25日に教会で、近所や知人の方たちも来られてのクリスマス会が


行われましたクリスマスツリー


その中で子供たちが紙芝居、というか画像を使った、画像芝居をしてくれた


のですが・・


それが一日の中で一番印象に残っています。


かなり要約して内容を言うと・・


雪あるところに、飲んだくれた暮らしをした男がいました。


 ふとしたきっかけで「これではいけない(だったかな?)」と思い、神に祈るのです。


 すると祈りの中で「明日、私はあなたを訪ねます」


 とイエスさまが言うのです。



 男は「今日、イエスさまがおいでくださる!」と朝からそわそわしています


 しかし、いくら待っても来るのは、問題をかかえた人ばかり。


 そんな人の世話をしたり、面倒をみたりして忙しい一日が終わります。。



 「あ~忙しかったな。。しかしイエスさまは結局来られなかったな・・」



そんな感じの話だったのですが、、


その後、その男は心を入れ替え新たな生活へと歩む、という話だったと思います・・


(かなりの要約です)



その紙芝居を見ながら、


マタイによる福音書25章の聖書のことばを思い出しました。




「いと小さきものになしたるは すなわち我になしたるなり」





さて、なぜこのたび、このお話を書こうとおもったのかは、


とある人のブログでのやりとりからです。(とある人よ、コメントは無しでいいですよ!)



その方はとても博学の方で、そのため今年の原発事故や(おそらく世界情勢も?)


色々なことに問題意識を持たれ、憂えておられるのです。



知識が豊富なだけに、具体的に心配されることがらも多いのだと思います。


そして、この悲しい出来事から「救われる」ことを願いつつ、もどかしい思いを


もたれているのだと思います。



私は小市民で本当に色んなことにうといのですが・・


彼女が聖書のことにも触れられたので、


(様々なことに)無知を承知で


「聖書のいう救いとは、身体が死んだ後の第二の死においての魂の救済の


 意味があると思います」というようなことをコメントさせていただいたのです・・



すると彼女は


「信じられぬ者にとっては現世の人々の苦しみに寄り添って生きていく他は


 ありません」と書いてくださった。。



この言葉に少々打たれて、この子供が演じたお芝居を思い出したのです。




「いと小さきものになしたるは すなわち我になしたるなり」



紙芝居の心を入れ替えた男は


イエスさまに出会ったのですねラブラブ