今週から福島競馬が始まります。西は本来中京ですが、京都の改装の関係で引き続き阪神です。福島のメインは「ラジオNIKKEⅠ賞」。このレースから思い出すのは、1977年のマルゼンスキーです。当時中山で行われていて、名称も「日本短波賞」でした。

 マルゼンスキーは、イギリスの15頭目の三冠馬ニジンスキーの持ち込み馬(海外輸入馬)で、生涯8戦全勝で、2着馬との着差合計61馬身という怪物でした。ニックネームは、スーパーカー。ただし、GⅠ級レースを勝ったのは、朝日杯3歳Sだけでした。というのも、当時は、持ち込み馬は、クラシックレースに出走権がなく、大レースに出られなかったのです。ちなみに馬主は橋本善吉氏で、娘さんは、元オリンピック選手で現国会議員、オリンピック担当大臣の橋本聖子さんです。

 

 マルゼンスキーの父ニジンスキーは、カナダで生まれ、アイルランドで調教され、イギリスで三冠馬と成りました。その父ノーザンダンサーは、20世紀を代表する名馬で名種牡馬です。ロシアの有名なバレーダンサーの名を貰ったニジンスキーは、英2000ギニー、英・愛ダービー、キングジョージ&クインエリザベスS,英セントレジャーとピゴット騎手を背に、無敗で勝ちまくりました。そして、11戦全勝で凱旋門賞に挑戦しましたが、惜しくもササフラのアタマ差2着。チャンピオンSも2着で引退しました。

 種牡馬としても優秀で、ラムタラ、ゴールデンフリース、シャーラスタニ、ファーディナンド、カーリアン、グリーンダンサー、、イルドブルボン、二二スキ、ロイヤルアカデミーなど多数の名馬を輩出しました。マルゼンスキーも我が国における最良のニジンスキーの後継馬として活躍しました。

 

 マルゼンスキーは、足が外向きに曲がっており、競走馬になれるか心配されましたが、無事デビューにこぎつけました。脚部不安はその後も彼を苦しめましたが、その能力はずば抜けており、大差で勝ち続けます。一度だけ、府中3歳Sで、ヒシスピードに出し抜けを食らい、際どいハナ差で勝ちました。陣営はこんなものじゃないと、丁度体調も良かったので、次の朝日杯3歳Sで、目一杯走って見せました。マルゼンスキーが本気で走った唯一の1戦でした。レコードでの大差勝ち。2着のヒシスピードに倍返しをしたのです。

 

 さて、中山の日本短波賞に挑んだマルゼンスキーでしたが、先頭を楽に進んでいたのに、3コーナー辺りで突如スピードを落としてしまいます。あれ、故障か?とざわめいたのですが、他の馬が追いつくとまたスピードを出して7馬身差で悠々とゴールしました。騎手はインタビューで、「返し馬であの辺りで止めたのを覚えていて馬が止まりかけた」新聞にはそんな感じで書かれていました。でも私は、それはないだろうと思いました。だって、新馬戦じゃあるまいし、中山は何度も走っているコースです。そんなの聞いたこともありません。では、真実はどうだったのか?私の推論ですが、マルゼンスキーは、あまりに強くて、彼が走るときは馬が集まらなくて困ったそうです。他の陣営から、「お願いだからあまり離して勝ってくれるな」とよく言われたそうです。おそらく騎手は、ちょっと抑えたのでしょう。それが少し強すぎて、マルゼンは、止まりかけたのではないでしょうか。それほど力に差があったのです。

 

 マルゼンの最終戦は、有馬記念でトウショウボーイとテンポイントに挑戦することでしたが、脚部不安が出て、夢の対決はかないませんでした。マルゼンがちぎってきた相手なら、トウショウボーイもちぎってたと思うので、これは凄いレースになったかもしれません。でもレース中に故障など起きていたら大きな損失になったので、夢のまま空想で楽しんでいるのがいいのかも・・・。

 

 マルゼンスキーは、種牡馬としても大成功しました。彼が出走できなかったダービーもサクラチヨノオーが勝ちました。種牡馬リーディングでもベスト10に8回入っていますし、ブルードメアサイアー(母の父)としては更に優秀で、2位が10回。スペシャルウィークなどにその血を残しています。やがて、強い馬を締め出していた制度も変わり、外国産馬や持ち込み馬もクラシックに出られるようになりました。

 

 1970年代は、私の青春でした。名馬をたくさん見て感動しましたね。当時週刊誌の「ホースニュース・馬」にファンのページがあり、馬クラブが出来、POGが始まりました。競馬文化のはしりです。私の古い友人のT・Eさんは、マルゼンスキーの大ファンでした。マルゼンスキーの引退の日に、馬クラブで大きな横断幕を出していました。

 そこには、「さようなら マルゼンスキー 語り継ごう おまえの強さを 讃えよう 君の闘志を」と書かれていました。 う~ん 懐かしい!