読書=今読んでるものを、書くようになる | 一段上を目指せ。「本物」を目指せ。

読書=今読んでるものを、書くようになる

「読書」のもうひとつの意味。


「書読」でなく「毒書」でもないのには理由がある。



今読んでいる本を、今度は自分が書く番になるという意味だ。(中谷彰宏さんの著書『昨日と違う自分になれる「学習力」』より)



読→書の順番。だから「読書」。


楽しんで読んでいる本は、無限に読みたくなる。


そうして情報が膨大に蓄積され、いつか堰を切ったようにoutputし始めるのである。


人間の欲求は、一次欲求であろうと二次欲求であろうと、限りが無い。


悪く言えば際限が無いが、良く捉えれば無限の可能性。



今自分が憧れている道で輝いている人、最先端走ってる人。


そういった人の言葉に雑誌で接するだけで、脳に運が蓄積される。



例えばヒルズ族。


部の先輩の話。就職先の社長がヒルズ族。


六本木ヒルズのレジデンス棟に住む人々は家賃200万円というステータスが目的というより、むしろそこに集う人が持つ「運」が目的だそうだ。


考えれば玉石混交、有象無象、数万のベンチャーが成功目指して生まれた。


その中のわずかな成功者には何か共通性があるはずだ。無いはずない。


成功者に接する事こと自体、共通性を吸収する意味があるのだ。




今の自分は、これまでした決断の集積。決してして運ではない。


そして、


これからの人生もまた、決断の集積である。



その決断を運任せにしないできる事。


それを持つ事自体が「運」ではないか?才能ではないか?





自分は後天論者だ。何でも努力で克服できると考えて生きてきた。


何を克服するにも、ポジティブじゃなきゃ無理。


明るい表情の作り方、例えば「口角上げる」1つ知ってるだけで、人運が変わるかもと気付ける。


その気付ける事自体、運ではなかろうか。



前回の記事で「姿勢」の重要性を言った。


「本」と「末」の関係で整理すると、


その姿勢が「本」となる。いろいろな情報に気付ける、その情報で運を引き寄せる。「末」である。


その姿勢、本質、運を吸収する為に、「読書」をする。



良いものを「読」めば、良いものを「書」くようになる。


粗悪なものを読む「毒書」でない、「読書」がしたいものだ。