「此れは日本軍による大逆殺が
有った事にしよう」・・
日本軍接近を知った蒋介石の南京脱出記録
国民党公式文書宣伝工作概要に
記載されている
1937年12月7日・・
南京大虐殺の疑問
当時の南京人口20万人に対し殺害20万人
事件後25万人に増加?
南京市長・・全兵士立ち入り禁止保護区
安全地帯に市民を移動させ
事件後ジョン・ラーベ氏が安全に守られたと
感謝状を日本軍に与える
支那国民党が漢口で
国際記者会見を300回開き
一度も虐殺の発表が1件もない
シナ側の南京証拠写真は
厳寒である事件現場に
戦死した中国兵全員が夏服??
支那に買収され国民党の顧問であった
米宣教師マイナーベイと記者トデイーンバーリ
が捏造本「戦争とは何か」を書き世界中に広まる
その後アイリスチャンの「南京オブザ・レイプ」捏造本を元に
南京捏造映画が12本以上も制作公開され
南京虐殺が世界に定着した
日本軍はそれ程残虐だったのか?
パラオぺリュリュー島の守備隊
日本守備隊1万2000名に対し米軍4倍の兵力による
ペリリュリュー島陥落攻撃が迫っていた
中川守備隊長・・島民が戦闘の犠牲にしては
成らないと島民の強制疎開を決定
話し合った島民は「自分達も一緒に戦わせてください!」
聞くなり激高した隊長は
「帝国軍人が貴様ら土人と一緒に戦えるか!!」
日本人は仲間だと思っていたのに。。。
見せ掛けだったのか、、
裏切られた思いと悔しさに皆涙を流した
空襲を避け夜の疎開が始まる
誰一人見送る日本兵士が無く悲しさと悔しさに
村の青年達は悄然と船に乗り
船が島を離れた瞬間
日本兵全員が浜を走り出して来たそして一緒に
歌ったあの歌を歌い手を振る先頭に中川隊長が居た
其の時悟った。。あのときの言葉は
自分達を救う為だったと
守備隊は」サクラ・サクラ」の電文を最後に
73日後全員が散っていた
我々の祖先と日本人が
言われなき
罪を着せられている!!。