20080421 | echo

20080421

有給休暇取得。午前、イクタナルドで3時間作業。午、家に戻りて鱈子のゲッティーを食す。午後、再びイクタナルドへ。4時間作業。夜飯はロールキャベツ。食後、NY。泥濘。ラム酒。久し振りに浅川マキ。町の酒場で、酔い痴れた女に、声をかけてはいけない。0時半就寝。



●山口県光市の母子殺害事件 死刑判決


僕も小さな子供を持つ親だから、強く死刑を求める本村さんの気持ちを理解するのに、大して想像力を必要としない。だが、だからこそ、その逆へ、つまり「死刑は不当」という方向へ、想像力を働かせてみることに、大きな意味があると思って、一日中そればかり考えていた。


まず、僕は出社一番、ネットで裁判開始のニュースを見た。それから実際に死刑判決が下されるまで、気になって、何度かネットのニュースをチェックした。「気になって」とは、つまり死刑判決を期待していたのだと思う。その感覚って、我ながらかなり不気味だと思っているのだが、不気味だと思いながらも、尚且つ死刑を期待してしまうということは、それが、僕の社会を見渡す心の目の限界とも言える。


僕は、犯人の元少年の人権云々とか、更正の可能性云々とか、そんな視点で「死刑を不当」と考えることは、とてもできそうにない。けど、違う視点では、「死刑なんて、ふざけんなよ!」と思うのだ。


死刑にとって本質的なのは、したがって、「法を決定する権力が、殺人をおこなう権限を保持している」という事態にほかならない。合法なものと違法なものを決定しながら殺人をおこなう権利、これが死刑の基盤となっているのである。決定と執行の一致といってもいいだろう。この一致はもちろん、殺人だけでなく暴力一般にまであてはまる。暴力を合法なものと違法なものとに分割しながら「合法な暴力」を独占的に行使する権利こそが、国家のあらゆる実力行使(逮捕、監禁、強制執行・・・・)をなりたたせる。<萱野稔人『国家とはなにか』より>


犯人の元少年を、国が殺すのは合法だからといって、本村さん自身が殺せば、それは殺人で違法となる。萱野さんも指摘しているが、つまり「死刑は正義とは全く別次元の話」なのだ。もし犯人の元少年を殺すこと、死刑が正義なら、本村さんが殺しても正義のはずだが、実際は犯罪となり逮捕監禁される。だから死刑を認めるということは、単に国家による独占的な暴力に対して、お墨付きを与えることに過ぎない。それはムカツクのだよ。国家による独占的な暴力に対して、具体的に抗うことはできないにしても、せめて気持ちの上だけでも抗い続けるためには、積極的に「死刑」を認める態度はゴメンなのだが・・・けど、もし自分の家族が被害にあったなら、そうも言ってらんないのも事実だ。まずは全力で自分の手で殺すことを考えるだろうけど(ってすごいこと言ってる)、無理だろうから、死刑に期待をせざるを得ないのか・・・? うむむ、難しいのだよ。


※参考までに、納税について


国家が<暴力への権利>を手中に収めているということ。これこそが、国家だけが人びとからカネを奪っても犯罪にならないことの根拠である。われわれの問いはこうであった。なぜ国家は人々の労働の成果を税というかたちで収奪することができるのか。暴力の行使が<権利>として確立されているということが、その理由である。<萱野稔人『カネと暴力の系譜学』より>


「国の税の徴収」と「暴力団の恐喝」の根本原理は同じだ。拒否すると脱税で逮捕されるかもしれないという暴力の脅しと、拒否すると殴られて東京湾に沈められるかもしれないという暴力の脅し。どちらも暴力による脅しが原理となっている。違いは、国の暴力は合法、暴力団の暴力は違法ということ。そして、違法合法を決めることができるのは、他の組織が太刀打ちできないほどに巨大な暴力を有する、国家だけ。萱野さんの本はオモロい。