2コリント11:14は、サタンが光の天使として来ることを警告しています。この終わりの時代に生きる神の民のほとんどが、この欺瞞に騙されています。
この「イメージ」はヘブライ語の「セメル」から来ており、これは
「偶像」歴代誌下33:7、15、または像、申命記4:16と訳されている
言葉と同じです。
イスラエルの神から発し、イスラエルの神に属さないものは、
それらは、全部偽物!偽の神々に属するものです!
だからこそ神は、それを神は非常に憎んで忌み嫌われておられるのです!これは私たちが戦わなければならない危険な存在は、神に敵対する教え、行いの全てです。
クリスチャンの間で語られる、人の意見で、神の言葉、教え、記念日をいつでも、何でも仕分けて良いという教えは、イスラエルの神の口から語られた教えではなく、偽教師、ローマ帝国皇帝、教皇、司教、西洋教父達の口から出た、神に敵対する主張です。
人でさえ、自分の作った作品、音楽、書、その他諸々、人が作り替えることは、自分に対する侮辱、犯してはいけない著作権侵害の違反であると理解するなら、なぜ、世界を創造された神の作品の全てに、
人間が勝手に介入、侵入、破壊することが許されるというサタンの嘘に騙され続けるのか?それは、聖書に書いてある通りの意味を理解して正しく学んでいないことが問題、結局エデンの園と同じ問題に
戻るのです。
人は神が言われたことではなく、神の言葉、教え、言われたことを
退け、人間が神になり変わり、神の主権、特権を奪い、自由自在に
サタンの声を代弁して神の言葉を曲げ続けている、これが歴史の中に起きている様々な出来事、霊的戦いの原因なのです。
聖書の預言において、女性はカハール=エクレシア=神に呼び出された人の群れであり、それらは真のカハールも、偽りのカハールも両方含む、1つの型、あるいは象徴なのです。
教える会〜教会という異邦人が作った造語翻訳は、もとの意味を表さない不適切な訳であり、更には、教会という言葉で、エデンの園から
ある同じ、カハール、エクレシア=イスラエルの1つの大家族である
聖書に記された概念が全く否定されて、隠されてしまう本当に問題のある誤訳なので、敢えて使いません。
便宜上教会、教会と言われていますが、それは、本当に不適切、
もとの言語、ヘブライ語、ギリシャ語を正しく表さない訳です。
自分の頭の中で、2つ分断した、群れ、教会という概念を全部消して
ください。それらは、神が伝える事実ではなく、ローマ教、デイスペンセーション神学や、置換神学の偽物の教えの解説だからです。
しかも、創世記〜マラキでは同じカハールを群れ、集会、会衆と訳しているのに、同じ言葉を、福音書以降全く別の今迄使われない「教会」という造語で、意図的に違う訳をしているのです。
翻訳トリックなので、自分の中では使わないようにしています。
だから、翻訳だけを読んでいては、もとに書かれている意味が見えないことが山ほどあるのです。
人に聖書に書かれた事実とは全く違う概念〜別の群れ〜異邦人の群れ
又は、聖霊を初めて受けた人類の群れなどという、誤解を与える
翻訳だからです。
キリストは世俗的な群れ〜神の聖なる民ではない人達に対して嫉妬することはありません。
しかし、ご自身の妻、つまり聖なる民の群れに対しては嫉妬されます。それは、男性が自分の妻に対しては嫉妬しますが、他の女性に
対しては嫉妬しないのと同じです。
キリストが嫉妬深いという事実自体が、この聖句が偽りのカハール=群れではなく、ご自身の妻、つまり神のカハールを指していることを示しています。
神ご自身のカハールが罪を犯し、キリストの嫉妬を招いているのです。妻が情欲に駆られて他の男に身を寄せると、男性は嫉妬します。同様に、キリストは妻が他の神に身を寄せると嫉妬されます。
もしこの群れがご自身の花嫁、ご自身の群れ、カハールでなければ、キリストは嫉妬されないでしょう。しかし、カハールは他の神に身を寄せているのです。霊的な姦淫を犯しているのです。
この世の偽りの異教の神々の宗教に仕える人達は、神の花嫁ではありません。神は彼らに嫉妬しません。ただ、神に背を向けているご自身のカハール=群れ=花嫁に嫉妬されるのです。
「見よ、わたしが平野で見た幻のとおり、イスラエルの神の栄光がそこにあった。その時、神はわたしに言われた。『人の子よ、目を上げて北の方へ行きなさい。』そこでわたしは目を上げて北の方へ行き、祭壇の門の北の入口に、嫉妬の像があるのを見た。」
エゼキエル8:4-5。
霊的に考えてみましょう。この嫉妬の邪悪な像が、フィラデルフィアの人々が神の群れに入る道を阻んでいるのです。
エゼキエル8:6 彼はまたわたしに言われた、「人の子よ、あなたは彼らのしていること、すなわちイスラエルの家がここでしている大いなる憎むべきことを見るか。これはわたしを聖所から遠ざけるものである。しかしあなたは、さらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。
神の神殿〜聖所では、あまりにも多くの悪が起こり、神はそこに住まうことができなくなるほどになり、追い出されてしまいました。
神は汚れた場所には住めないのです。
もし私たちが神の権利のために戦わなければ、神は堕落した大天使が神のカハール=群れを征服することを許してしまうのです。
神は、カハール=神の群れの象徴である聖所から「遠く」去られます。神はそのような恐ろしい悪を容認できませんでした。
嫉妬という忌まわしい象徴のために、神は去られるのです!
ですから、この終わりの時に、神がカハール=群れの物理的な場所から実際に去られると預言されていたことが分ります。
神の忠実な民が、神と共に汚れた場所から去るのは不思議なことではありません。
神の民の中に、ラオデキアの群れ〜汚れに塗れた偶像礼拝から、
神と共に去らない人がいるのは不思議なことです。
エペソのカハール=群れで起こったのはこのようなものです。
黙示録2:5。
私たちも同じように、罪を犯しているカハール=群れの物理的な存在を去らなければならないのは、今に始まったことではありません。
これは神の真のカハール=神の群れの歴史を通して起こってきたことなのです。
この終わりの時代に、神の民が神の真理から離れていくにつれ、
神はかつて彼らと共に住まわれた物理的な場所を去られます。
これは計り知れないほどの悲劇です。
神の導きのないカハール=群れとは一体何でしょうか。
それは神の教えを捨てて、破滅へと向かう群れです。
無法を働く人〜あなたを知らない!あなたとは関係ない!と
イエシュアが言われた言葉に繋がるのです。マタイ7:23
黙示録2章で、神はエペソ時代からランプを取り去りました。
そして今日、ラオデキア時代にも同じことをされました。
忌まわしい行いのためです!しかし、多くの人は神はそんなことはしないだろうと考えています。でも聖書はそうではないと語っています。
この終わりの時に、神は聖所を去った後、どこへ行かれたのでしょうか。神はランプを別の物理的な場所に移し、そこでエゼキエル書や
その他の預言を、霊的には神から離れなかったもの、神と共に
ラオデキアの群れから去った人々に啓示し始めました。
エゼキエル書を理解している人はいますか?これらの預言書やその他の預言書は、今日何が起こっているかを物語っています。
そこに神の聖所があるのです。
神は悪のために神殿から遠く離れられました。神が遠く離れられるなら、神の民も同様に汚れた教え、生き方から離れて、神に従うべきです!人は自分たちだけでサタンに対抗できると考えるかもしれませんが、それは大間違いです。
神の群れの人々が、神の教えに対して無頓着であれば、長くは続かないでしょう。
これらの聖句は、非常に邪悪な存在による支配を示しています!
人々は「わたしを聖所から遠く追い出そうと」していたと聖書は述べています。そして神はそれが起こることを許しておられます。
これ以上に悪いことがあるでしょうか?エゼキエル8:6は
「しかし、再び立ち返れば、さらに忌まわしいものを見るであろう」と締めくくっています。悪はますます大きくなっているのです。
なぜそうなるのか、そして私たちはどう対処すべきなのでしょうか?
エゼキエル8:7 そして彼はわたしを庭の門に行かせた。
神は、私たちが神のために戦い、神の権利を擁護することを望んで
おられますが、そのためには、ある程度の探求が必要です。
私たちは自分の役割を、果たさなければなりません。
霊的に探求すればするほど、神は私たち個人と集団に、より多くのことを明らかにしてくださいます。それは、神の言葉で神が伝えていることを知る、それが神を知る、神を求める行為〜探究だと神は人に
教えています。
私たちはこれらの聖句を霊的に解釈しなければなりません。
ここでの庭の扉は内庭への扉です。そこはかつて祭司たちがいた場所であり、今日では神の教えに反することを教える人達がいる場所です。これらの聖句は、これらの忌まわしい行為を行っている神の働きに、特に向けられています。
エゼキエル8:9 彼はわたしに言われた、「はいって、彼らがここでなす所の悪しき憎むべきことを見よ」。
8:10 そこでわたしがはいって見ると、もろもろの這うものと、
憎むべき獣の形、およびイスラエルの家のもろもろの偶像が、
まわりの壁に描いてあった。
安易に考えるのは、やめましょう。天使の3分の1が悪魔になりました。彼らは今どこにいるのでしょうか?
よく見れば、神のカハールの中に、あらゆる種類の這う悪魔や忌まわしい獣が潜んでいるのが分るでしょうか?
霊的に見なければ、それはわかりません。神は必ずあなたにそれを
明らかにしてくださいます。いや、様々なことで、それは明らかでしょう。教師が、神の教えに反することを教え、神の言葉をないがしろにする意識を人にもたせ、そして、イスラエルの神ではない、異教の神々の教えや、シンボル、記念日にすり替えて、イスラエルの神を
礼拝している。挙げ句の果ては、罪を生きて良い!
人間が、神の罪の定義を捨てているのです。
これが、今日の神のラオデキアの群れの恐ろしい霊的な姿です。
這うもの、忌まわしい獣、そしてイスラエルの家のあらゆる偶像で
満ちています。まさに悪魔の祭りです!
旧約聖書神学用語集によると、10節の偶像の語源は「切り離す」という基本的な意味を持つ言葉です。
偶像、偽物の教え、混ざり物の教えは、あなたを神から切り離すものです。
「それは以前の生き方からの暴力的な断絶を暗示するものです。
より一般的には、死や滅びを指しています。
ラオデキアの人々はそうは考えていませんでしたが、神は彼らにこう告げています。
「あなたは私から切り離された! あなたはサタンとその悪霊たちに
従っている!」
同じ箇所で、「這うもの」とは「爬虫類、あるいは地を這うものすべて」、つまり蛇やワニを指すとされています。
これは実に醜悪な光景なのです。 ここは神の群れだったのに!
神と同じように、そこで起こったことを見なければなりません。
8:11 またイスラエルの家の長老七十人が、その前に立っていた。
シャパンの子ヤザニヤも、彼らの中に立っていた。おのおの手に
香炉を持ち、そしてその香の煙が雲のようにのぼった。
この神の群れを治める70人の長老がいます。
つまり、神の群れの最高指導者たちです。
神が生物学的なイスラエルの民を導いたとき、70人の長老が最も高貴な指導者として選ばれました。出エジプト24:1
しかし、エゼキエル8章では、神は霊的なイスラエルの民、すなわち
神のカハール=群れについて語っておられます。
民数記11:16には、「主はモーセに言われた。『イスラエルの長老の
うち、あなたが知っている民の長老、また彼らの上に立つ者七十人をわたしのもとに集め、会見の幕屋に連れて行き、そこであなたと共に立たせなさい。』」とあります。
古代には、70人の長老が神と会見していました。
70という数字は、これらの終りの時代の長老たちも、真の神と会見していたことを神が明らかにする方法です。
しかし、彼らは神を裏切り、背を向けました。
神はこの70という数字を特別な理由で語っているのです。
これは、神の僕たちが道を踏み外していることを示すものです。
これは啓示的な兆候です。
神は暗号のような言葉で語っています。そして時が来ると、その暗号を解読します。神はご自身の真理のすべてを明らかにされます。
私たちはそれを自分で発見することはできません。アモス書 3:7
エゼキエル8:11 の「長老たち」という言葉は、神の群れにおける
霊的な長老たちを意味します。
6節で言及されている最も忌まわしい行為とは、終末の時に神の民を
惑わす、神の聖職者の大多数を指しています。
これは非常に醜悪な忌まわしい行為です!これを超える恐ろしい行為は、ほとんどありません!神の生ぬるいカハールの最高指導者のほとんどが、神の群れ、つまり最高指導者会議において忌まわしい行為を犯しているのです!
神の教えに敵対することを、人に教えているからです。
シャファンの子ヤアザヌヤ(11節)という名前にも興味深い関連性があります。シャファンはヨシヤ王の治世の書記官でした。
この書記官は、新たに発見されたトラーの書の本文を王に読み上げました(列王記下 22:8-14)。
これはまた、このカハールが神のトラーによって、良い始まりを迎えたことを明らかにする暗号化された表現でもあります。
その後、シャファンの子ヤアザヌヤはトラー=神の教えから背を向けました。