achoのブログ

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Amebaでブログを始めよう!

先日のブライダル 新婦お手紙で使われた曲。




元気ロケッツって いかにも元気そうびっくりってイメージで

あんまし聴いたことなかったけど・・・

この曲はシーンにぴったりで じんわりきてしまいましたほろり

古い曲なのかな? アニソン??




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ジューンブライドです教会

あじさいブーケ 可愛すぎるでしょハート。



先日 父が亡くなった頃の2週間 無理を言ってお仕事を休ませてもらい

ラジオの現場は 元々ADのお仕事を紹介して下さった

私の音響の師匠が 急遽代役を務めてくれました。



随分前の記事になるんですが 
 

今日のブログは その師匠 光香音ray さんが 偶然ラジオ局で遭遇した 

“素敵なできごと” の記事を転記させてもらいます。





『あるラジオ局での素敵なできごと』


いつも取材でお世話になっている地方ラジオ局
たまたま朝から生放送に関わることになりました

そこでけさ 初めて知ったこと
今日付で39年間のアナウンサー人生に幕を閉じる方がいました

その方は朝から夕方までの各番組内で数回 3分枠のニュースを読む人

定年後も一年間 嘱託でその勤務を果たしたその方は
昔 その局の看板番組を持っていました

朝の生放送でニュースを読んだあと
井上 順の「お世話になりました」を皆で歌い
著名パーソナリティーから花束を贈られ
刻まれた目尻のシワに涙をためておられました

ジェットストリームの城達也を思わせるような低いボイスに
リスナーから勇退を惜しむメールがあとを絶ちません・・

担当の生放送も終わり
昼から残務をこなしていた局内から
時折低い声が聞こえてくる

パソコンを打つ手が止まる・・

どうしても引き寄せられるそのトーンに
誰もが聞き入っていたと思います

またその声は一言一言滑舌良く 
丁寧な語り口調は勇ましさをも感じました

しばらく時を忘れ夕方まで残務処理をしていましたが
また局内に 今日の馴染みのボイス「on air」が聞こえてきます

しばらくすると局内放送が流れ
「只今のニュースを以て○○アナ 39年間 最後のアナウンスを終えられます
お手すきの方はスタジオ前までお集まりください」

アナウンサーはスタジオからリスナーにニュースを読んでいるから
局内放送は聞こえません

局長をはじめ30人ほどが局内のスタジオ前に集まり終りを待ちます

「以上ニュースをお伝え致しました」

CMに切り替わり スタジオ内のパーソナリティーや関係者から労う声・・・

そして 重い扉を開けて出てきた・・瞬間

30人の拍手喝采の嵐

たちすくんだ瞬間 顔がほころび 口をつぐみ 目尻にシワを寄せられた

顔が赤くなって後ろに倒れそうになったが 読み終えた原稿を振りかざして言われた

「ありがとうございます!今日は泣くまいと決めていましたがダメでし・・・」

最後が言葉にならない・・

「人生を野球に例えるなら1塁が20年 セカンドベースが40年・・・・」

「たった今 サードベースを蹴りました ホームベースに向かうこの瞬間に
皆さんが居てくれて私は本当に幸せです!本当に本当にありがとうございました!」

顔がくしゃくしゃになっていました でも素敵な紳士でした

花束を片手に全員とハイタッチ 局長らと抱擁を交わされ
みな涙がしばらくとまりませんでした・・・


40年近くも一つの事をやり遂げた 生き方
心底から感銘を受けました

自分もまた一つ目尻にシワが増えた気がします

素敵なできごとでした☆彡



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この記事に寄せられた たくさんのコメントもステキでした。

よかったら のぞいてみて下さい  (*´˘`*)   光香音【Kokaon】ray








先日 父が亡くなりました。 (いきなり リアルな話ですんません)

享年70歳でした。



自営業の養鶏(卵屋さん)一筋でずっと体をはってきた父。

5年ほど前からパーキンソン病という難病を患い

体が思うように動かなくなり あちこちが痛い痛いって

毎日口癖のように言ってた父でした。



2月の終わりごろから 急に食べれなくなり歩けなくなって

「お父さんがICUに移動した!」と母から電話があり

慌てて見に行ったときには 顔つきが変わり

言葉も何を言ってるのか 分からない状態になっていました。



肺炎が悪化して 意識もなく荒い息をしている父。

医師から

「喉に穴を開けて機械的な人工呼吸器を取り付けるか

それとも 今している酸素マスクだけでよいか ご家族でご判断を。

酸素マスクだけなら 何日もつか分からない事を覚悟して下さい。」

と言われ 自然のまま楽にしてあげたいと決断し

それから10日ほどで父は息をひきとりました。



元気な頃は 頑固でわが道を行く父にうんざりしたり

嫌いになって辛く当たった時期もあったけど

すっかり弱りきって苦しんでいる父をみた10日間は

本当に愛おしく いろんなことを思い出しては涙が出るばかりでした。



看護士さんから

「こんな状態になっても耳の機能が一番最後まで残ってるんですよ。

だから最後の最後まで 精一杯の言葉がけをしてあげて下さいね。

お父さん ちゃんと聞いておられますから。」って言われて

「ごめんなお父さん。今までほんまにありがとう。」

ていう懺悔と感謝の気持ちしか出てきませんでした。



最後の息を引きとる瞬間

「お父さん ほんまに今まで御苦労様でした。ありがとうありがとう。。。」

と号泣してる母の姿を見ては泣け 本当にこれが最後だと思うとまた泣けました。




父が危篤の最後の数日 姉一家がどうしてもの用事で東京に行っていて

伊丹空港に帰ってきた飛行機の到着時間と ほぼ同時に亡くなった父。

きっと 姉夫婦や孫達が無事に飛行機を降りるのを見守ってから

息を引きとったのかな。。。って思うしかありませんでした。



ずっと頑固でわが道を行く父でしたが 最後の最後は

ちゃんと家族みんなを守ってくれたような気がしました。




父との思い出は 子供の頃 悪さをしては真っ暗な蔵に閉じ込められて

泣きわめいて おじいちゃんにこっそり出してもらってたこと。

勉強が大嫌いで 通信簿を見せる日は決まって何時間も正座で説教をされたこと。

でもその日以外はいつも大らかで よく遊んだり話したりしてくれたこと。



短大の時 学校がバカバカしく思えて 「中退して就職したい」

と父に相談したとき。 「今やるべき事を中途半端にする奴は

この先何をやっても中途半端な人間になる。」と言われ

父の一言のお陰でやり直せたこと。



社会人になってからも 私は父にたくさん迷惑と心配をかけ

「お父さんの急な白髪は 全部お前のせいやからな!」って

兄に怒鳴られた時期もありました。




父と過ごした10日間は 忘れていた懐かしいことを思い出しました。

素直になれず 辛く当たってしまった時期もたくさんあったけど

母と一緒に最後まで看取ることができ 悔いが残らない過ごし方ができたように思います。




お父さん 本当に御苦労様でした。本当にありがとう。

母のこと ずっと見守っていてあげてください。