前回の記事↓
今回は、交換留学生として16才でたった一人でオーストラリアのコフスハーバーへ向けて出発した、その続きです。
ケツメイシの「夕日」という曲を聴くと、オーストラリアのダーウィンで見た夕日を思い出す、という話に繋がります。
…その予定です。
まずは、地元の空港から成田空港まで行き、成田空港でシドニー行きのカンタス航空へ乗り換え、シドニー空港でコフスハーバー行きのプロペラ機に乗り換えます。
この辺はうろ覚えなのですが、たしか成田空港かシドニー空港で、同時期にオーストラリアの他の町に留学する札幌の女の子と偶然会って、少しの間、シドニー空港で行動を共にしたのを覚えています。
その子はシドニーからアデレードへ乗り換える予定で、私より早い出発でした。
二人でトイレに行き、手洗い場で顔を洗って、ペチャクチャと話をして、その子が「そろそろ行くわ~」と言ったので、搭乗口まで見送ったのですが…空港係員が何やら慌てていて、なんと、その子が乗るはずの便は今さっき出発しちゃったよ!とのこと。
その子、時間を間違って覚えていたようです(笑)
まじか!と焦る私達。
まだ時間に余裕があった私は、その子と一緒に解決策を探しました。
まず、アデレード空港で待つであろうホストファミリーに連絡しなきゃ!ということで、手書きのメモを頼りに、公衆電話からファミリーの家に電話をすることに。
(手書きメモとか公衆電話とか時代を感じますね~)
そしてパニクッている彼女から
「お願い!一生のお願い!私の代わりに電話して!」
と必死に頼まれ、私が電話をすることに。
私だって英語がペラペラなわけじゃないし、電話でこの状況を説明するなんて。。。でもやるっきゃない。
しどろもどろではありましたが、なんとか状況を分かってもらえて、空港職員の手助けもあって、代わりの飛行機を手配してくれることになったんじゃなかったかな?
その辺は記憶が曖昧。
ただ、そーゆーことがあったから、私はめっちゃ早く搭乗口で待機していたのを覚えてます(笑)
そして、プロペラ機に乗って、いざ、コフスハーバーへ!
空から見たコフスハーバーは、当たり前ですが今まで見たことがない景色で、これから自分はここで暮らすのだ、と不安と期待が入り交じった気持ちになりました。
午後の一番暑い時間。
コフスハーバーの空港には、留学支援の団体の人達が大勢出迎えに来てくれていました。
「よく来たね、一人でよくやった!」ってギュッてハグしてくれて。
あぁ、いい人達だなぁって素直に嬉しかったです。
旅の疲れと、無事に辿り着けた安堵から、急に眠気が襲ってきました。
が、ここからが本当の勝負。
周りには日本人はおろか、日本語を話せる人もいません。
ホストファミリーの車に乗り込むと、同い年のホストシスターがめっちゃ話しかけてきました。
早すぎて全く何言ってっか分かんねぇ。。。
ホストマザーが、
「えちでこはまだあまり英語が話せないから、ゆっくりはっきりと話なさい」
と言ってくれたのですが、ホストシスターが鼻で笑いながら、スローモーションみたいに、コントみたいに、めっちゃゆっくり話し始めました。
めっちゃムカついたのを覚えています。
勝ち気な日本人の私は、ニコニコ笑いながらも、絶対この女と喧嘩出来るくらい喋れるようになってやる!と思ったのでした。
その後も彼女には何度も馬鹿にするような言動をされて、私は英語がうまく話せないだけで、同い年なんだからガキ扱いすんじゃねぇよ!と何度思ったことか。
このホストファミリーには最初の3ヶ月だけお世話になり、その後に4つのホストファミリーにお世話になりました。
最初のホストファミリーの家に滞在中、留学支援団体主催の、「各国から来た留学生同士で1ヶ月バスでオーストラリアを旅しよう!」というツアーに参加し、そのツアーが私を大きく変えたと思っています。
実は、最初の1ヶ月くらい、コフスハーバーの高校にうまく馴染めずにいました。
日本の高校と違って、「自分のクラス」っていうのがなくて、選択した授業がある部屋に移動して歩く、大学スタイル。
だから、休み時間やランチタイムは、校内のどこにいても良いし、誰といても良いし。
だから、既に出来上がっている仲良しグループがあるわけで。。。
そして日本と違って、様々な人種が暮らす国なので、もともと外国人に慣れている生徒達にとって、日本人の私なんて珍しくも何ともないわけで。。。
日本だと、学校に留学生が来たら、みんな仲良くなりたくて色々話しかけると思うんです。
東京とか都会は分からないけど、少なくとも、北海道の学校なら。
でもオーストラリアはそういう感じではないわけで。
英語に自信がなく、自分からテンション高く話しかけるタイプではなかった私にとっては、この状況はもう苦痛でしかありませんでした。
今まで日本では、友達を作るのに苦労をしたことがなかったから。
入学式やその次の日には、仲良く話せる友達が自然と出来ていたから。。。
授業中は良いのです、ただ席に座って、勉強してれば良いのだから。
その日隣りに座った人とちょっと話したり。
でも、休み時間を過ごす友達や、一緒にランチをする友達を見付けられず、トイレで泣きながらサンドイッチを食べていたのです。
たぶん、一人ぼっちでごはん食べてる淋しい奴って思われたくなかったのでしょうね。
16才なりの変なプライド。
そんな中で出発した留学生同士のオーストラリア一周ツアー。
16ヵ国からの留学生が参加していました。
みんな留学生だから、英語が完璧じゃない者同士。
その中でも、日本人はずば抜けて英語が下手でしたけども。
このツアーはほんっとに楽しくて、壮大なオーストラリアの道をバスで旅して、キャンプ場でテントを張って、みんなでご飯を食べたり。
朝起きてから夜寝るまで、ずーっと仲良しグループといる感じ。
男女混合なので、もちろん男女交際に発展する人達もいたり、たまに不真面目な人達で集まってこっそりビールを飲んで騒いだり。
みんな各国の文化に興味があるので、それぞれの国を紹介する出し物を考えて、披露したり。
気付けばみんなと対等に話してる自分がいて、ツアー中に毎日書いていた日記も、自然と英語になっていたり、どんどん自分の英語が上達しているのが分かりました。
ずっとこの仲間と居たい。
コフスハーバーに帰りたくない。
あのホストシスターと暮らしたくない。
もう学校行きたくない。
そう思っていました。
でも、楽しい時間はあっという間に過ぎていきます。
そんな思いの中、ツアー終盤に、オーストラリア北部にあるダーウィンに滞在することになりました。
ダーウィンは夕日が綺麗だと言われているそうで、数人で夕日を見に行くことになりました。
正直、夕日とか興味なかったのですが、何をするかじゃなくて、誰とするかっていうのが重要だったので、私も行く行くぅー!と。
そして、そこで見た夕日に、涙がホロリと溢れたのです。
みんな黙ってジーっと沈んでいく夕日に見入っていました。
恥ずかしくて、泣いてることがバレないように、腕で涙を拭いました。
みんな何を考えていたのかな?
今となっては、聞くすべもないけど。
私は、夕日を見つめながら、自分を奮い立たせたのを覚えています。
「このメンバーが楽しいのは、英語を母国語としない人間の集まりだから。ここなら疎外感や劣等感を感じないから。でもそれじゃダメ。そんな考えでいるのは悔しい。私は、コフスハーバーで、あの高校で1年を過ごすと決めたのだ!日本にいるみんなが応援してくれてる。アホだと思われてもいい、底無しに明るい自分を演じて、学校のみんなに話しかけてみよう。それでダメなら、どうしても辛かったら、その時は日本に帰ればいい。」
そう決心しました。
それが、ケツメイシの「夕日」を聴いて、思い出すこと。
さりげなく沈む夕日を見て
悔しくて泣いたあの涙を
腕で拭い去り誓った
あの日あの時の夢を今も見ろぉ~
ほらね、夕日に繋がった!
よかったー。
そして、ツアーが終わり、コフスハーバーに戻りました。
第一ホストファミリーの家に戻り、第二ホストへ移るまでの残りの1ヶ月を過ごしました。
ホストシスターの性格の悪さは相変わらずでしたが、軽くあしらうことも出来るようになったし、その頃には考え事も英語でするようになっていたので、本格的な喧嘩とまでは行かなかったけど、言い合いする程度までは英語力もつきました。
学校では、トイレの個室でランチをする日は数日続きましたが、その後に行動を起こしました。
同じ学年と思われるグループを回って、めっちゃ陽気に「HELLO!」って言って回りました。
その中で、良い感じのグループに居座り、めっちゃ喋りまくりました。
文法なんてどうでもいい、とりあえず伝わればいい。
そういうのを繰り返しているうちに、仲間に入りたいな!と思えるグループがあり、シレ~っとランチ後の休み時間に加わってみたのです。
そして、ある日からシレ~っとランチも一緒にするようになり、気付けば休み時間は常に一緒にいるのが普通になり、休みの日のお出掛けも誕生日パーティーも普通に一緒に行けるような友達が出来ました。
帰国する数日前、10人くらいの友達と私のホストファミリーがグルで、サプライズパーティーをやってくれました。
幸せ者です。
第一ホストファミリー以外のホストファミリーにも恵まれました。
第二ホストファミリーは、コフスハーバーの隣町にあるエメラルドビーチに住むパパとママの二人だけ。放課後は、毎日ママとクッキーを食べながら、ガールズトークで盛り上がりました。
パパは皮膚科医で忙しい人でしたが、休みの日は必ず私を車でどこかへ連れていってくれました。(ニキビに効く薬をタダでくれて、お肌が劇的に良くなりました)
第三ホストファミリーは、ママだけでした。ママは仕事が忙しく、言ってしまえば独り暮らしみたいで、それはそれで楽しかったです。
第四ホストファミリーは、パパとママと2人の女の子達。親戚の中でも私が一番年下だった私にとっては、小さい子達と過ごすことがとても新鮮でした。
第五ホストファミリーは、エメラルドビーチに住むママとシスターの二人。ママは私が通っていた高校の先生でもあって、めっちゃ怖いと言われていた人。最初はかなりビビっていましたが、学校以外ではものすごく面白くて優しくて、よく二人でカフェで2時間とか過ごしました。料理もたくさん教えてもらいました。シスターは20代でモデル。めっちゃ綺麗ですが、言葉が汚い!何度言い合いをしたことか。でも、それも辛口な彼女の私への愛情表現。ちょっかいをかけたかっただけ。
酸いも甘いもギューッて詰まった1年でした。
エメラルドビーチを一人でのんびり散歩もしました。
それなりに恋愛もしました。
友達と喧嘩もしました。
煙草吸ってるのバレて騒動になりました。
20キロ太って16キロ落としました。
私が帰国する日、たくさんの友達と、5組のホストファミリーと、お世話になった留学支援団体の皆さんと、ほんとに大勢の人達が見送りに来てくれました。
ちなみに、あのホストシスターも。
なんか一人で号泣していましたけども?
私もつられて何故か泣きましたけども?
彼女、性格が悪いのは悪いんだろうけれど、もし彼女が第一ホストファミリーじゃなくて、第五ホストファミリーだったとしたら、状況は変わっていたのかもしれません。
もっと私の英語が堪能だったなら、彼女ともっと楽しく過ごせたのかもしれません。
そう思えたのも、あの日、あのツアーで、あの仲間と一緒に、あの夕日を見ることが出来たお陰。
私はあの夕日のお陰で変われたんだと思います。
涙を拭いながら、コフスハーバーからシドニー行きのプロペラ機に乗り、空の上からコフスハーバーを見下ろしました。
1年前も見た景色。
未知の世界だったこの景色が、今は思い出でいっぱいで、嗚咽を漏らして号泣してしまいました。
隣に座っていたオジサンは、そんな私が気持ち悪かったのでしょう。
ベルトサインが消えた途端、席を移りましたから(笑)
そんな、私の留学生活でした。
前の記事にも書きましたが、今と違ってスマホもない、ネット社会でもない時代。
LINEもSNSもないので、高い国際電話をかける許可を得なければ、両親にも友達にも電話をすることが出来ません。
コレクトコールという手段もありましたが、高い通話料がどっちに請求されるかってだけの話。
両親と電話で話をしたのは、1年間でたぶん5~6回くらい、それぞれ数分だったと思います。
それ以外は手紙。
アナログぅー!
英語しかない世界で生活をして、ふと両親や友達に向けて日本語の手紙を書いていると、どんどん弱音が出てきてしまって、読み返して恥ずかしくなって破り捨てた手紙が何通あることか。
そして、めっちゃ楽しいよー!っていう、当たり障りのない手紙にして出していました。
やっぱり、空港で母親が泣き崩れる姿を見て、「私は楽しんでるよ!心配しないで!!」と言いたかったんでしょうね。
弱音なんて吐いちゃいけん!と。
今じゃ母親に毎日のようにLINEして、毎日のように電話もして、めっちゃ弱音はいてますけども。
あれから20年。
自分も年を取ったけど、時代も変わってきて。
今留学中の子達は、どんな暮らしをしているのかな。
少なくとも、分厚い和英辞書と英和辞書を持ち歩いてなんかいないだろうな(笑)
私も1ヶ月で持ち歩くの辞めましたからね。
重いから。
でも、最後まで頼りにはなりました。
テスト勉強をするにも、質問文の意味が分からなければ、解答できませんのでね。
もし、娘のエマニエル(3才)が、いつか16才とかで留学したいと言い出したら、私は両親のように賛成し、応援できるだろうか。
それとも、高校を卒業してからワーホリとかでいいんじゃない?とか言ってしまうのだろうか。
これだけのネット社会になり、世界が身近になり、困ったらとりあえずスマホがあれば解決できる問題が多い時代でさえ、16才の娘を一人で海外に住ませることは不安だと思うのです。
多少、色々な国を見てきたからこそ、海外に対する不安もあります。
海外とは無縁で、情報が少ない時代だったからこそ、私の両親は悩みもせずに賛成してくれたのかもしれません。
いつか子供にとって一番の理解者となり、子供の選択を頭ごなしに反対することなく、出来れば全力で応援できる母親になりたいです。