20080422 | echo

20080422

朝、メグロナルドで2時間作業。午前、机仕事。午後、和光市、品川。直帰。夜飯はロールキャベツ。食後、NY。あいうえおのき。大統領のところさ!泥濘。ラム酒。インターネット。1時就寝。



●死刑を考える


殺人事件の被害者遺族でも、死刑反対論者は絶対にいると思ってネットで探し始めたら、直ぐ見つかった。やっぱいるよなぁ。原田正治氏 。←これ興味深いです。死刑肯定論者がよく言うこととして、「被害者感情を鑑みて極刑に処するべき」というのがある。が、原田氏は法相に対して、「死刑ではなく謝罪と償いを求める」という上申書まで提出して、死刑を止めようとした。が、結局死刑は執行された。いわば、「被害者感情を踏みにじって死刑が執行された」ケースである。


それと昨日も書いたが、理論上「死刑」は「正義」と全く関係がない。仮に殺人犯を死刑に処するのが「正義」なら、死刑の行為者が誰であっても、変らず「正義」でなければ理論上おかしい。だが実際は、国なら「正義」だけど、被害者遺族含め国以外の誰かなら「犯罪」となり、そして断罪される。


以上から分かることは、「死刑」は、「被害者感情への配慮」とか、「正義の実践」なんてものとは、全く関係ない原理で行われているということだ。では、「死刑」とは何か?


国家とは、ある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。(マックス・ウェバー)


萱野さんの国家論は、このウェバーの定義を出発点としているのだが、要するに「死刑」とは、「殺人犯」に対する「国家の報復」なのだ。「殺人犯」は結果的に、「物理的暴力行使の独占」を根幹とする「国家」への挑戦者となってしまうから。従って厳罰を課す必要がある。もちろん治安維持や犯罪抑止等、なんやかんやと色々な思惑もあるのだろうけど、基本原理は、「国家」の「物理的暴力行使の独占」を維持するために、その挑戦者である「殺人犯」への「報復」であり、他の被統治者に対する「見せしめ」なのだ。


ということが、もっと分かりやすく、詳細に、萱野さんの本には書かれている。しつこいようだけど。