今週は、中京できさらぎ賞が行われます。京都改築のためですが、もともと中京で行われていたレースです。東上最終便と言われたレースで、マーチス、タニノムーティエ、キタノカチドキなどの名馬が春のクラシックを目指して挑みました。ヒカルイマイもそんな1頭でしたが、1971年のきさらぎ賞には、別格の馬がいました。ロングワンです。父のサウンドトラックは、ザボス系で、英国で1000mばかり走って8戦7勝という名スプリンターでした。その代表産駒のロングワンは、ここまで7戦6勝。2着との合計着差は20馬身という圧倒的な2歳チャンピオンでした。レースは好位から直線抜け出したロングワンでしたが、ヒカルイマイが力強くこれを交わし、大金星を上げました。テレビを見ていた私たちは、「あっ、ロングワンが負けちゃった!」と驚きましたね。主役が交代した瞬間でした。

 

 ヒカルイマイは、家族経営で米作の傍ら競走馬を生産していた静内の農家で生まれました。セリで売れず、やっと150万で買い手がつきましたが、肋骨が1本陥没しているという事で、75万に値切られます。もし新馬に勝ったら残りの75万を支払うという約束をします。栗東の谷八郎きゅう舎でデビュー。新馬勝ちをすると約束通り75万が送られてきたとのことです。

 ヒカルイマイの父は、トウメイやアチーブスターで知られるシプリアニでしたが、当時はまだ知名度は低い種牡馬でした。1960年代から70年代にかけて、シプリアニの父ネヴァーセイダイの仔がたくさん輸入されました。そこからネヴァービート、ダイハードなどが大活躍し、一大ブームを巻き起こしました。ヒカルイマイの母系は、サラブレッドが少ない時代に豪州から輸入されたミラという馬に行き着くのですが、血統書の一部が紛失しているため、正式なサラブレッドとはみなされず、サラ系「豪サラ」と呼ばれていました。しかし、このミラの系統は、よく走り、やがてサラブレッドとみなされるようになりました。

 

 東上したヒカルイマイは、本格化し、皐月賞を豪快に差し切ると、当時ダービートライアルだったNHK杯も制し、ダービーに向かいます。その血統のせいか、1番人気はダコタという馬に譲ります。当時のダービーは28頭立て。直線は馬群を裁くのが大変で1コーナーを10番手以内で回らないと勝てないと言われていました。天才福永洋一騎手でも「ダービーは競馬じゃない」とまで言っていました。皐月賞は速い馬、菊花賞は強い馬、そしてダービーは運のある馬が勝つとよく言われたものです。

 ヒカルイマイは、向こう正面で27番手でした。直線は大外に持ち出し、ぐんぐん伸びてきます。ゴールでは、ハーバーローヤルに1馬身1/4の差をつけていました。直線だけで22、3頭を抜き去ったのです。史上に残る追い込みでした。騎乗した田島良保は「僕はダービーに乗ったんじゃない、ヒカルイマイに乗ったんだ」という名言を残しました。1番人気のダコタは、アナウンサーが「ダコタはどこだ」というほど馬群に沈みました。

 

 この4年後、カブラヤオーが超ハイペースでダービーを逃げ切ります。この馬も皐月賞、NHK杯、ダービーと3連勝しました。もし、ヒカルイマイと一緒に走れば、向こう正面で、2頭の差はどれだけ開いていただろうと想像します。1970年代は個性的な馬が多かったのです。私が競馬から離れられなくなったのも、そんな個性的な馬と沢山出会ったからでした。

 私はそれまで、テレビで競馬を見ていましたが、ヒカルイマイを生で見たくて、秋の菊花賞トライアルの京都新聞杯を見に行きました。素晴らしい青空で競馬場が輝いて見えました。応援したヒカルイマイは後に菊花賞を勝つ二ホンピロムーテーの9着と伸びず、その後屈腱炎が分かり、ターフを去っていきました。サラ系のせいか、子供には恵まれず、忘れられていきましたが、あのダービーでの追い込みは今でも瞼に残っています。彼こそ日本一の追い込み馬です。

 ちなみに最初に出て来たロングワンは、後にマイラーズカップなどを制し、名マイラーとなり、更に弟のハードリドン産駒ロングエースがダービーに優勝して兄の仇を取りました。