なんとなしに考えていること。



クローバー主はその愛する者を懲らしめ、


 受け入れるすべての子に、


 むちを加えられるからであるクローバー


    (新約聖書へブル人への手紙12章6節)



このことは人間でも、より良く成長してほしいと願う親心と照らし合わせても


うなずけると思います。



ということは、神さまは人をただ、安全だ!と思われることしか


与えられるのではないということがわかりますね。



このことは、私は知っているつもりでした。




さて、自分(私)の暮らしで、まったく思いがけない「辛い出来事」が


起こりました。もうずいぶん前のことです。


未だ、この出来事は(人間的に見て)解決されていない状態です。



AYUの歌に


「今日がとても 悲しくて、もし明日も 泣いていても


 そんな日もあったねと 笑える日もくるだろう。。」というのが


ありますね。


私もその当時、きっと来週にはそのように歌っているだろう・・


来週でなければ、数か月後、でなけでば一年後・・・



などと思いながらこの歌を聴いたものです。



でもこの試練は長いものでした。というよりまだ継続している。。



この困難により、実際(脳が)幼くってどうしようもなかった私も


色々な学びがあった。


なによりも、神さまのほうにググッと姿勢を向かわせていただいた、というのは


大きい。


この悲しみにより、とても鍛えられていると実感している。


そのことはとても感謝なことなのだが、


私はものすごく、しつこくこう思っていた。


・・・私はこの辛さにより、成長させられている。でも(この問題には相手がある)


当事者は未だ、泣いている。悲しみの中に沈んでいる。


だとしたら、私が恵みを豊かに与えられていることは感謝だけれども、


この(相手の)悲しみは私を打ちのめし、どうすることもできない。



この悲しみが解決しない限りは、またどういうことなのかわからなければ


私は決して笑えない!!ぐらいに頑なに思っていた。



でも、最近少しずつ、変えられてきている。


この不条理とも思える事をも、やはり受け入れるべきなのだ、と。


(自分が思うに)けっこうたくさんの面を信仰により感謝しているつもりで


あるが、一部、どうしても自分の考えを譲れない!というのは


それは違うだろう。。違う、という言葉も違うかもしれないけど


何か、ゆがんでいる?偏っている?


そんな感じがするのだ。





この恵みは受け入れ、


この恵みは納得できない!感情的に耐えられない!というのは


やはり違っていた、と変えられたことは感謝である。



つらつらと思っていることを書いてみたが


読んでいるみなさんには「?」かしら?



(^O^)/