人間の作った宗教は善ではなく悪をもたらす | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

信仰の土台である神の教えの柱を、ローマ帝国が潰したのです。

そして、偶像を作るな!も、ローマ教の書から削除され、

目に見えるたくさんの偶像と、たくさんの聖書ではない思想、

教理を編み出し続けているのです。

 

日曜日、イコール安息日、又は神が呼び出している聖日、主の日と考えている時点で、それは聖書の教えとは関係のない、

間違った情報を信じていると気がついてください。

 

これは、宗教会議でローマ帝国、教皇、司教達が勝手に神の

記念日を塗り替える、ダニエル7:25に記され、警告されている666の仕業をやってのけたのです。

それを、ローマ帝国時代から、異邦人クリスチャンが今に至るまで、ずっと継承しているのに、気がついていないのです。

 

神の教えではないものを、神の教えと信じて忠実にガードして、神の教えの方を捨てているのに、気がついていないのです。

聖書を読んで、安息日は、日曜日と書いてありますか?

出エジプト20の聖書の題目、10の言葉に、安息日は日曜日と

ありますか?

イエシュアが教えて、祝ったのは、ローマ教、日曜礼拝、クリスマス、イースターですか?それとも、トラー、シャバット、

新月、過越、仮庵の祭りですか?

イエシュアが昇天された後別の教えと、別の群れ、異邦人教会

というものが出来て、異邦人だけ神の教えを生きなくて良いという免除が与えられたという、聖書のどこにも書いてない

ローマ教、デイスペンセーション神学、人間の教えを聖書だと

勘違いしているのです。

神が創造の最初に聖別された日は、第七日目であり

その日だけを祝福して、特別な記念日として、神の子らに

契約の印として与えた、それがいつどこで変わったと、

聖書に書いてありますか?

聖書にないことを、教えられている!というこの神の教えではない、人間が発信し続けている偽情報を信じる騙し、虚しさに気がついてください。

聖書にはそんなこと、どこにも書いてないでしょう。

書いてあると勘違いしているのは、聖書を人間の思想で、書かれている意味を曲げて、読み込みしていることが原因なのです。

聖書ではない、間違った聖書解説を、教師が教えていることに

教えている人が、気がついてないことが、大問題なのです。

進化論も教師が教え、それが間違いの仮説とも、気がつかない

それと全く同じことが、聖書解説に関しても今に至るまで

起きているのです。

 

神の教えは廃れ、神の記念日も人間が自由に変更する時代になったなどと、一体聖書のどこに書いてありますか?

パウロの手紙の内容を、間違った解説をする教える教師に、

正しくない曲がった無理な解釈、解説を施されてそれが聖書と

勘違いしていることに気がついた方が安全です。

教師、イコール正しいことを教えているのではないのです。

教師が偽物の教えをしているのです。だから、偽教師、偽の教え、偽預言者に対する警告がずっとされているではないですか。

普通の人は聖書を教えません。教師と名乗る人が聖書を、

教えているのです。

進化論を科学者、学者、教師が学校で、世界で教えているのと

同じことなのです。

偽物の空想学問を教えている。偽物の学問=ローマ教、デイスペンセーション神学を熱心に学び、パウロのようにヘブライの

トラーを知らない学ばない人に聞いても、真実は掴めない、

見えない、意味ないのです。

偽物聖書解説、偽物神学の学問には長けていても、ヘブライ聖書に何が書いてあるのか、パウロのようには教えていないからです。大事なことが、欠けている。学ばないとならないのは、

オリジナル聖書に書かれた本当の意味!それを教師は知らないとならないのです。

 

エゼキエル20:25 またわたしは彼らに良くない定めと、

それによって生きることのできないおきてとを与え、

 20:26 そして、彼らのういごに火の中を通らせるその供え物によって、彼らを汚し、彼らを恐れさせた。わたしがこれを行ったのは、わたしが主であることを、彼らに知らせるためである。

 
この箇所勘違いして読んではなりません。
彼ら神のトラーを破り生きる人は、異教の神々の教え、別の教えを聞いて生きたのです。神が別の教えを与えたのではありません!好きなようにやらせたのです。それにより、自分の間違いに
気が付くためです。今も同じ。
人間の作った宗教の教えによって、人は本当の意味では生きれません。人は神の口から出る1つ1つの言葉、トラーに記された
生き方で生きる!と神が言われた、それをイエシュアが地上でご自分の口からサタンに向かって言ったではないですか。
 
イエシュアは、トラー=父の教えだけを教えている!と気がつかないとならない。申命記8:3 
全てイエシュアが教えられたことは父の教え=モーセの五書以外ない!モーセの五書を否定する捨て去れ!と教えているのは
サタン!と気がつかないと危険です。
神の言葉を否定する乱用と、その嘘にクリスチャンは全く気がつかないまま、嘘の主張に賛同させられ、そして神に反することを
神の言葉を否定することを、主を愛しますと言った同じ口から
主張させられ、そして行動している。
この騙し、冒涜にはっきり気がついた人は、嘘、騙しと完全に
縁を切る。それは、自分を人を破壊する思想だからです。
聞かされている聖書解説、教えの全てが神の教えとぴったり
マッチしているものではない!と気がつくこと、それが真実の
道への扉を開くのです。
人間の教えが混じったコピー品=宗教の教えの中を生きたら、
必ず迷い出る。線香くさい宗教の教え、人間が編み出した宗教
活動を、疲弊しながら、縛られながら生きてしまう。
 
そして、イスラエルが辿った誤りも、異邦人がしている混ぜ物
異教の神々の教えが混じる、別の教えでイスラエルの神を礼拝する、それをやったのです。
それらの異教の神々、モレク、バアルは、神々の前に
自分の子、初子を捧げることを要求したのです。
詰まり、神が厳しい掟を与えたのではなく、異教の神々の教えを
生きるイスラエルをそのままやらせて、彼らが自業自得で呪いを
その身に受けたということを言っているのです。
自分の行いが、自分自身の身の上に降りかかるという意味です。それを、敢えて神が阻止しないまま、やらせたままにされたということ。
それで、痛い目に合い、レッスンを学ぶのです。それがイスラエルの国から追放され、捕囚の民となったことです。
1000年近くも、神はイスラエルの行いに対して沈黙しているかの如く、アクションがない。今も同じでしょう。ずれたことをしていても、神がすぐ介入し、いきなりゲンコツ飛ばしてきますか?やりたい放題、やらしているのです。
罪が満ちて、自業自得の破壊が襲うまで。
 
モレクやバアルに子供を生贄として捧げたりなどしませんが、
クリスチャンの中でも、自分の大事なものを捧げよとか
たくさん献金する人は神に祝福されるとか、恵の倍返しとか
自分の好きな職業についてはダメ、結婚もだめ、独身で神に仕えることが良いことだなどと、禁欲主義、結婚を禁じる教えまで
あるでしょう。
この思想、異教の神、モレクやバアルに一番大事な子供を生贄として捧げる思考回路と全く同じ哲学思想です。
 
私達神の子らは、日々神の性質通りを生きる!これが神の前に
神が教える本当の礼拝の意味なのです。
何をしていても礼拝。野球観戦をしても、箸の上げ下ろしでも
自分のすること全て、神の前に神に性質通りに生きる礼拝を
するということなのです。
それなのに、神の教えを捨てる、罪の定義を捨てる、聖別の定義を捨てて、人間の作った宗教の教えを生きる。
一体何を教えられて生きているのだろう?聖書を読みながら、
神の教えを勝手に曲げている思想を生きている。

 

20:27 それゆえ人の子よ、イスラエルの家に告げて言え。主なる神はこう言われる、あなたがたの先祖はまた、不信の罪を犯してわたしを汚した。

 

ローマ教のように、神のトラーを捨てよ!という教えは、

イコール、ここで言われる、神に対しての不信、神を汚す行為です。旦那を裏切る行為。

不信とは、不誠実に、不誠実、不誠実な行為、不誠実、裏切り、虚偽、不法侵入という意味の言葉なのです。

そして、それは罪を犯す、神の言われたことを乗り越えること。

汚す、ガダッフ 罵る、攻撃する 冒涜、非難という意味の言葉

 

詰まり、神の教えをねじ曲げ、シャバット、記念日を汚す行為

神に対して、神を直接汚す行為であることを、神の生ける宮

である、内に住む神の栄光を地上に反映して生きることに

反した生き方、本体を離れた別の影を映し出していることだと

クリスチャンは理解しないとならないのです。

神の家に属する人は、神の家の家訓を生きる!という、神の与えた婚姻契約=教えの意味の基本的な理解を教えられず、今の時代は神の教え=トラーから解放された自由がある時代!という

人間が作った教えの大嘘に聞き入っているから、神が言われて

いること、声、言葉が読んで頭脳に響かないのです。

人ごとのように聖書を読み、自分には関係ない教え!と考えるから、神の言葉から正しく教えられ、矯正されることが不可能になっているのです。

 

 20:28 わたしが彼らに与えようと誓った地に、彼らを導き入れた時、彼らはすべての高い丘と、すべての茂った木とを見て、

その所で犠牲をささげ、忌むべき供え物をささげ、またこうばしいかおりをその所に上らせ、その所に灌祭を注いだ。

 

偶像の神々、異教の神々は高いところ、高きところで礼拝場を

作ったのです。バベルの塔と同じ思考回路。

自分の力で、神に近づく。

そして、そこで、犠牲を捧げる、忌むべきものを捧げる。

豚、汚れた動物、そして自分の子まで捧げる。

豚!悪霊が入る動物、豚の餌、豚に真珠、豚が意味することを

聖書を読んで理解しないとならないのです。

人間が取り入れる、食べるものではない、清掃動物の代表として書かれているのです。

豚の血で神の家の祭壇を汚したギリシャ帝国は、神に対する冒涜行為を意図的にやったのです。

神殿=神の宮を汚すな!神の宮である人の体も汚れた動物で

汚すなかれ!と教えているのに、通じていないのです。

 

20:29 (わたしは彼らに言った、あなたがたが通うその高き所はなんであるか。それでその名は今日までバマととなえられている。)

20:30 それゆえ、イスラエルの家に言え。主なる神はこう言われる、あなたがたは、その先祖のおこないに従って、その身を汚しその憎むべきものを慕うのか。

 

先祖の行い、イスラエルの先祖はエジプトの地で太陽神、ラーを拝むのを見て学んでしまいました。

だから、金の子牛でイスラエルの神を崇め、神の祭りをやったことが書いてあるのです。出エジプト32:4−6

異邦人の世界も同じことをしています。

ローマ教は、太陽神の信仰が土台です。そして、神の教えを捨てよ!とした、同じなのです。

自分の考えという偶像で、イスラエルの神を拝んでいる。

 

20:31 あなたがたは、その供え物をささげ、その子供に火の中を通らせて、今日まですべての偶像をもって、その身を汚すのである。イスラエルの家よ、わたしは、なおあなたがたに尋ねられるべきであろうか。わたしは生きている。わたしは決してあなたがたに尋ねられるはずはないと、主なる神は言われる。

 

宗教の教えで自分の一番大事なもの、家族や時間を捧げて、

人間の宗教を通して、イスラエルの神を拝む。

 

20:32 あなたがたの心にあること、すなわち『われわれは異邦人のようになり、国々のもろもろのやからのようになって、木や石を拝もう』との考えは決して成就しない。

 

人間の考え付いた混ぜ物宗教は、木や石と同じです。

思索が形になった、石、木。その裏にあるのは、神の言葉、

教え、仰せではないもの!それらを通して、異教徒のように

神に仕えても、何にもならない!と言っているのです。

20:33 主なる神は言われる、わたしは生きている、わたしは必ず強い手と伸べた腕と注がれた憤りとをもって、あなたがたを治める。

神が定めた時にこの偽物の宗教を生きることに対して、歯止めを

かける。ストップ!終わりとする。未来は偽物混ぜ物宗教の教えや実践、伝統、記念日を祝う人はいなくなる!

そして、神が人を正しく治める、神の言われた通りの性質を

生きることを通して。神の義で人を治める。

 

 20:34 わたしはわが強い手と伸べた腕と注がれた憤りとをもって、あなたがたをもろもろの民の中から導き出し、その散らされた国々から集め、

20:35 もろもろの民の荒野に導き入れ、その所で顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。

 20:36 すなわち、エジプトの地の荒野で、あなたがたの先祖をさばいたように、わたしはあなたがたをさばくと、主なる神は言われる。

イスラエルは約束の地に入る前、契約を更新され申命記が記されましたが、その最後に、必ず神の教え、契約トラーに背いた生き方をして散らされる預言がされています。

異邦人はイスラエルには住んでいない、同じことが起きないと

思っているのですが、神の契約を捨てた生き方をする場合、

同様に、神と顔と顔を合わせる近しい本当の関係から外れてしまうのです。