一般的なキリスト教の世界で教えられていること、聖書解説、
思想の土台は、イエシュアが地上に来られた後は、古い教え〜モーセの五書が終わり、古い教えからメシアが人を解放された。
それら古い神の律法は異邦人には、オプション、神からの提案、
個人の意見で神の言葉を自由に仕分けて良い考えている。
又は新しい教え=モーセの五書とは異なる、今迄聞いたことのない
新しい別の教えをイエシュアが人々に伝えた。
又はモーセの五書を終了した教えが出現したと主張し、そう教えています。
イエシュアが直接語られた言葉から照らし合わせても、上記した
異邦人の間で一般的に流通している教えは、聖書とは全く異なる、真逆な解説であることが、クリアーに聖書に記されています。
イエシュアは、父の言葉=モーセの五書=トラー以外に何も別のことは教えない!と、父が語られたことだけを語っていると、当然のことを、言われたでしょう。
遣わされた方=父のトラーを神の意図通り、天の解釈通りを、
イエシュアが人々に伝えたのです。
当時ユダヤ人の間に蔓延っていた、人間的解釈〜口伝律法は、先祖の言い伝え、伝統の教え、戒めの律法であり、神の教えの本質とはズレたトラーの解釈をしていると、何度もイエシュアは人々を正していることが、書いてあるでしょう。
聖書、そして福音書以降に登場する人は、全てほぼユダヤ人です。
その人達が最初に契約を受け取った代表の民だからです。
イエシュアは失われたイスラエルの羊のところだけに遣わされたと
言われたでしょう。
そして、イスラエルが神の契約=トラーに記された生き方から外れて異教の神々の教えやシンボルや礼拝、シャバットや祭りを汚し、更には異教徒と同じような生活をして、イスラエルの国から追放されたのです。
預言者は、イスラエルへ神の契約=トラーに記された生き方に戻れ!
という神からの託宣を伝えた人です。預言書の意味、意図は、神の
教えに戻れ!という促しと、そのままいったら危ないという警告が
中心、であり、未来預言が書かれているのが預言書ではないのです。
未来預言は、ほんの少しの内容なのです。
イスラエルが契約の生き方、神が伝えた生き方から外れたので、
アッシリアの捕囚があり、バビロン捕囚が起きたのです。
そして、その捕囚から帰還した人達は、神の教えに反することをしないようにしようと、神の教えの周りに垣根を作ったのです。
詰まり、神の教えからズレないようにという動機は正しいものでも、
それが、人間の編み出したルールでぐるぐる巻きにされて、神の伝える意図が消えて、本末転倒の教えになって行ったのです。
イエシュアが言及した、「手洗いの儀式」や又は、シャバットに人を癒してはならないとか、落穂を拾ってはならないとか、人間の命が
修復されることが中心であるシャバットの本質からズレた考えをした人たちのことが書かれています。
そして、パウロの議論、使徒15章での「改宗儀式」異邦人はユダヤ人になる改宗儀式をしなければ、天の国の正式メンバーではないなど、それらの儀式を、「割礼」という名で呼んでいたのですが、
アヴラハムの割礼とは違うのです。人間が編み出した宗教儀式。
そして、神の教えでは、贖い、救いは儀式や人の行いで得るのではなく、神の提供した子羊の血の購いを、信仰により受け取るだけ!
それ以外方法がないからです。人間の手柄で、救い、贖いは得られない。それならば、恵はいらない、イエシュアの血の代価など必要などないということになるからです。人間が自分でできないから、一方的に与えられた譲渡契約=信仰義認なのです。
そして、もし改宗儀式をしても、その後にさらに、彼らユダヤ人が
編み出した口伝律法を朝から晩まで守って、やらなくても良いことやらされ生きなくてはいけないという、これこそ窮屈な束縛を人に課したのです。これ、今もあるのです。ラビが考えた教えに従う。
クリスチャンの中にも、同じようにあります。宗教=人間が考えた
教えに従わされる。宗教〜人間の作ったどうでも良い教えの中では、必ず起きることなのです。
だから、使徒15章で、異邦人に無理な負えない負担を負わせないで
最低限神の教え〜トラーに記されている教えの4つだけ、これらは
神の前に罪であることを最初にはっきり知った上で、パリサイ派の
イエシュア信者の交わりに、この改宗儀式のない異邦人も入れましょうと決めたのがエルサレム会議と呼ばれるものなのです。
仲間に加えるその条件は、その後、異邦人は毎週シャバットごとに、シナゴグで神のトラーを教えられるうちに、神の教えを徐々に理解していくはずだから、寛容に異邦人を取り扱おうと書いてあるのです。
この箇所さえ、異邦人は神の教えの4だけ守れば良いなどという、
曲がった解説が施されていますが、その中の2つは異邦人は今も
守ってもいないでしょう。
けがれた動物〜清掃動物を食する、血のしたたる肉を食べるなど。
キリストは、古い悪い律法=神の教えから解放する為にも、地上に
来たのだから、それらの古い教えに戻り生きることは、悪いことだ?
古い教えを、イコールユダヤ教とクリスチャンは思っているから、
ユダヤ教に戻ることは悪いことだ、キリスト教という新しい教えを
恵の時代、聖霊時代、昇天以降は生きるのだ〜というような、聖書
解説を聞きますが、言っている意味の根本が間違っていて、ズレているのです。
聖書には、宗教の教えは書かれていません。ユダヤ教もカトリック、
キリスト教の教えも書かれていません。
そして、福音は永遠の中から同じで1つです。イエシュアが2000年前に地上に来られる前から、永遠の中から、この世の礎が創造される以前から屠られた子羊の贖いの代価は存在し、そして私達も、この世の礎が造られる前から神の中にあり神により選び出されていたと
いう、理解不能なでも永遠の真実を神が人に伝えているのです。
分からないけど、アーメンと信仰によりその事実を受け取ることが必要なのです。
歴史の中で大きな出来事があると、それ以降別の教えが出現したと主張するのが、人間〜ダービー教の思想、デイスペンセーション神学
思想ですが、聖書とは異なる教えです。
歴史の中に大きな出来事〜神の業が表される出来事があってもなくても、神の教え、贖い、救いは永遠から変わらない、同じであると
理解してください!エデンの園から同じ。なぜなら、神が人に伝える通り、神の言葉は変化、進化、移り変わらない、永遠に固く確立されているものだからです。
そして、神の家族は最初から1つの群れ、カハール、エクレシア=神の声に応答して呼び出された人々の群れは1つだけです。同じ群れ
カハール、エクレシアに全ての人が加え続けられるだけ。
ユダヤ人も異邦人も同じ1つの群れ〜神の大家族に加え続けられると書いてあるでしょう。
異邦人だけの群れ、教会という言葉も、聖書には記されていない、存在しない言葉、造語です!
そして、エデンの園から、神の贖い、救い、赦しはアダムとハヴァにも与えられていて、神が屠った子羊の衣=義に衣を着せたでしょう。
全く同じ。アダムとハヴァは、神の前に罪を告白して、神が伝える
言葉を聞いて、受け取ったのです。今と全く同じではないですか。
それ以外救われる為、他に何をするのですか?生贄捧げて一時的に許された?
聖書、レビ記を読む前提が最初からズレていることに、気がついてください。
地上でたった一つの場所、イスラエル、エルサレム、天にある神の家
そっくりそのままのレプリカをエルサレムにつくり、目に見えない
天の神の家の実態をそっくりそのまま人に教えるために、神が人に
作らせて、その中に神の臨在があったのです。
神は制限された場所に住まわない?そうです。その通りです。神は世界に満ちていて、神の中に実は私達は存在しているのです。
でも、イエシュアが人となって肉体と、場所と、時間に制限された
姿で来られたように、神はご自由にご自分の実態を人に表し、教える
自由があるのです。それが神の家であり、神が唯一全民族の中から
選び出したイスラエルにだけ、この地上の土地、国の所有権を神が
与えた場所、それがエルサレム、イスラエルという国なのです。
神の国、天の国の現実、神の創造されたオリジナルの人=イエシュア
の似姿そっくりそのままを生きて、天を反映させる人と、場所を神が
選んだのです。だから、その約束の地に住む人は、神の性質=トラーに反した汚れたズレた生き方は絶対にしてはダメ!全世界に対して
イスラエルの神と、神が創造された人間の性質とは異なることを
伝えては、地の塩、契約の命に生きる塩気がなくなり、世の光、イエシュアの光にならない鈍い濁った光になるからです。
動物の生贄、生贄という翻訳も不適切ですが、本当の言葉は、コルバン、コバノート、「近づく」draw nearという意味の言葉なのです。
神に近づく、本当の関係、本当の性質に戻ることを、教えているのです。これは、深い深い学びなので、一言では言えませんが、神の家の
中で、神の家族の生き方、神の前に新しくされている事実の詳細全て
イエシュアの業、その他諸々知らなくてはならない全てが教えられている、それがモーセの五書、特にコルバンに関してのことが、レビ記の中に記されているのです。
だから、トラーに書かれている意味をその通りに学ばないまま、福音書以降を読んでも、自分の空想で読んでしまうのは、避けられないのです。
エデンの園も今も未来も、神の贖い、赦しは、瞬時だからです。
そして、トラー、預言書、諸書に記されている救い=イエシュアを
残りの民はどの時代も知って、聖霊を受けていたのです。
それらの人達を、クリスチャンという1世紀にユダヤ人が付けた
「あだ名」で呼ばれていないだけで、「残りの民」聖書にと書いてある、神と対話し、神と共に歩んだ人たちは、皆贖い、救い、赦し、
聖霊を内側に受けて生きていた人達なのです。
だから、昇天以降、初めて聖霊が人の内側に住まうことが開始されたとか、初めて神から赦し、救いが与えられたとか、そのような西洋人が発想した哲学思想で考えているから、永遠から語られる同じ福音、真実が見えないまま、人間が作った宗教の教理、思想で聖書の事実を曲げて解説し続けてしまうのです。
どの時代も同じです。神は同じだからです。イエシュアも永遠の中から存在して、子羊イエシュアの贖いの代価も永遠の中に、この世界が
物理的に創造される前から、完了、存在している、その神が語る事実からだけ考えれば良いのです。
恵により、イエシュアの地上の処刑、復活でせっかく古い悪い呪いの縛りの教えから解放されたのに、それらの神の言葉、教えを生きることは、恵を捨てた生き方であり、聖霊により生きるのではないのだから、悪いのだと本気でそう信じて、神の教えを勘違いしているでしょう?
聖霊=言葉=イエシュア=神は同一であり、神が神の言葉〜聖霊に
より記した、ご自分が創造された人間の生き方を、歴史の途中で
変える、否定する?神は神の約束、言葉は永遠に廃らないと言いながら、その後歴史の途中でご自身の言葉を完全に翻したとするならば、そのイスラエルの神は、分裂症の神であり、ご自身が紹介された性質の神、聖書に記されている神とは全く異なる神になってしまうという、矛盾にはっきりと気がついてください。
大体、神の言葉を律法という名詞で呼んでいる意識からしてズレているのです。律法とは異邦人の翻訳であり、元の言葉ヘブライ語の
トラー=教え、インストラクションを全く反映していない、不適切な訳なのです。その言葉が浸透しているから便宜上、律法、lawなどと
言っていますが、聞くたびに、神の教えの性質とは全く違う性質の
意識を刷り込まれ続けてしまう翻訳用語なのです。
だから、翻訳聖書だけ読んでいて、元に記された本当の意味を知らないまま読んでいたら、聖書に書いてあることは、別の色、別の画像
別のストーリーに変形し、違うものが浮かび上がったままになってしまうのです。元の意味を知る必要があるのは、それなのです。
教える人が、聖書を正しく知らないとならないのです。
詰まり福音書以降〜黙示録までが、今迄になかった新しい教え、
新しい契約と考えているでしょう?
それらを記した使徒達が、何者であり、何を信じて、何を土台にして
それらを書いているのか、全く理解していないからなのです。
もし、聖書が、最初の部分が塗り替えられたら、福音書以降の解説も
存在できなくなるのです。なぜなら、使徒の書簡、聖書全体も全て
モーセの五書を解説しているものだからです。
又は、クリスチャンが主張するように、最初の部分の、ある部分だけが有効とするならば、それは神が伝える完全版、シャローム、神の
性質=神の言葉の性質に全く反した分裂した思考回路を持つ聖書に
記されていない神、神の教えになります。
もし、福音書以降だけが新しい神の教えならば、それこそ神の教えの不完全版です。なぜなら、そこには、人が生きる全ての詳細、全貌は記されていない、罪の定義の完全版も記されていない、最初の部分の抜粋が解説註解として、ヘブライのトラーを知る、ユダヤ人に向けて書かれているものだからです。
トラーを理解している人に向けて、抜粋が書かれているのが福音書以降の解説、註解、後書きです。
どういうことかと言うと、例えばイエシュアが話されているたとえ話や、弟子達に神の教えの解説をしているのは、全てモーセの五書=
トラーに記された内容を話しているのです。
それらは、例えば、ある言葉の一言、フレーズ、ある箇所に関して
冒頭だけを話したら、その裏には、トラーや預言書、諸書の中に記されたある何章、何十章と言う内容があるのです。
それら一言、1つのフレーズを聞いただけで、一度に全部その内容の全貌が頭に浮かんでくる人達に向けて、短い言葉で話しているのです。それらの話し方を、ラメズというのです。
こういうことです。ある曲の最初、イントロクイズみたいに、それを
流されて聞いたら、その曲の全部を歌える、知っている、理解しているということと同じ。全部歌わなくても、冒頭を流せば、何の曲か
すぐに分かる。そういう理解の人たちに、短い言葉で語っているのです。
続く