大阪難波に商業施設「なんばパークス」があります。ここは昔プロ野球の南海ホークス大阪球場でした。1989年ダイエーに身売りして無くなった大阪球場は、私が小学生の頃、父に連れられて野球観戦をしたところでした。南海・西鉄戦は人気で満員でした。南海の杉浦、野村に西鉄の稲尾、中西太というスターの競演に沸きました。そして、球場をぐるりと回るように場外馬券売り場があったのです。今も「パークス」の一角に「ウインズなんば」として残っています。そのパークスビルの9階に「南海ホークスメモリアルギャラリー」があり、往時の南海ホークスの歴史や名選手の写真やトロフィーが飾られています。ここがこの度リニューアルされたというのを聞き、元南海ファンだった私は訪ねてみました。
リニューアルされたのは、日本球界を代表する名捕手で戦後初の三冠王に輝いたノムさんこと野村克也さんの数々の栄光の品や写真が納められたからでした。ノムさんは、南海の監督を解任されたときの確執が尾を引き、長らくこのメモリアルギャラリーへの協力を拒んできたのでした。南海の主力選手だったノムさんがいないギャラリーは往年のファンにとって寂しいものでした。昨年2月にノムさんが亡くなってから、江本選手の働きかけで、遺族の了解を得て、懐かしの写真やトロフィーなどが陳列されるようになったのです。室内で栄光の南海ホークスの歴史をまとめたビデオが放映されていましたが、ナレーターは何と競馬実況の神様、あの杉本清さんでした。
ノムさんは、選手としても監督としても一流でしたが、「ぼやき節」とも言われた毒舌で物議をかますことも多い人でした。晩年はユーモアも出てきて独特の味のある言葉で話題をさらいました。「マー君神の子不思議な子」などは、大うけしたものです。ノムさんを育てた鶴岡監督は、その能力を高く買っていましたが、天狗にならないようにあまり褒めなかったのです。「三冠王がなんぼのもんじゃ」といって突き放したこともあり、両者には溝が出来ていきました。これで思い出すのは、武田文吾調教師です。彼も福永洋一騎手を天狗にさせないため、あえて、NO1は、栗田騎手だと公言していました。弟子の福永騎手は素直にその言葉を聞いていましたが、その間には馬がいたから馬に集中できたのです。野球は人間同士に感情が濃く出る要素が多いので、素直になれないノムさんは、いつしか孤立していきました。喧嘩別れのように南海球団とは縁を切っていましたが、心の中ではホークスを一番愛していたのです。
日本の競馬の始まりは、1862年に洋式競馬が居留外国人により行われたのが最初です。野球はその9年後1871年にアメリカから伝えられました。よく似た歴史を持つ二つのスポーツは今や日本の代表的なスポーツとして日本人の琴線に触れて大きく発展したのです。
「おかえりノムさん」で思い出しました。道頓堀ターフ倶楽部で以前「シンザン生誕50周年記念写真展」を京都競馬場で行いましたが、私がタイトルで「おかえりシンザン」と名付けたところ、JRAの若い職員から「おかえりシンザン」って何ですか?と聞かれました。おいおい、気付いてくれよ、シンザンが写真で皆さんにあいさつしに帰って来たんだってことを!