自戒文。 Y.O.U.
仏教では、何かに集中し、それに一体化するイメージで瞑想することを「止」、何かを観察し、分析する瞑想のことを「観」と言うそうです。
瞑想とは少し違いますが、物事を考えるときの姿勢というものも、大体、その二つに分けられるように思います。
対象物に対し、同じ高さで、同じ目線で、究極的には同化する気持ちで思考を展開していくか。
対象物を含めた周囲を俯瞰し、高いところから全体を見渡すように思考を展開していくか。
つまり、一人称が「私」の物語なのか、そうでないか、の違いです。
僕は主に、後者の目線でした。
リーダであるには、この目線が必要だという持論からです。
でも、前者の目線を求められることもあるんですよね。
そのことに気付いたのは、恥ずかしながらついつい、最近のことです。
自分も含め俯瞰していたので、「自分の意見」を言うことが苦手でした。
大抵が一般論、より多くの人が支持する意見が正当、という考え方でした。
周りもこうだと言っている、誰々がこう言っていた。
僕の意志は、それがなければ自信を伴わない、脆弱なものでした。
いつしか、無難なことしか考えられない、凡庸な脳になっていたようです。
仏教では、「止」の瞑想なくして「観」の瞑想はあり得ない、という考えのようです。
まずは「止」の瞑想。そこから「観」の瞑想に推移する、という。
浅知恵ですけど、僕はそう解釈しました。
どうやら順番を間違えました。
「止」の目線を持たずして、「観」の目線で考察していた自分。
未熟にも程がありました。
ただ単に、傲慢なだけでした。
まずは物事と対等な目線で向き合う姿勢。
すごく、大切なんだな、と身に沁みました。
人生、まだ三分の一も生きていません。
今のうちに、しっかり軌道修正しないと。
気付かせてくれて、どうもありがとう。
瞑想とは少し違いますが、物事を考えるときの姿勢というものも、大体、その二つに分けられるように思います。
対象物に対し、同じ高さで、同じ目線で、究極的には同化する気持ちで思考を展開していくか。
対象物を含めた周囲を俯瞰し、高いところから全体を見渡すように思考を展開していくか。
つまり、一人称が「私」の物語なのか、そうでないか、の違いです。
僕は主に、後者の目線でした。
リーダであるには、この目線が必要だという持論からです。
でも、前者の目線を求められることもあるんですよね。
そのことに気付いたのは、恥ずかしながらついつい、最近のことです。
自分も含め俯瞰していたので、「自分の意見」を言うことが苦手でした。
大抵が一般論、より多くの人が支持する意見が正当、という考え方でした。
周りもこうだと言っている、誰々がこう言っていた。
僕の意志は、それがなければ自信を伴わない、脆弱なものでした。
いつしか、無難なことしか考えられない、凡庸な脳になっていたようです。
仏教では、「止」の瞑想なくして「観」の瞑想はあり得ない、という考えのようです。
まずは「止」の瞑想。そこから「観」の瞑想に推移する、という。
浅知恵ですけど、僕はそう解釈しました。
どうやら順番を間違えました。
「止」の目線を持たずして、「観」の目線で考察していた自分。
未熟にも程がありました。
ただ単に、傲慢なだけでした。
まずは物事と対等な目線で向き合う姿勢。
すごく、大切なんだな、と身に沁みました。
人生、まだ三分の一も生きていません。
今のうちに、しっかり軌道修正しないと。
気付かせてくれて、どうもありがとう。