を救わんと、イエス・キリストは十字架にかかり父、神に


こう言われた。


クローバーそのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。


 彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。


           (新約聖書ルカによる福音書23章34節)




実に、我らの身代わりとなり我らの罪の贖いとなられたのです。神の


怒りをその身に負い、なだめの供え物となられたのです。



イエス・キリストを信じる者は、祈りのときに


「このお祈りをイエス・キリストの御名により、御前におささげします」


のように、「御子イエス・キリストにより」ということを申し上げて


祈らせていただいてます。



これはイエス・キリストの十字架の御業がなければ、決して祈ることは不可能な


存在であるがゆえだということだと思います。



なので、苦しいときに祈る時も、悲しいときに祈る祈りの時も


いつも「なんと感謝なことだろう」という気持ちがあるのです。




長くなって、、もし読んでくださっていた方があったらどうも


ありがとうラブラブ