まぐろアボガドの活動がストップしているため、コラムのスタートです。
本日は2回目。
私は『そば』より『うどん』が好きなんだが、日本人の実際の統計はどうなんだろうか。
丸山家では中学三年生までの大晦日は、毎年ある論争で丸山家は揉めていた。
正確に言えば隆司と陽子の喧嘩である。
原因は年越しそばなのか、年越しうどんなのか。
父・隆司(たかし)は少年時代からそばを食べていたからと理由で年越しは絶対そばなんだと言い張る。
一方、母・陽子はそばが嫌いだし、食べた気がしないと言い張る。
好き嫌いを出されたら太刀打ちできない。
私が中学三年生の時、父は無理矢理そばを茹で始める。
それを見ていた母がキレ始める。
全体の雰囲気を重視する少年ひろし。
母が鼻を曲げれば、新年である1/1は最悪な空気でむかえることになるのは間違いない。
それはお年玉にも確実に影響が出てくる。
迷う必要がどこにある?
しかし、父にはいつもお世話になっている身。
恩返しの一環で父の味方をするのも大事であるが、お年玉に響いてくるのは中学生の私にとっては大きい。
昔から丸山家では小遣いがない。
毎月の給料ではなく、中学生にして年俸制なのだ。
だから母の味方をするしか選択肢はない。
言い方がちがうなぁ。
『うどん(母)の味方をするしかないのだ。』
結果この年の年越し○○は、丸山家では初となる父はそばで、母と息子はうどんという2次元展開となったのである。
当然、冬休み明けの学校でお年玉の金額や正月にあったことを話をする。
大抵一番最後に出てくるのが「そば食べた?」である。
あの頃は「うどんを食べた」なんてことは絶対に言うことができなかった。
むしろ恥ずかしいと思っていた。
だから、
『うっ、、うん。たっ、、食べたに決まってんじゃん。』と、歯切れが悪くなる。
実際食べていないものを食べたって伝える技術は中学生には難しい。
しかし、中学生丸山はさらっとぎこちなく嘘をつくのである。
私にとって『うどん=母』なのだ。
2次元展開以降の年は、そばうどん論争がなくなり父はそば、母・息子はうどんは今もかわっていない。