つれづれで書いています。


何かを信じるというのはそこに意識が向かうということと考えてもいいのかな。


全部がそこにあるとして、今、自分が生かされてるのは自分の意識を向けた何かが、偶然、何かの条件と一致しているからここにいるだけかもしれない。


この世界に存在する何かがたまたま私に対して意識を向けているから私が存在してるだけかもしれない。


例えば、この世に存在するために最低100の意識を向けられていないと存在できないとしたら、今、たまたま100以上の意識が私に向けられているから存在できてるだけ。


『あの世』『源』『神』『宇宙人』エトセトラエトセトラという概念とか存在とか考え方の枠組みとか、私がそれを知って、便利だとか得だとか安心とか簡単だとか、もしくはその反対であると認識して意識を向けているからあるだけなんぢゃないか、と思うことがある。


そして、その反対もあるんだと経験したことで表裏を一組で考えて、両方を知らず知らずに意識する。


『源』、『アカシックレコード』、『ハイヤーセルフ』などなど、そういうものがあると認識して意識して信じるからそれを信じている存在が多くなればなるほど、それが質量を持って現実に浮き上がってくるのではないか。


そういうものがある、そういうものと繋がれる、と、安心できるのではないか。


知らない人、興味のない人、そんな人にはあろうがなかろうが関係ない。


そうだったらいいのにな


を信じてる人の数で、色々が決まり、それが存在するのなら、結局、そこからはみ出た色々が取りこぼされていくという感じなのか。


もしくはそこからはみ出たもののほうが多いのではないか。


例えば、調和とか、平和とか、それがなんなのか、大まかには概念があるけど、解釈は百人百様でぼんやりしてるから形にならない、質量を得ないのかもしれないなとふと思った。


それが目の前に実現する要件が知りたい。


この宇宙は広がり続けてる


とかだって、


そうだったらいいのにな


がたくさん集まってるだけで、宇宙も地球も海の中も生きとし生けるものすべからく知りたいと思うことが尽きないのも


そうだったらいいのにな


って思ってる人が多いからなんぢゃないかと思ったりもする。


広がり続けてくれないといつか終わりが来てしまう。


知り尽くしたらつまらない。


知らないものが多いほうが退屈しない。


そうだったらいいのにな


で溢れている方が工夫が楽しいからたまたまそちらを選んでる人が多いのではないか。


この世界には『全てがある』という考え方を私が許可しているから、そういう世界で生きるだけなのかもな。


『全てはある』けども、私がそれを所有してるかどうかは認識できるものとできないものがあるから、手元に見えないだけってことか。


誰かが出してる概念に対して、好きでも嫌いでも意識を向けているだけで存在してしまう。


今の自分がそれらを信じていなくても、私を構成している何かが「それを信じていた」という記憶とか、考えを持っているなら、今の自分がそんなものない!と思っていても、それは存在してしまうんぢゃないか。


お金、とかも、私の手元にはないけど、他にあるのは知ってる(笑)


例えば、豊かさとは?と聞かれて、お金と答える人と、お金だけではない、種類が豊富、多種多様であることと答える人といるとしたら、よりバリエーションが多いほうを認識した所で世界は変わる。


知ってしまうと、知らなかった頃には戻れない。


自分が生きる世界をシンプルにするにはどうしたらいいのかなあ、と、最近思う。


バリエーションが多いと、しんどいのだ。