神の教えを忘れさせ捨てさせるのはいつも神に敵対するもの声 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ガラテヤ3:10 いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下に

ある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、
これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。
 
この箇所、単独で取り出しても、前後にパウロが何を話しているのか
分からなければ、特にトラーは廃れたと偽ものの教えを信じている場合は、パウロが書いている意味を勘違いししまうでしょう。
 
パウロは、呪いの下とは、神の言葉を人が生きて、それにより、
自分の行いで聖霊=義を獲得しようとしているズレた思考回路の人に対して警告しているのです。
これは、ローマのユダヤ人の群れ=カハール、エクレシアの中にも
同様の問題があり、パウロは同じことを、ローマ人の手紙の中でも
諭しているのです。
人間が、神しかできない業〜購いの代価を支払い、自分を罪の
全てから購い出せて、聖霊を行いにより獲得できる!と勘違いしていたのです。
行いにより、義=神の前に自分で罪の代価を払うことができると言うズレた思想です。
 
行いにより、聖霊=義=罪から購出されること、罪と死の法則から
脱出できない。神の儀は、人間の行いでは獲得出来ないから「恵」
でそれらを神から与えられたのです。
何もしていないのに、一方的に永遠の中で子羊イエシュアが葬られて、購いの代価は支払い済みである!と書いてあるでしょう。
そして、人もこの世の礎が創造される以前、永遠の中に神の中に
既に選び取られていた!と書いてあります。理解不能だけれど、
それが神の語る真実です。
時系列上に聖書に書いてあることを考えるから見ない。
永遠の中に全てが完結、完了している、そこから、全てを考えれば
見えます。永遠から同じ。最初から同じ。最初から全てが完結、
完了して、世界はスタートしたのです。だから「7」なのです。
神が用意した全て〜何も欠けがない状態、そこから人は生きるように
神がしてくださったのです。全部備えられている。
福音も1つ、同じ。救いの方法も1つ。どの時代も同じ。
神も変化せず、神の業=イエシュアの業も変化せず、神の言葉、
教えも変化しない。
 
ヘブライ思索で書かれた書を、西洋宗教哲学、自分の文化の概念で
考えているから、聖書に書かれている真実からズレてしまうのです。
人間の努力、行い、手柄により獲得できる、しようとする、それは
神が与えた恵を受け取ることを知らない、呪い〜命にない状態ですよと言っているのです。
ガラテヤ3:10で、パウロは申命記27:26を引用し、トラーの書に記されているすべてのことに聞いて生きないなら、私たちは「呪われる」ことを示しています。
そうですよね。どうして、人間は神の言われたことを、無視!無用!

聞かない!生きなくてよい!という態度が、ノーマルである、それが

昇天以降の恵みの生き方だなどと思っているのでしょう?

 

それは、神の言葉、教え自体に、最初から敵対する意識を、人間が編み出した宗教の教え=聖書、神の教えではない偽情報を、信じた最初からずっとずっと刷り込まれ続けているからです。

 

それらが、人間の教え、ローマ帝国の勅令!モーセの五書を生きたら

処刑、重税、投獄!と言う1世紀から既に敷かれて、中世に至るまでずっと同じ勅令から来ていることを、クリスチャンは知らないのです。

それが、ローマ・カトリック教の教理に、そのままなってしまったのです。人間が神の言葉を変えて良いとしたのは、カトリックです。

教皇が言うこと、イコール神の声、言葉と主張している。

でも、それは神から伝えられた神の教えや神の言葉ではありません!

神の言葉=聖書に反する教え、全て、モーセの五書=トラーが廃れたと言う教え含め全て、神の言葉を否定する教えは、人間から出た!

ローマ帝国から出ていることを、クリスチャンはその事実をはっきりと知らないとならないのです。

クリスチャンは、神が神の言葉、教えを変えた!!!と人間の仕業なのに、神がやったと、聖書に書いてもない空想話を、聖書と本気で

信じているでしょう。これは集団催眠、騙しなのです。

 

人間が神の教えを塗り替えることを、カトリック教がやり続けて

16世紀にルターやウイクリフなどが、その偽物、聖書ではない教えに反発したのでしょう。

でも、ルターでさえ、結局完全に神の言葉に戻る、聖書だけに戻るということをしないまま、ローマ帝国が作った宗教の教理を根こそぎ

破棄せず、同じパン種を取り込んだままになってしまったのです。

だから、モーセの五書は廃れた!そして、神の記念日を破棄したまま

ローマ帝国が太陽神〜ミトラ教の教えを取り込んで作った教えと、

そして、太陽の日、皇帝の日=日曜日礼拝、クリスマス、イースターを祝い続けて今に至るのです。

それらは、人造の記念日であり、イスラエルの神の記念日などではない!と言うことさえ、クリスチャンには理解されていないのです。

神の記念日を汚す、異教の神々、女神の教えを信仰に取り入れる、

それは、神が最も忌み嫌う!吐き出そう!と言っているそのもの

姦淫の罪〜高きところの礼拝の警告は、神の言葉を捨てる人には

全く届かなくなってしまっているのです。

 

モーセの五書否定!反ユダヤ思想!「ユダヤ人と嘘」という書に、

いかにユダヤ人を殲滅するか、彼らを迫害するか、彼らを追放するかそれが神の御旨である。ユダヤ人の財産、仕事を奪い、彼らのトラーの巻物が焚書され、彼らが、神の教え=トラーを生きることを阻止し

禁じる。結局、ローマ帝国皇帝、教皇と同じことをルターはし続けたのです。

そして、ガス室で殺害されたのは、全部ルターの考えを、ヒットラーが実行したからです。反モーセの五書と、反ユダヤ思想は一体で密着しています。

 

申命記27:26 『このトラーの言葉を守り行わない者はのろわれる』。

民はみなアァメンと言わなければならない。
 
ここで、「呪い」という言葉を、日本の自分の文化、西洋宗教の中で考える「呪い」と同じであると考えているから、神が伝えたこととは、ズレてしまうのです。
神の伝える生き方からズレたら、神からズレて、神との間に距離が
でき、本来の性質、生き方、関係を体験できない場所に飛び出す。
それが、エデンの園でその通りに教えられているでしょう。
神の言葉を退けて、神が禁じたことをしたら、歴史の全てに於いて
これから生まれ出る全ての人の中に、罪と死の法則が入り込み、
体が朽ちて、死に、そして、神と隔たりの場所に飛び出してしまって
隔たりの場所の中に、閉じ込められたこと。神の言葉を捨てる、無視する!その警告はクリスチャンには届いていません。
 
神の祝福と守りから外れてしまうから、呪いと書いてあるのです。
そして、呪いの意味は、神の前に、価値のない存在になる。
 
マタイ5:19それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
 
神の言葉の1つでも破るように教え、そうする人!知らないままに、それをやっているやらされていることに、気が付きますか?
律法に戻るのか!それは、誰の声ですか?神?蛇?
神の教え、言葉を指して、律法という言葉で記されているものは
聖書にはありません!
神の教え、インストラクションは、トラーというヘブライ語であり
律法などという言葉ではありません!
 
神の言葉を捨てる人、蔑ろにする人、人に神の言葉を捨てよと教える人たちは、天の国で最も小さい〜ミクロス、=無価値〜埃や羽の
ように一番軽い、吹けば飛ぶ意味のない存在になると、イエシュアも言っているでしょう。
 
それが、呪いという意味なのです。神との関係で一番無価値、遠く
離れた蚊帳の外に追いやられてしまう。
神の御座、神の家〜祈りの家の中で、祭壇=テーブルを囲む祝宴の
そのテーブルに中心、神と顔と顔を合わせて座る場所には招かれない、遠く遠く外にいるようになってしまう。
 
そして、神のが伝える教えに反する生き方をするということは、結局刈り取る結末をもたらすのです。神が伝える生き方とズレる、
イコール本来の性質に反することをすれば、不具合、破壊、傷、痛み、様々な代償を伴う、本来体験できる、喜び、祝福を味わえない。そのような理解がないとなりません。
そして、人に神の教えを捨てるように教えよと神が言った?そんな罪を犯せ!とイエシュアがいつ言われ、人を誘惑しましたか?
イエシュアは全部逆を教えています。父の教え、神=わたし=イエシュアを愛する人は、神の仰せ=トラーを生きる!とあるでしょう。
 
神の言葉から、人の意識を反らせ続けているのは、あの蛇の声です。
神に敵対するものは、巧みに人を、神の伝える真実=言葉=教えから
うま〜〜い具合に、偽物の教えを通して、神の言葉から意識を逸らし、人が神の言葉を否定し、曲げてこれが昇天以降の新しい教えだ〜と言う嘘!を、言い続けているのに、聖書を教えている人が、全く
気がついてないのです。
神の意図、意識、考えから遠く遠く離れた〜人間の教え。ローマ帝国
が決めた、勅令に基づく新興宗教の人間が作った教えなのに、それが昇天以降の新しい教えだと、聖書に書いてもないことを信じ続けているのです。
親が子供に、これこれしてはだめ、これこれしなさいというのは
その子供を守るためです。
その子が生きるべき生き方を、親が教えているのです。
幼な子は親の言うことを全部理解しません。生きていく上で色々
理解していくのですが、これは神の民とされた人も同じです。
まして、神の言葉を捨てる、破棄された〜と信じる場合には、神に
何を教えられ、どう生きるのかを伝えられていることを、自分勝手に考えるから、神の意図した生き方とは外れた生き方をしても、
気が付かないままになる、危険状態になっているのです。
 
人間が、神に成り変わり、さまざまに神の意図とは違う、神の言葉を否定した思想の聖書解説をし、人を神の教えから意識、行動を遠ざけているのです。
神の言葉、教えのどの箇所でも人間が無効と言い、否定する。
これこそが、最も危険な状態であることに、気がついていないのです。
 
続く