覚書 本日5月21日
成田悠輔先生と尹雄大先生の対談を拝聴。

尹先生が「心と身体」、言い換えれば哲学、武道を通じて体認された感覚、の将来の展望について思索の材料を求める一方、成田先生は心と身体そのものを否定しているけど何か?という目線を前提にお話しされていた印象。


成田先生を安易に語る事はおこがましいが、無礼を承知で言えば文系のマッドサイエンティストだった。旧来の社会的しがらみを排除した多面・多重・多次元的視野でのお話しはモダンアートを想起させる。歴史や人道や共同体の倫理意識を、執拗にフラットにして思考実験をされているように見受けられた。

その徹底ぶりは、ご自身でも自分の視野、研究こそが、今後の人類史のキーとなると自覚しているのではなかろうかと邪推したくなる。人類みんな金魚だったら、という例えもされていたが、そのぶっ飛び具合はおのれの人間性を捨ててでも人類史を開拓せんとする英雄の面目をみた気がする。(考えすぎだろうか?)

非難する意図はまったくないが、そんなお二人の対談は、お互いに別々の方向を向きながらも、最大公約数的な会話を模索し、最終的には何とか一曲を奏で終えたようだった。

淡麗系鳥塩ラーメン(トリュフオイルのせ)に、ブリやイサキのお刺身と赤だしのお味噌汁とお新香を付けたような対談だったが、全てのクオリティが保証されているため、お二方それぞれのこだわりを味わう事ができた。あまりにそそられたので帰途にステーキを食べた。−¥1680

内容。まず尹先生が「昨今の教育」に関する所見を成田先生に伺い、成田先生が「いわゆる時間を守る、言われた事を忠実にやる、逸脱したものは生きていけない、という学校教育は群衆行軍をさせるためのフィクションでありポンジスキームである」と位置付ける。同時に、学校教育がしょーもない点は「ある意味、価値観がこうでなければならないというワケではないよ、学校教育では大した事教えないよ、というメッセージではないか」と述べる。(そんな事考えるのは成田先生だよ。会場の雰囲気的にそんな成田節を聞きに来た人が多かったみたいだ。)

多分、尹先生は、既存の教育の枠組みが人間の生命力をいかに束縛し萎縮させるかという観点を踏まえ、物質文明の進んだ先で人間がどう変質するか、その先で心と身体がどうあるべきか、という方向でお話しをされたかったのだと思われる、が、そこは成田先生である。「心と身体は諸悪の根源」「人類は滅びてもいい」という極論を前提とするから完全にミスマッチ。

ミスマッチながらも、以下の話題に移る。若者が家族を嫌い一人暮らしをしている、孤食を好む。ゴリラもそうだ。先祖帰りだ。元々、人と一緒に食べる、テーブルマナーなどがうるさい会食は息苦しいが、それだけにビジネスや政治の場では意味をもつのではないか。会社の飲み会は学校教育と一緒。

今までは孤食すると滅亡するという本能から家族を大事にしていたが、今は家族を中心とした社会構造は崩壊しつつある。

各々がイチ個人の快適さを追求する世界だ。各個人の快楽追求以上の大義があれば世の中変わるんじゃない?歴史上の例では独身税を定めた結果、貧困のために結婚できなかった若者たちが余計結婚しなくなった例がある(ブルガリアだったかな。)対策として子供を産まない事で有罪にする、インセンティブ、洗脳教育などもあるけどこれをしていたら昔の暴力に逆戻りするよね。

ただ昔を振り返れば「個」なんてものはなかったじゃないか。未来も価値観さえ変われば暮らしやすくなるんじゃないか。

例えば最近、権利や責任が際限なく求められ、SNS上ですぐ炎上し、それが原因で自殺する方もいる。人前に出る辛さ、リスクが無駄にある。こんなものテキトーにバーチャルなアバター同士でやり取りさせて、アバター同士がどんなに失言、失礼な事をしても全く気にしない、ということが当たり前になればいいじゃないか。そもそもSNSやらYouTubeやらの文化活動は人類の生存になくてもどーでもいいものだ。このイベントだってなくてもいい。(私見/両先生を生で感じられる時点で私にとって有意義だ。)

警察や消防など共同体の維持に必須なものを除いて、多くの職業やサービス、活動はは無意味なものだ。無くても人類は滅びない。

どうでもいいもの達に対して社会が意味を付与するから生きづらい、無駄が多い世の中になる。無駄なもの(スマホ・ネット・SNSなど)を大切にし始めるから暇な時間の過ごし方がわからなくなる。クレーマーやらいわゆる物申したい系のオジサン、お爺さんもその産物だ。

もっとバーチャル世界での責任をミニマムにして、逆に責任をとらねばならない範囲(多分、犯罪や訴訟に関わるところ?)を明文化すればいいのではないか。

おそらくひろゆきのYouTube動画なんかも、ひろゆきAIを作成してそれっぽい事を言わせ続ける事もできる。そうしたら本人は必要なくなり、150年後にもひろゆきAIが延々と動画放送をし続ける事もできる。価値は希少性から生まれるが、こうして希少性がなくなれば価値観が大きく変わるのではないか。ーーーといった感じで民衆が価値観を変えればよい、とその方向性についての対談となった。

あとは私見。
価値観を変える=幸福とは何かが変わるとも解釈できる。幸福の尺度が変わるのは、イチ個人では結構な生物的変質と同義である。(小さな例えではダイエットに成功する、筋トレを日常化する、アルコール依存を脱却する、等。大きな例えでは、生涯にわたり武術修行を続け、術理に没入する、等。)

これが出来たら苦労しない、という内容ではあるが成田先生の視点は次元を超越し融通無碍の境地にあるため、建設的かどうかを除いて単純に面白くて知的な刺激になる。しがらみを除いて初めて見える風景があるのだ。という示唆に富んでいる。

尹先生が胡蝶の夢みたいだと仰られていた。胡蝶の夢も成田先生の言説も、ぶっとんだ極論を基底とした視野の広さだったり、反証可能性の検討だったり、四次元以上のところに視座を置く点に意味があると思われる。しかし個人的には孔子の「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんや」の方が好きだ。たった今己が歩む一歩に注力したい。非難の意図はなく今の自分はそこを課題とする、という意味で記す。

眠いので以上。
明日は1日読書や瞑想をしながら咀嚼して考えよう。

何を考えるかは明日決めればいいが、たぶん身体はすでに知っているんだろうな。