ローマ14章 食規定と神の記念日が変更にされた根拠になっている間違った解説 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

モーセの五書をトラー=教えと言っていますが、神の教えを捨てる

思想は、異邦人、ローマ帝国の勅令から来たものであり、神からではありません!神の教えと神の記念日を捨てるとあるでしょう。

反キリストは神の教えに反することをする勢力のことなのです。

ダニエル7:25

それが、ずっと歴史の中で行われていることを知ってください。

 

ユニバーサル教が宗教会議で、人間が神の教えを塗り替える教理を

作り続けて今に至ることも、ダニエル7:25のそれです。

神の言葉を捨てる人たちには、神の警告は、もう届かない、響かなく

なってしまっているのです。

自分に無関係の教えとクリスチャンも、そう信じているでしょう?

トラーを捨てること、正義!と。神の言葉を捨てることが正義であると本気で信じているのですか?

神の言葉が廃れたと、神の言葉、教えとは真逆の人間の教えを本気で神の教えだなどと信じているから、神が語る真実が見えていないということに気がついてください。永遠に同じ警告なのです。変わらない警告。どの人種へも同じ。神の子らへの警告。神の言葉を捨てる人、背教=神の教えに反することをすること、無法=神の教えを捨てることと書いてあるでしょう。

それを、奨励するのは、人間の宗教教理、ローマ帝国の勅令です。

 

ローマ14章はクリスチャンの間で、無理な解釈を施して、パウロの言っている意味をまるで理解しないまま、ローマ教の教えでは、トラーは

廃れた、記念日、食規定は廃れたという根拠にされている代表箇所です。

この箇所を理解する鍵は、この最初の節の最後の言葉、「意見」に

あります。パウロ個人のローマの群れに対する意見なのです。

神の教えに対して、却下するとか、受け入れるとか、そんなこと

パウロは1言も言うわけなどもありません!

意見とは、何かについての個人的な見解や判断であり、必ず全ての人に共通する事実に関して話しているわけではなく、すべての人に受け入れられているわけでもありません。

だからこそ、意見はしばしば激しい論争の的となるのです。

神の言葉、教えでなければ、時と場合で、これもあり、あれもありも

あるでしょう。絶対ではないからです。

それは議論され、言い争われる意見もあれば、事実もあります。

確固たる事実があれば、論争は起こりません。それは決まっているから、真実として誰にでも受け入れられるものだからです。

初代の群れには、今も同様ですが、当然、それぞれに意見と事実の

両方がありました。

例えば事実には、唯一の真の神の存在、神の御子の遣わし、

子羊イエシュアの血の購い、救い、許し、祝福など、聖書に記述された事実があります。

でも、神の言葉に対して、人間はそれが正しいとか、有効、無効だなどの議論はできないのです。

例えば、シャバットは第七日目と神が言われたことを、人間が変えてもそれは何も意味がないどころか、その発言、行動は、神に直接

反する冒涜、神の記念日を汚す行為であり、神は、あなた方の間で

わたしが汚されている!と警告されていること、そのものを異邦人の世界では、今に至るまで行われてきてしまっているのに、全く気がついていないでしょう。

神の教えに対して、人間が是か非か議論するという、その思考回路

こそが、最初からずれているのです。

神の意図とは違う主張をしていることなのです。

人間は神の言葉に対して、意見することはできません。

 

でも、パウロが14章で述べているのは、ローマの群れに於けるある事柄に関する考え方の事を話しているのです。

この箇所のパウロの意見は、神の教え、食規定や、シャバット、祭り、記念日のことではなく、当時彼らの間で行われていた、断食がどの日が良いかとか〜断食はトラーには記されていない教えです。

それは人がやってもやらなくても、どうでも良い事なのです。

神の教えにはないものだからです。そして、他の箇所のように野菜しか食べないと決めている信仰の浅い人、偶像に捧げた肉を食べたら

汚れると思っていたから、野菜だけ食べて、肉を避けていればが安全と思う人。そのような聖書とは関係ないことに関して、人々が議論していたことに関して、パウロ自身の意見を述べているのが14章なのです。

ある問題に対しての、パウロの意見を述べていて、パウロは神の教えを塗り替える事など言ってなどいない事を、はっきりと理解してください。

クリスチャンが主張するように、人間が、神の言葉を塗り替えることをパウロがするならば、それは神の前に大罪であり、神に対する冒涜違反であり、教師、使徒でありながら、人々を罪=背教、無法を働くことに導いている事であることを、聖書から知ってください。

 

人間が神の教えを塗り替えて良いという恐ろしい考えを、平気で信じることができるのは、先祖代々の背景が異教徒だからなのです。

神の教えを、正しく理解していない証拠でもあるのです。

もし、神が言われたことを正しく理解する人ならば、神の言葉が廃れた、人間の意見で神の言葉、教えを自由に仕分けて良いなどという、そのような馬鹿げた教えなどは、神の教えではないとはっきり神の

言葉から理解し、嘘とまことの識別ができるからです。

 

14章は、パウロの意見についてが書かれており、神の教えの絶対的な義や、神の言葉の事実に関して話しているのではありません。

このことをさらに追求していくと、これらの意見が何を意味していたのか、より明確に理解できるようになるでしょう。

 

ローマ14:2から、パウロは問題点を概説し始めます。

中には何でも食べて満足する人もいれば、野菜しか食べない人もいました。

「何でも食べる」とはどういう意味でしょうか?

「何でも」と訳されているギリシャ語はπᾶς(パス)で、文字通り「何でも」を意味します。しかしもちろん、彼らが毒草や、人間の

死体、神が禁じた清掃動物、死んだ動物など、文字通り何でも食べていたのではないのです。

私たちは、もっと広い文脈に基づいて物事を考える必要があります。クリスチャンはこの「パス」〜なんでもという言葉を、神の食物に

関するトラーが廃止され、私たちは今は何でも食べられるようになったという意味だと解釈していますが、この文脈は、レビ記11章に

ある神が人に伝える、きよい動物〜人が食するために作られた相応しい動物と、清くない動物〜清掃目的で作られた動物の話など一言も

パウロはしていないことを、はっきり理解してください。

 

この箇所は1コリント8章と比較できる箇所でもあります。

 

ローマ14:1 信仰の弱い者を受けいれなさい。

ただ、意見を批評するためであってはならない。

 14:2 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、

弱い人は野菜だけを食べる。

14:3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。

日本人でも、なんでも食べて良いと言われて、死骸、人間、ネズミ、ゴキブリ、糞、みみず〜それらが人間の食べ物に含まれているなどと、微塵にも考えないでしょう?

このローマの群れの中心はユダヤ人なのです。

トラーを知る人たちは、神が禁じた清掃動物を違反して食べようなどという考えなど微塵もないのです。日本人がネズミ、ゴキブリ食べれるラッキーと考えないのと同じであると理解してください。

なんでも食べて良い、ローマ人が人食いを許されていたなどと考えもしないのと同じように、神の食物に関するトラー=教えについて何もパウロは語ってなどいないのです。

クリスチャンはパウロの手紙、その他の箇所も勝手な読み込みをし

続けているのです。使徒10のペテロが見た幻もそうですが、神が

けがれた動物なんでも食べて良いということを教えた幻であると、

クリスチャンは完全に勘違いしているのです。

神は神が伝えた罪を、これからはやって良いよなどという、そんな

嘘や人を罪に導く誘惑はしない!とあるでしょう。

トラーには、菜食主義なども書かれていません!それは、神の教えではありません。神は人が食せるに相応しい動物を最初から創造して、

それを人に伝えているからです。

神の禁じた動物〜清掃動物は食べない、人間の食べ物として造られていない、きたない動物であり、病原菌の宝庫であり、疫病になる原因だから、それらを食べない。プラス、聖別を汚す行為であるから、

神が聖であるようにあなたの聖であれと、食規定の教えのレビ記11章で、聖別の定義をはっきり教えているのです。

聖別の定義は、神の記念日レビ記23章でも教えているのです。

神の子らに与えた独特、ダントツに際立って違う、目立つ印を神は

特別に与えているのです。

だから、神の教えが変更する、変わるとは、天が崩れ去ってもありえないのです。イエシュアもそう言われたでしょう。

神の教えが廃れるより、天地が崩れる方が簡単と。

この箇所は、異邦人〜汚れた動物、豚、犬という意識でいた当時の

ユダヤ人たち、ペテロも含め浸透した偏見というのは拭いされないものであり、口伝律法では、改宗儀式をしていない異邦人と交わり、

食事もしてはならないというルールがあったのです。だからパウロはペテロを戒めたでしょう。異邦人と共にいることを、ペテロは後ろめたく思い、ユダヤ人がいる場所では、それを知られないように極力

気をつけていたからです。

 

イザヤ66:15 見よ、主は火の中にあらわれて来られる。その車はつむじ風のようだ。激しい怒りをもってその憤りをもらし、火の炎をもって責められる。

 66:16 主は火をもって、またつるぎをもって、すべての人にさばきを行われる。主に殺される者は多い」。

66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。

66:18 「わたしは彼らのわざと、彼らの思いとを知っている。わたしは来て、すべての国民と、もろもろのやからとを集める。彼らは来て、わが栄光を見る。

文脈は重要です。ここは「主の日、神の怒りの日」について言及されています。これは未来の出来事、未来預言なのです。

豚の肉を食べることは、神の怒りを受ける者たちの識別点です。

さて、もしローマ人が聖書を調べた高貴なベレア人のようであった

なら、パウロが神が食べてはならないと言われた物を食べる許可を

与えていると考えていたなら、ローマの群れにいたユダヤ人達は間違いなく反対したでしょう。

パウロは神が不敬虔な者たちに怒りを注ぐことについて語っているのです。

そしてイザヤ書の中で、預言者は諸国民が豚肉を食べること(他の理由も含む)によって神の怒りを受けると述べています。

明らかに、パウロが「私たちは何でも食べてよい」と言ったとき、

彼は神のトラーを覆しているのではなく、神が定めた指針、規定、

教えの中での何でも〜人間の食べ物〜きよい動物の何でも食べてよい、ただし食べても良いものでも、兄弟にとってつまずきとなる場合は、その人の前では、それらを食べるのを控えるべきだと言っているのです。

 

続く