巷に浸透した聖書ではない聖書解説の数々 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人、諸外国、宗教の世界、巷で語られる異邦人による聖書解説は、聖書記者、預言者、そして、使徒達が書いた注解書に記された

内容とは、本質が大幅にずれた解説、聖書を正しく解説されていないことは、神の言葉=大元を知れば知るほどクリアーに見えてきます。

 

翻訳書だけを読んで、原典言語で記された元の本に記された内容を

知らない場合、本当に書かれている意味は、翻訳者による訳を信じる以外ないのですが、その翻訳が正しくない、又その翻訳書を解説する人の解説が正しくなければ、元に書かれた本当のメッセージ、内容は

言語を知らない読者には見えないままになります。

 

以前キリスト教関係の英文の本が、日本語に訳されたものを見たことがありましたが、その翻訳書の中でものすごい違反を発見したことがあります。

書いてある内容を、翻訳者が勝手に大幅に捨てている、ある部分が

ごっそり抜けている翻訳を見ました。

面倒だから訳さないのでしょう。

タチの悪い翻訳の例ですが、今は翻訳機などがあるので、そんなことは言語が分からない人が、確認しても、翻訳されていない箇所が

あることは、見抜けます。

聖書にも、同様にそのようなことが行われているのです。

 

1)不適切な用語を当てがっている。

旧約、新訳という浸透したタイトルも、不適切なタイトルであり、

人に古い教え、新しい教えがあるという意識をずっと刷り込み続けているのです。古い=悪い、新しい=改良された教えと思うでしょう?

律法という言葉もそうですし、教会という言葉など完全に造語です。聖書にない意味の言葉を、翻訳で自分たちが考える思想を表す用語として作り、使われ続けている、元の言葉を正しく表さない迷惑な翻訳用語です。

しかも、創世記〜マラキには、教会という翻訳の裏にある言葉

カハール、ケヒラ、ギリシャ語ではエクレシア=神に呼び出された人々の群れを表す言葉を、「集会、群れ、会衆」などという翻訳で訳し、マタイ以降は、同じ言葉、カハール、ケヒラ、エクレシアを、

集会、群れ、会衆と同じ翻訳では訳さず、代わりに「教会」という

今まで使われたことのない造語、しかも教会という言葉は、神の声に呼び出され応答した人々の群れ=1つの群れの意味を全く表さない造語なのです。

その他諸々、言語を知らない場合は、翻訳という言葉でその意味するところがおおいかくされて、真実や深いところにどんどん掘り下げることができないものなのです。

こう言ったでしょう。「翻訳された聖書を読むのは、花嫁のベールの上からキスをするようなものだ」と表現されており、ユダヤ人詩人

ハイム・ナフマン・ビアリクが、ヘブライ聖書を言語で読まないとは、花嫁にベールの上からキスをするようなものだと言いました。

翻訳という「ベール」を通して読まれると、聖書のヘブライ語原文がもつ微妙なニュアンスや深み、真の意味が、翻訳、プラス人間の思想で覆われ、失われてしまうことを強調しています。

ちょうど、新郎がベールをかぶった花嫁にキスをしても、

その親密さを完全には味わえないのと同じだというわけです。

それが、翻訳の中にある難点なのです。しかも、聖書を聖書ではなく、人の思想を通して、曲げて解説している大問題があるのです。

 

 

2)聖書にない文章を勝手に挿入している。

原典にない文章を挿入していれば、それは本物とは違います。

マルコ7:19の、「イエスは全ての食べ物はきよいとされた」

などは、完全に翻訳者の挿入です。でもユダヤ人、神の教えを知る人は食べ物と言えば、イコールレビ記11章に記された神が創造された

きよい動物と理解している、この大前提が分かれば、翻訳を読んで

神の食規定が変更された!などとい間違った聖書解釈を避けられます。

きよくない清掃動物を食べる行為は、神が禁じている罪であり、

同時に聖別を汚す行為であることを、理解していない異邦人が考える思想です。異教徒と全く同じ生き方、汚れた生き方、神の宮である

人の体を汚す行為であること、使徒15章にいた異邦人イエシュア信者と同じ、基本的な教え、神の教えを知らない異教徒たちの発想なのです。聖別とは、神の民とされた人は異教徒のような生き方とは

決別すると教えられているのに、なんでもする自由を与えられた

という、罪を犯してい良いのだ〜という思想を、クリスチャンは

平気でしていますが、それが罪とも思わないのです。

なぜなら、神の教え=罪の基準、神が言われる教えを捨てて理解していないからです。

プラス、神の言葉が変更された!などという異端的教えは聖書ではない教えであり、神の教えではないということを、神の言葉から正しく理解していれば、間違った聖書解説に思索、行動、生き方を汚染、

洗脳されることが避けられます。

 

3)もう一つの違反は、聖書解説自体が間違っているのです。

それは、聖書の解説を、人間の思想=聖書に反する思想、神の教えが廃れた!終了した!又は人種により違う!異邦人には関係ないというそんな聖書とは真逆な人の思想を通して、聖書を解説しているから

聖書は、聖書で読み解かなくてはならないのです。聖書記者が書いた本当の意図ではなく、聖書記者が意図していない解説がされ続けてしまっている、聖書を人間の思想で読み解くズレた解説、無理な解釈を施し続けていても、そのことに聖書を教える人が全く気が付かない

落とし穴があるからなのです。

 

神の言葉は、教えている内容は、受け取る人によって、中身は変化しません!

書かれている通り、神が意図した通り、それが大前提です。

受け取る人が、聖書とは異なる間違った理解、解釈をしているのか?それが「破棄された」という当時の慣用句なのです。

神の言われたことを正しく解説し、それを受け取り生きる

「成就」という慣用句がマタイ5章に書かれているのです。

基本中の基本、神が伝えることを人間が曲げ続けているから、神が

伝えている永遠普遍の教え、意味が神の言葉を勝手に塗り替え、

考えている人には、正しく通じないままになっているだけなのです。

 

神の言葉、教えを、人がどのように受け取り、自分の中で糧にするのか、自分の生き方の一部として成長していくのか、その違いがあるだけで受け取る人により、受け取る時代により、神の教えは変化しません。

このような表現を、神学校の教師がしていました。

 

神学校教師が、「私達は、律法を生きるのではなく、神の言葉を生きる」と言っていましたが、語っている意味を、教師自身が理解しないまま、非聖書的な発言をしていることからして、神の言葉=聖書を

正しく理解してないことは、明らかなのです。

 

律法、正しくは神のトラー=神の教えを生きないで、神の言葉を生きる?意味不明でしょう。元の言語の本当の意味に直すと。

律法、イコール誤訳であり、律法の裏にあるヘブライ語はトラー、神の教え、指導、インストラクションと言う意味の言葉であり、イエシュアご自身である、

父の言葉=聖霊そのものであるという正しい

理解がごっそり抜けて、律法=古い教えではない、新しい教えを

生きるのだ!などと、聖書に書いてもない教えを考えているのです。

こんな発言は、聖書に登場する預言者や使徒、イエシュアやパウロもしません!

又は、聖霊があるから、人は神の教えにこだわらなくて良いなどという、神の言葉=イエシュア、聖霊より劣るという意識が最初にあるのです。神=言葉=聖霊なのです。人は神の言葉により造られたという事実が

全く見えていないからです。

 

神の言教えをクリスチャンは生きるのではなく、神の言葉を生きるのだ!言っている事が、意味不明であることは、元の言葉に直すと

分かるでしょう。

しかも、この思想は、神の教えに古いものと、新しいものとがあるという重大なミス、誤解をしているのです。

 

この思想、思考回路、固定概念、先入観ですが、廃れた教え=古い

教え、旧約聖書=律法と考えて、そして、神の言葉=イエシュアが

教えられた古い教えとは違う別の教えだ!という、これ完全に偽り

偽情報、聖書に記されてもいない思想、教えを土台として、聖書解説をしているのです。

マタイ以降には、トラーとは違う新しい教えなど一つも書いてありません。

律法という誤訳と、人間が作ったローマ教という人造宗教、それから発生している人造神学、置換神学やデイスペンセーション神学。

この2つの聖書とは異なる思想を通して、聖書=神の言葉を解説しているから、神が伝えている真実、意図は曲がった聖書解説をする教師により聴衆は、聖書を聖書が語る通りには聞かされていない現象が

20世紀にも渡り起きているのです。

 

1)置換神学とは、イエシュアが到来した後、異邦人に別の契約、

シナイ山で与えられた契約とは違う別の新しい契約=神の新しい教えを

受け取る代表者になったという教理、思想ですが、神の言葉でこの

神学思想は、100%偽物と判定され、却下される教です。古い教え、古い教えとは違う、又は古い教えを破棄した新しい教えなど存在していません。

 

2)デイスペンセーション神学は、人類の歴史を時代別に分けて、

その時代ごとに、神の言葉、教え、業、神の性質と人への関わりが

変化するというこれも、偽の教えの教理であり、聖書から100%

この思想が神の言葉と真っ向から相反する、矛盾する「神の言葉

神の性質、神の業の進化論」を唱える思想です。

 

このような非聖書的思想、人間の編み出した仮説思想を、神学校の講壇から聖書を教えるはずの

教師に未来の牧師や聖書教師の卵達が教えられるのです。

神学校では、ヘブライ聖書を、パウロのような教師に教えられるのではなく、人間の編み出した神学を学び、教会経営など、その他

ビジネススクールみたいなことを教えられるのです。

学ばなくてはならないのは、聖書に何が記されているのか!という

ことであり、人間が編み出した宗教やその教理を学ぶことではないのです。

そのような偽物の教えを通して聖書=神の言葉の方を曲げて、歪めて学ばされるから、聖書に書いてある意味を誤解した伝達の伝言ゲームは止まらない、終わらないのです。

 

どうして、神の言葉が劣る、変化する、神の教えを生きることが悪い

律法主義だ!のように思い込まされているのか?

それは、全て間違った聖書解説による洗脳教育のせいです。

 

生きることはキリスト、イコール、神の教えに根付いて生きると聖書の最初から最後まで書かれている意味を、理解していない人が聖書を教えるからです。

日本人が日の丸は悪い、愛国心が悪いと洗脳教育されたのと

全く同じ、間違った意識を植え込まれているのです。

デイスペンセーション神学思想は、アメリカで20世紀に爆発的に

人気を博しました。ダービーの神の教え、神の業、神の性質が時代

ごとに変化するという思想のイスラエルの神の進化論=デイスペンセーション神学を、スコッフィールドという元弁護士が自主翻訳聖書を

作り、そのページの全てに、1つ1つの箇所に、ダービー思想の

註解を書き込んだ書を聖書というタイトルで出版してしまったのです。

これは、危険な人工甘味料、添加物、世にで回ってはならないものが

出回ったため、人の間に浸透し、神の教えを正しく理解することを

多大に妨げ、人の思索を聖書ではなく、人造宗教教理思想で乗っ取り

洗脳してしまったのです。

皆が取り入れ聞き入った思想であり、その思想は今も健在です。

神の言葉が廃れた!生きるな!という、ローマ帝国皇帝の勅令

宗教の教えの土台こそを、破棄、十字架につけて、一掃、除去しない限り、この思想は人の思索を乗っ取り続けて、聖書とは異なる教えを刷り込まれ続けていくのです。

元が、4世紀に作られたローマ帝国教=神の教えを生きるな!!!

という勅令を元に作られた、混ぜ物宗教、ミトラ神=太陽神信仰の

思想がふんだんに盛り込まれ、人間が神に成り変わり、神が禁じている、神の言葉に付け足し、差し引き、変形させた、所詮人間が作った

宗教の教えだからです。

新しい契約とは、頭脳に割礼を受けた状態の人たちに与えられる

再更新される、内容は同じトラー=神の教え=シナイ山の契約です。

神の言葉を理解する頭脳、割礼がされている頭脳、神の目から見る

通りを見ることができる頭脳がある人のことなのです。

変わらなくてはならないのは、人の中身の状態であり、神の言葉ではありません!神の言葉は完全であり、永遠普遍であり、変わる必要がない。肉が染み付いた死んだ人=包皮を引っ剥がした本物の人

イエシュアと同じ性質の人は、神のトラーを生きると書いてあるのです。

そして、コロサイの箇所で解説したように、古い教え=律法、

本当は神の教え、インストラクション、神が与えた婚姻契約に記された生き方が十字架にかけられた!という間違った聖書解説をしているので、古い教えー律法は十字架にかけられ、廃れた、今は無用、

無効、又はユダヤ人だけ生きれば良いなどという、聖書に書いてもない聖書解説が今も今日もされ続けているのです。

 

トラー=聖霊により記された神の言葉、言葉が肉体をとって来られたとイエシュアをヨハネの冒頭で語っている意味を理解しないとならないのです。

意味不明でしょう。しかも、クリスチャンは何を指して、神の言葉が悪い、どの部分が悪いと主張し考えているのですか?

それらは、ローマ帝国の人々と同じ、異教徒異邦人には馴染みがない

理解不能、意味を捉えられない教えの全てでしょう。

それら全部自分の都合、自分基準の勝手な思想なのです。

 

神の教えを正しく教えるパウロのような教師に学べば、理解できます。聖霊=言葉であり、廃れないのです。聖霊=神=イエシュア=

言葉はいつ廃れる、いつ死ぬ?と書いてありますか?

そんなことは、聖書に書いてない。

神の言葉が廃れるより、天地が滅びる方が容易いと、強調してイエシュアが言っているではないですか?詰まり神の言葉が廃れることは

ありません!と人に、強調を持って教えているのです。

なぜなら、神の教え=トラーは、丸ごと全体で1つ=エハッドであり

人間が自分の臓器を取り出して正常に生きられないのと同じく、

これ、それ、あれは無用だから、摘出します!などとできる性質の

ものではないのです。

神の教えは、神が創造された神の似姿である人がどう生きるのか?

あなたは〜〜〜を生きるように造られているから、〜〜〜〜を生きる。あなたは〜〜〜〜を生きるように造られていないから、〜〜〜〜を生きないと、伝えているだけです。

それを捨てる人は、神が伝えた本当の生き方=イエシュアそのものの

生き方が分からないまま、人間ローマ帝国教が作り出した偽物の教えを、翻訳聖書に書いてある意味で、自分解釈で生きるということを

してしまうのです。いつも変化球、急カーブがあり、これは自分には

関係ない!とはねつけて、神の教えを人が捨てているのです。

 

しかも、マタイ以降しか読まない場合は、そこに何が本当に書いて

あるのか真相がよく見えません。元の教科書=神の言葉の完全版を

知らない場合は、自分の文化の、自分の宗教体験の現代の教えに

照らし合わせて、古代ヘブライの世界、神が伝える教えを曲げて、

歪めて別物の教えを空想して考えることをしているからです。