さて、いきなりですが・・


イエス・キリストの受難の苦しみ、悲しみ、その孤独は


人にはなかなかわからないものではないでしょうか?


「このような感じのもっと極限な感じなのだろうか」と


せめて、そのようにしか知ることはできません。少なくとも自分には。




そして、他の兄弟姉妹(信者同士をそのように呼びますが)が


感じるように、同じように、自分も心に感じるかというと


それはまだ、(いつまでも)初心者のような自分には


限界があります。




以前の自分の失敗でー、


部屋の隅(窓辺)に落ちていた綿ぼこりを、掃除機で吸い込めば


いいのに、横着者の自分はあろうことか、


近くの扇風機を逆さにし、それでベランダ側に飛ばそうを


したのですDASH!(*v.v)。


その際に、扇風機の羽の中まで親指が入ってしまい


けっこうザックリと指を切ってしまったのです。


そのときに、思いがけずにキズは痛くなく


熱かったのです。メラメラ


それで、キリストの受難の痛みはどんなに熱かったのだろう。。


などと、自分のちっぽけな痛みと不遜にも比べたりするぐらいで・・



昨日、なんとなく興味のあるネットのページを見たりしていたら


とても詳しく、


「いけにえ」について書かれてあるのに行き着きまして、


日本人など、とくに「血を流すいけにえ」については


なかなか実際に生活にないことだし(言い方、乏しい・・汗


解りづらいけど、それを人類の罪からはじまり


丁寧に書かれてある文章を読み、とても心からありがたく


思ったのです。


(ものすごくザックリと書きます)


旧約の時代(イエス・キリストの受難前)には、人々は


神に自分の罪を許してもらうため、いけにえを捧げなくては


ならなかった。それは傷の無い全きものでなければならなかった。



そのいけにえを捧げるのは、(アダム以来)罪の性質が入り、


断絶された神との交わりを回復させるためであると思います。



旧約時代は度々、動物のいけにえが捧げられました。


(話がすごく飛びますが・・)



イエス・キリストがこの地上に人間と同じ姿になり


お生まれになりました。



イエス・キリストは罪の無い方でした。


(これは、旧約時代の「傷の無いささげもの」を思い


 起こさないでしょうか)



そして、信者は、このイエス・キリストが全焼のいけにえとして


我らの罪の身代わり、神へのなだめのそなえものとなり


その身を十字架につけて死んでくださったと信じています。



罪により、断絶されていた神との交わりの関係をこの一度の


捧げものにより、永遠に回復されたと信じています。



しかも、この愛する御子をこの地上に下されたのは


神であり、神みずから本物の「いけにえ」を人間に


備えてくださったというところに、神の愛が


あると信じます。(イエス・キリストの復活を信じる我らも


共に、生きるものとされたと信じます)



クローバー神は実に そのひとり子をお与えになったほどに


  この世を愛された。それは御子を信じるものが 


  ひとりとして滅びることなく 永遠のいのちを持つ


  ためである。(新約聖書ヨハネによる福音書3章16節)クローバー