神の教えは廃れたと信じる人は、廃れたという部分〜モーセの五書
など、書いてある通りに学ぶことなどしていないのが普通です。
終わった教えなど熱心に学んで何になる?ですよね。
しかも、福音書以降に書かれているのが、新しい教えなどという
とんでもない、誤解、勘違いの教えを施されてしまっているのです。
最初の部分を知らない人には、最後の部分は、よくは分からないのです。
そして、廃れたとする神の教えは、結局人間が基準、人間の判断で
あれこれ判定しているだけなのです。人の都合で決めている。
なぜなら、神は神の言葉は永遠に固く立つ、廃らないと言っている
ことが真実だからです。
人間主体の思想〜それが人間が編み出した最初から存在してはならない宗教=思想なのです。
そんな教えを人間が編み出して、人を偽物の教えに誘導し、半分本当半分嘘、でも神の教えに人の教えが混ざると偽物の教えになるのです。コピー品と同じ。
純粋ではない、不純物、それを混ぜ物、姦淫の罪〜生ぬるいから
吐き出そうと神が警告しているそのものを、人間の宗教の教えは
やってきてしまったのです。世界に伝えられなくてはならないのは、神の教え=純粋な教えであり、人間が作り出した異物、偽造の
教えではないのです。トラー、預言書、諸書に記された本物のメシアを世界へ伝えないとならない。
神の教えを捨てる人は、神の教えは終わった教えなので、今さら
それらを学んでどうするのと、考えているから学ばないのです。
というか、今まで、異邦人の世界には、トラーを正しく教えられる
ような教師を得ていなかったというのが事実なのです。
そうではありませんか?事実が証明しているでしょう。クリスチャンの世界で、ヘブライ聖書にパウロの様に精通し、ユダヤ人の様に
どこに住んでいても、ヘブライ聖書をその通りに教えられるなどということ一年にわたり満遍なくトラーや他の書を学ぶという教育が、
全くないのではないでしょうか?
その様な教師が周りに大勢いますか?私にはいませんでした。
18年前迄は。
聞くのは、翻訳聖書、しかも、人間が作った思想、神学、デイスペンセーション神学で聖書を曲げて解説されている教え、それが主流でしょう?
1世紀以降、ユダヤ人と完全決裂し、その代わり聖書とは異なる人間の作り物の宗教、教え、教理〜人造神学、人間の思想の置換神学、
デイスペンセーション神学を学び、聖書を正しく学んでなどいないのです。
福音書以降が、最新式の教えだ!新しい別物の契約だ!と信じてませんか?
そこに書いてあるのは、使徒達が書いたものは、最初の部分を解説しているだけでの短い後書きなのです。2つ別の契約などこの世には
存在しません。神はそんな別物を人種別に与えてなどいません!
しかも、翻訳聖書ではよく見えませんが、そこに記されているのは
神の教え=トラー、神の記念日、シャバットや祭り、そして神の神殿の中で行われていた礼拝に関して記されている教えなのです。
福音書以降に捧げ物や生贄と書かれている言葉があるでしょう。
それらは全て、神の神殿の中の祭壇の上、周りで行われた礼拝
コルバン=生贄と訳されている、近づくという意味の捧げ物、
動物、穀物を通してされた儀式の一連を話しているものなのです。
エペソ5:19 詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。
賛美の生贄とは、祭壇の上に捧げるミンハ シェラミムのコルバンを通しての礼拝、賛美、神への感謝の告白をパウロが言っているのです。祭壇の上に捧げられる、賛美、感謝、喜びの捧げ物である、
ミンハ、シェラミム、これはトラーに記されていることが分からなければ、西洋宗教のプレイズなどと想像しますが、礼拝とは、全て神の祭壇の上に捧げられるコルバンを通してのことを教えているものなのです。
トラーを学ばなければ、福音書以降に記されていること、パウロの
書簡や使徒の書簡は正しく読み取れません。
日本人でも古典を学ぶには、そこに書かれている言葉、当時の文化や
慣わし、様々なことを知らなければ分からないのと同じことです。
ましてや、神の教えの完全版であるトラーを学ばないまま、翻訳だけで字面を読んで、最後の部分=後書きだけ読んでも、元の意味も分からないし、しかも、人間が編み出した宗教の教えに変換して元の意味通りには教えられなければ、正しい聖書解説など聞いてなどいないのです。
そして、聖書は、100%モーセの五書=神の教えの完全版=トラーを指して語っているのです。
神の教えをどの箇所でも否定する教えは、聖書などではない、
神の教えなどではない!という永遠の真実から神の言葉を読まないとならないのです。
神の教えに違反する人はどの様になるのか?という警告がずっと聖書の最初から最後まで記されています。イエシュアも言われたでしょう。トラーのどの箇所の仰せも、ないがしろにするように人に教える人、捨てて生きている人は、神の前には全く無意味な存在になります!と。
その人達は、神の前に、神の教えを否定し続けてて生きたこと全てを釈明させられるのです。
無法を働く人、あなたを知らない!とイエシュアが言われた意味を
全くクリスチャンは理解しないまま、無法=悪いことをする人くらいにしか、読み取っていないのです。
無法=神の教え=トラーに反することをする、トラーを捨てて生きることをする、そうして人に神の教えは破棄、終了したと教える人は、天の国では一番意味無し無価値な遠い場所に追いやられる存在だと
イエシュアはそうも言っているでしょう。イエシュアが語る言葉、
教えの意味が、神の教えを捨てて良い!と主張する人には、何も通じてなどいないのです。
イエシュアは柔和で、ひ弱でなんでも許されるメシアではない。
ユダ族の獅子、正しく裁かれるお方であり、人が神の性質と外れた
罪、聖別を汚すことをすることを、断固として禁じているのです。
人間が神の言葉を否定することを断固として禁じている!
人間が作った偽物の教えは終了!というその時が来るのです。
そんな行為を断固として許していない。
神の聖別は、人の生き方の全てで教えています。特に人の生きること
食べること=エデンの園と同じこと、人は何を食べて何を食べては
ならないと伝えられているのか。
これは聖別を教えているものなのです。神の目的通りの分たれている
それを生きる!それを無視するのが、宗教の教えです。
でも異邦人の食生活は、神の目から見たら完全に汚れた無法、
聖別を汚すことの意味をまるで理解しない生き方をしているのです。
実際にそれらのきよくない清掃目的で造られた動物を食すから
体を壊し、病気になり、疫病が蔓延する。空気、水、川、海
環境をウイルスで汚染し、人に病気を罹患させる。
そのウイルスを食べ生物を人が又食べて病原菌を撒き散らすという、愚かな行為をし続けているのです。
そして、神の記念日を汚すこと〜神ご自身を汚し、自分を汚し
世界へ神の顔に泥を塗る行為をしているのです。
神の言われることを無視する行為〜神を汚している!と神が言い続けているのに、クリスチャンには全く通じない。今は自分で決めた日が
主の日、またはローマ帝国が決めた日が主の日と、聖書とは全く
関係のない教えを、神の教えと信じているからです。
なんでも許される神、人間が自由に神の言葉を仕分けて良いという
嘘を信じているから、神の教えが頭脳に届かず、宗教の教えを実践してそれで神がありがたく受け取ると勘違いしているのです。
イザヤ66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、
その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。
使徒15章の豚の血、豚を異教神の神殿に捧げ食し、異教徒の神殿で神殿娼婦と不品行をしていた異邦人イエシュア信者達を、ユダヤ人のパリサイ派イエシュア信者の群れは、こんな汚れた神に忌み嫌われる行為をすることを続ける人を、ユダヤ人の群れの仲間に加えられないだから、そういうことをするのをまずやめて!と言っている意味と
同じことなのです。この様な行為をする人は、神の大家族のお茶の間には入れないからです。神の家の祭壇に豚など汚れた動物をささげ、
それを食する人は追放されるからです。
汚れたものを食する人は、何と書かれているのか?神の聖別を汚し、
神が聖であるように、神の臨在が住まうその人の体も霊も聖なるものとして生きよ!と神が伝えているのに、汚れたものを区別なく、
無差別に異教徒と同じように汚れた生き方をしているのです。
66:23 「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」と主は言われる。
<未来は、人間が作った宗教の教えや、日曜礼拝、クリスマス
イースターなど全部消えます。商人=偽物の教えを売る人は
神の家からいなくなると預言されているからです。>
66:24 「彼らは出て、わたしにそむいた人々のしかばねを見る。
そのうじは死なず、その火は消えることがない。彼らはすべての人に忌みきらわれる」。
わたし=神=神の教え=トラーに記されていることに背いた人と
書いてあるのです。無法とは、神のトラーを捨てて勝手に生きている人のことだからです。
神の教えを正しく理解しないことは、神の警告を理解しないまま
危険な状態を生きる、聖別を汚し、神の最も忌み嫌う行為を日々し
汚れた生き方で、別物を世界に伝え続け、神に反することを
知らない間にし続けて行くことなのです。
もしクリスチャンが偽物の教え=ローマ帝国が作った宗教の教えなど
最初から一切聞かないで、神の教えは変わらない!という永遠の真実を理解していたら、トラーに書かれている神の教えをそのまま
神の教えとして、その通り価値通りに受け取れたのです。
異邦人は純粋な神の教えではなく、宗教の教えを教えられてしまったのです。神が禁じた生き方、LGBTもその他諸々の関係も、女性の
生理中に近づいてはならないことの意味や、そしてどの様な関係を
結んではならないのか。そして、何を食べて、何を食べるようには造られていないのか、人に対する賠償や、仲直りはどうするのか。
軍隊はどう形成され、どのように国を守り戦うのか。
正しく教師に教えられたら、異教徒文化の汚れた衣食住は、神の前に受け入れれるものではないから、神の子とされたらやめようと、
当たり前に理解できるのです。
でも、クリスチャンの世界では、自分の都合、自分の考えが優先!
だから、人間至上主義で、あれこれそれはもう古い教え!と勝手に
言い続けるローマ帝国=人間の神に違反する教えを神の教えと信じ込み、神の伝える生き方、聖別を全く理解しないまま、
やりたい放題。神の聖別された日を捨てる、ローマ帝国の勅令で
強制的に捨てさせられ、それが伝統で今に至るまで、偽物の記念日
神が創造もしていない人間の作った記念日を、神の教え、記念日と
すり替えて祝っていても、それに全く気がついてもないのです。
これらは、神が禁じていることです。神の言葉に、人間が付け加えたり差し引いたりしてはならない。
黙示録の最後にも書いてあるでしょう。神の言葉を無視しているのです。神の言葉ではなく、その代わりに人間の教え、伝統で伝えられた宗教の教えに固執しているのです。
イスラエルの神の子らは、神=父が伝えた通りを生きるのに、
クリスチャンはローマ帝国教〜人間の教えに聞いて生きているのです。
日曜日に集まろうと、何曜日に集まろうと全く自由ですが、
神の呼び出し日以外の日、それらは神の創造された記念日、主の日、聖日などではありません。神は人を別の日に呼び出していません!
だからいつでも安息日とか、シャバットが、第7日目から、日曜日に
神が変えたなどという、そのような偽証はしてはならない。
偽もの教えを世界へ伝えてはならないと、神が禁じているでしょう。
神の記念日は、カトリックが変えました!と、カトリックの質疑応答の書に堂々と記されています!それは、ニカイヤ会議やラオデキヤ会議で、人間が冒涜的に勝手に決めたことで、神はそんな日を神の
シャバットなどと、認識していない、認めてもいません!
その他に、何世紀にも渡り数々開かれ続けている宗教会議において
カトリックは聖書を塗り替えるような人造の教えを編み出し続けているのです。その議事録もしっかり残されているでしょう。
全部人間の仕業であり、神は神の言葉を、神が言われた通りに変えてなどいません!神の教えではない、人間の教えの嘘から目覚めないとならないのです。
神の名=実態が汚されることを神が許さないから、神ご自身が立ち
上がりその嘘を嘘と証明すると言われているでしょう。
続く