一般的な聖書解説 それは聖書とは真逆神に敵対する教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

クリスチャンの中で一般的に語られている教えは、その多くは聖書とはズレた解説です。聖書では無い教えを、教えられているのです。

 

その原因、大元は、モーセの五書破棄!というローマ帝国皇帝、

教皇、人間を神として、彼らの意見、発言、考えで、神の言葉を退けて、今も神の言葉を塗り替え続けているからです。

それが、神の教えだと、プロテスタントも疑いもなく信じ続けているから、聖書とはズレた、矛盾の数々に対して、違和感がないのです。

なぜなら、偽情報を人間が作った教えで無効にするから、それが神の言葉、最新式の新しい教えという、嘘にすり替えて考えるから、

神の言葉が伝える事=聖書に書かれている事とは違っていても、

違和感が湧かないのです。

 

永遠普遍と神が言われた事を、人間が一時的、廃れたと言う。

変わらない!と神が言われても、人間が変わると言う。

神の言われた通りに神に近づいてと神が言われても、人間が、今は

何でも良い、何でもあり、自分の考えで生きて、神の言葉を人間が仕分けて、自分の考えで、今はいつでも神の記念日、聖別、主の日と、神の言葉に真っ向から敵対する冒涜を、冒涜、罪とも認識できなくなっているのです。

その原因は、神の言葉の方を、人間が捨てて良いとローマ帝国国教

国と宗教が一体化した勅令を信じ、そして、人間が神に成り替わり、神のごとくに偽物の教えを教え続けているからです。それは神が、

人に神の教えや記念日を変える事を許されているからなどと、主張している人間の教えを聖書だと、勘違いしているからです。

この堂々巡りの嘘の教えの中で、神の言葉の方が曲げられ続けているのです。

1)石の板に書かれた教え 2)心に記された新しい契約

石の板に神ご自身が直接神の教え=トラーの題目を書かれたのです。

この石の板〜契約の板に神の臨在、命があったこと、クリスチャンは

正しく理解していません。神=言葉=聖霊=イエシュアです。

石に書かれた神の言葉=聖霊=頭脳に記された再更新される同じ神の

契約=教えなのです。

あれと同じ。イエシュアが砂に指で何かを書いたでしょう。

神は指がありませんが、神ご自身が記した神の言葉!それを否定するのが、獣です。神が人となったイエシュアが、父が石の板に神の言葉を書き記された通り、神の言葉を指で書いたのです。

神のミシュカン〜モーセがシナイ山の頂上で見せられた、天の神の家を、地上でそっくりそのまま映し出して作るように、神に言われて

作った神の家のレプリカが、ミシュカン〜移動式神殿であり、

これが固定式神殿になったのです。

この中で、神ご自身、そして聖書〜福音の中心、テーマがはっきり

教えられているので、これは別の記事に書きたいです。

クリスチャンは、人間が作った宗教の教理、思想を通して、更には

翻訳聖書だけを読んで、現代の世界の人造宗教の教え、慣わし、伝統を空想して読んでいるので、古代中近東、ヘブライ思索、ヘブライの世界のヘブライ語で記された神の言葉を、自分たちの慣れ親しんだ

人造西洋宗教文化の思想を通して、聖書を読み違えているのです。

 

神は消えない永遠の証拠、保証、約束として、神の婚姻契約を文字で記して、人に与えたのです。神の花嫁となった人たちへ、イスラエルの神の大家族が生きる家訓を伝えたのです。

人の世界の契約でも、口約束だけなんてあり得ないでしょう。

口で言っても、証拠がないからです。言った言わないで終わる。

契約書に記して、両者がそれに実印、サインをするのです。

そして、それを片方が破っても、契約破棄はできません。

神も人と、永遠に破らない契約を結んだのです。イスラエルがそれを

受け取る代表として、神が選ばれたのです。

それなのに、人造宗教の教えは、人間〜皇帝、教皇、教師が勝手に

神の言葉を捨て、退け、塗り替え、人間の教えとすり替えているのです。

心に記された新しい契約とは、頭脳に割礼がされている状態を言って

いるのです。最初にシナイ山で与えられた時の人の霊的状態、意識が

違う!その時に結んだ契約を受けた状態ではない。人間の側の状態を

話しているのであり、神が与えた永遠普遍の契約書の中身は変更など

されないのです。

聖霊を受けて、神の教えを理解し、神の教えに根付いて生きる成人の

状態の人たちが、再更新された契約〜エレミヤ31:31-34にある、同じシナイ山の婚姻契約〜トラーを皆が生きる!と聖書には書いてあるのに、このような対比をする人、神の教えに2種類別物、別の契約が

あると、無いのに、あると勘違いしている人が、それらしくて、

聖書を正しく理解していない解説を、堂々としているのです。

神の性質に造られた人は、頭脳に記された、神のトラーを生きるのです。「額の獣の刻印」とは、神の教えとは違う事をすりこまれる、

別物の教えのことなのです。

2)インクで書かれた教え      2)御霊によって書かれた教え

と対比していますが、文字で書かれたものは、聖霊により記されたと

書いてあるでしょう。それが文字になったのです。

文字そのものだけ読んでも、人は救われない。文字そのものが人に

命を与えるのではない。文字で表される神の命の実態=聖霊=命の源源泉に触れたら、人は生かされるのです。

言っている意味が、それらしくて、意味不明、聖書ではない事を

語り続けているのです。

インクで書かれたものが悪い、人を殺すなら、どうしてインクで印刷された聖書を読んでいるのですか?いやオンラインなら良い?おかしいでしょう

言っていることが。文字で書かなくて、どうやって神は人に神の考えを伝えるのですか?口頭で伝えたことを、文字として書いたものが

石の板に記された10の言葉〜神の教え、聖書の題目、タイトルなのです。

神の教えが古い、新しい2つの別物があると、無いものをあると

空想している思想はこのように語ります。

3)旧約聖書          3)新しい契約(新約聖書)

旧約聖書とは、異邦人が名づけたタイトルです。神は神の言葉に古い

新しい、2つ別種類の教えや、別の契約書を人に与えていません。

聖書に聖書と書いてあることは、100%全てタナックだけを指して

語っています。モーセの五書、預言書、諸書=タナックのことです。

新しい契約?エレミヤ31:31、そしてイエシュアが過越の晩餐で

語られた新しい=再更新される同じシナイ山の契約〜トラーのことです。

新しい契約と読んで、シナイ山で与えられた契約の他に契約がある!と無いものを、ある!とクリスチャンは信じ込んでいるのです。

新しいとは、新月の新しいと同じ、ハダスです。同じ月。神の契約も

月が満ち欠けして、又新月〜満月になるように、同じ月と同じ、

中身は、同じ契約なのです。再更新され続ける。

神の契約も同じように、新しく更新し続けられているのです。

それは、歴史の出来事の節目節目に更新されている記録が、諸書に

書かれているでしょう。

契約とは何であるかという事を、クリスチャンは、教えられていないし、学んでいないのです。この契約があるから、神との関係が成立し、守られていることを理解していないのです。

この契約がないならば、クリスチャンは神との契約の中にはいません!という事なのです。

新約聖書?それは、新しい契約〜モーセの五書を否定して終わらせた

新しい教えなど1つも書いてありません!

福音書〜黙示録は、モーセの五書のような聖書とは違うのです!

使徒が書いたタナック〜トラー、預言書、諸書に対する短い註解、

後書き、解説なのです。

教科書の本編、上中下があり、最後に後書きがある。

小説の本編があり、最後に後書きがある。その後書きは、本編を短く解説したものであり、本編と異なる別の内容やストーリーを独断で

解説するものではないのと同じです。

しかも、福音書〜黙示録は、預言者ではない、使徒が書いた書簡なのです。この意味の違いが分かりますか?

そしてパウロの書簡は、ある特定の群れに宛てた手紙なのです。

預言者達が書いた、神のトラーのような、神のトラーを塗り替える

別の教えなど、使徒達は書いていないのです。特定の群れの中にあった

問題を、エルサレム拠点〜パリサイ派のイエシュア信者の群れに属するパウロという学者に、それぞれの群れから送られた質問状に対する回答が、パウロの手紙なのです。

モーセの五書の実態の適用、実践、諸問題に対する対処の知恵が書いてあるのが、パウロの手紙なのです。

神の教え=トラーを否定、塗り替える教えなど、パウロはしていません!そのような、パウロに対する誤解、パウロが書いている内容を

聖書教師が完全に誤解して、言語の意味を知らず、何が本当に書かれているのか理解しないまま、パウロが議論している論点も内容、文脈から正しく読み取っていません。

パウロが回答しているある群れに、当時起きていた諸問題も、それらが分からないまま、勝手な空想の解説〜モーセの五書が廃れたという

ローマ帝国の教えを根拠に、聖書とは何も関係のない、パウロが言ってもいない、偽物の解説、パウロの手紙の内容はズレた解説ばかりがされてしまっているのです。

聖書=トラー、預言書、諸書を塗り替える別の神の教えは、聖書でも

なければ、契約書でもありません!!!

契約書は、契約書のフォーマットでちゃんと記されているのです。

申命記がその良い例です。約束の地に入る前に、正式な書式で、

契約の再更新が記されているのが、申命記なのです。

聖書に聖書とあるのは、トラー、預言書、諸書のみだけを指して、

聖書と書いてあるのです。

使徒が書いた書簡は、神のトラーを塗り替える別の教えなどでは

ありません。預言者達が書いた聖書=タナックの短い解説!後書き。

これが分からないから、新約聖書という異邦人が作ったタイトルで、新しい契約という聖書とは異なる教えを頭脳に刷り込まれ、

旧約聖書〜古い契約と勘違いしているだけです。

聖書には、モーセの五書以外の神の教えは書かれていません。

モーセの五書以降は、全て、モーセの五書の解説だからです。

 

神の契約は1つだけです。異邦人に与えられた別の神の教えや

契約書はこの世に存在していません。エレミヤ31:31は、

異邦人へ与えられる別の新しい契約ではない、イエシュアが言われた

新しい契約も、シナイ山と同じ契約の再更新です。

異邦人も、同じ契約に加えられる事、それはトラー、預言書、諸書を正しく読み取れば、ずっと記されています。

ヘブライ語では、はっきり書かれていて、分かります。

特定のユダヤ人、イスラエルだけではない、誰でも!全民族に向けて

神は扉を開いているからです。

イスラエル〜と読んで、イスラエルだけと考えているのは、完全に

神の言葉を読み違えて、誤解しています。イスラエルは神の大家族の長男、代表、だから責任が重いのです。異邦人は、弟、妹。

皆同じイスラエルの神に、イエシュアを通して戻り、同じ神の大家族に加えられたから、同じイスラエルの神の家の家訓を生きる!

どうして、そんなにものごとを、複雑にしているのでしょう?

神の教えがどれほど素晴らしく、麗しい〜神の似姿に創造された人の

生き方を、神が人に直接伝えているのに、それを理解しない人々が、神の言葉に敵対し、律法!律法!呪い、縛り、古い、悪い!と言い続けているのです。神の教えのすごさ、素晴らしさが見えてないから。

詰まり、神が伝える神の創造された人=イエシュアの似姿の人は、

素晴らしい生き方ができる。神の言葉、生き方の美しさ、高貴さ、

麗しさを理解していないという証拠なのです。

神の教え、契約は異邦人はイエシュア=イスラエルの神とも何の関係もありません!という事になります。だから、無法=神の教えを捨てて蔑ろにし、勝手を働く人、神の教えを捨てて勝手な事をする人に

対して、イエシュアは、「わたしはあなたを知らない!出て行け!」と言ったのです。

出エジプトした人は、イスラエルだけではなく、その中に異邦人もいたのです。モーセを通して神の声を聞いて、それを信じて神が伝える通り、子羊の血を鴨居に塗り、敷居に血をぬった人たち。

そして、シナイ山の麓で神の声をイスラエルと共に直接聞いて、同じ契約を受け取った

のです。同じ福音、購い、救いを信仰より受けて、神のものとなった人誰でも!ここに書いてある『誰でも」とは、「人」アダム〜イスラエル、異邦人、人種別など関係ない、全ての人=人という意味の言葉で書いてあるのです。

誰でも、神に近づきたいと思うならば〜と、神は言われたのです。

強制ではない!神に本当に近づきたいと願う人ならば、神の言われる

通りの近づき方をして!と教えているのですが、それが通じていないから、人が編み出した勝手な礼拝を作り続けているのです。

だから、ズレているのです。ずれた場所で、ズレた事を考え、生きている。

レビ記1:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうち

だれでも家畜の供え物を主にささげるときは、牛または羊を供え物としてささげなければならない。

イザヤ56:2 安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、

悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子は
さいわいである」。

 

福音書以降にも、トラーとは違う教え、トラーを否定した教えは

書かれていません!

トラーとは違う教えをしていると、勘違いしているのは、パウロの

書簡やイエシュアの言われた言葉、マルコ7:15、聖書に書いてない

文章を挿入している不正な翻訳、誤訳や、神が神の教えを破棄するという、ローマ帝国が神の言葉を破棄したのに、そのローマ帝国の勅令を神の教えだと完全に勘違いしているからです。

パウロは、神の教え=トラーを否定するわけは1000%ありません!あり得ないのです。

パウロは、トラー学者であり、トラーに100%忠実であることを

公に神殿の儀式を通して、宣言しているでしょう。

クリスチャンはパウロが言っている意味を、全然理解していません。

モーセの五書を変えた教えをしているという、偽の教え〜ローマ帝国教が作った教えを信じているから、聖書に書かれている事を、正しく読み取らない、いや素通りして、意味も分らないまま読んでいるからです。

神殿での100%モーセの五書に忠実に生きているという証明の請願をした箇所。使徒21:21−24

パウロがパリサイの中のパリサイと宣言している言葉の意味は、

100%モーセの五書に忠実に生きているという意味なのです。

 

使徒 23:6 パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部はパリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、「兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである」。

 

続く