神の言葉を塗り替えたのはローマ帝国の勅令であり神ではない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

クリスチャンの間で18世紀以上もの間、浸透してしまった非聖書的人造宗教の教えや神学の由来をはっきり知る必要があります。

 

一般的にクリスチャンの間で、流通している教え、見聞きする教えは以下のようです。

1)モーセの五書、律法が昇天以降廃れた。仮の一時的な不完全な

教え。人を縛り、人がどれほど罪人で、神の教えを生きれないのか

教えることが目的のもの。

2)神の性質、神の教えは、時代ごとに変化する。

3)神の教えは人種別に2種類の違う教えがある。

4)モーセの五書、律法は古い教えで昇天以降廃れた、異邦人には

今は無関係の教えである。ユダヤ人だけ生きれば良い教えだ。

律法を生きる人は、恵を無駄にする人だ。

5)2000年前以前の古代の人々は、律法を生きて義とされた。

6)イエシュアが来られる迄、動物の生贄で仮の許しを得ていた。

7)昇天以降は、イエシュアが処刑されたので、それ以降神殿では

動物のコルバンは捧げられなくなった。神の教えが変わった。

8)昇天以降は、怒りの神の律法時代は終わり、恵の神の聖霊時代になった。

9)使徒2章のシャヴオートの祭りで、初めて人々の中に聖霊が住まうことが始まった。

10)ユダヤ人とクリスチャンは、永遠に天と地に別れ、別の場所で生きる、治める。

 

上記は、全て聖書とは全く関係のない、人間が作った教えです。

これらの思想は、全て聖書、神の言葉ではなく、ローマ帝国の勅令

ローマ皇帝〜ローマ教皇、司祭達が勝手に神の言葉、教え=トラーを塗り替え続けて編み出した思想です。西洋人だけで行われる宗教会議を何世紀にも渡り何度も開き続けて、その都度、聖書とは関係ない

教え、教理を編み出し続けて行きました。

そして、オリジナルの神の教えを、生きることを何度も何度も勅令、

法とし禁じ続けて行きました。

そして、それらが、直ローマ帝国の法律、勅令になり、人々に聖書とは異なる教えを生きるよう法で縛り強制執行して行ったのです。

モーセの五書の教えを生きる事を、ローマ帝国の法律として禁じる事をし続けて行ったのです。

 

クリスチャンは、神が神の教えを昇天以降、十字架につけたので、

神が神の教えを破棄、変えたという聖書に記されてもいない人間が

作った勅令、迷信、神話、空想話を信じているのですが、事実は、

人間が変えたのです。ローマ帝国、皇帝=教皇、法律として神の教えをバンして、禁じた、それが真実なのです。

ユダヤ人抜きの西洋人だけによる「宗教議会」、ローマ帝国下にある司祭達が勝手に考え、決議し、そのような宗教の教え、教理をローマ帝国の勅令、法律と制定し、人々が人間の編み出した聖書とは関係のない教えに、従うようにさせ続けてきた事を知らないとなりません。

 

置換神学や、デイスペンセーションも同様にそのようなモーセの五書終わりありきとする思想を土台として編み出した思想〜空想話であり聖書の教えではなく、聖書に記された事実に反する人間が作った非聖書的教えなのです。

トラーを知らない異邦人が編み出した、空想ファンタジー思想です。

そのような思想に照らし合わせて、聖書を読み解いてるから、土台が

根拠が偽情報なので、正しい聖書解説は出て来なくなっているのです。

では聖書に記された、永遠の真実とは何でしょうか?

 

1)神は神の言葉を歴史のどの時点でも変えていない、永遠に変えない。神は嘘つきではない。神は神の性質に反して、人に伝えた永遠

普遍である神の言葉と言いながら、後になり神の言葉は終わりなどと言う嘘、偽りを語らないと言われたからです。

神の性質と同じく、神は神の言葉を変えない。

神は偽りものではないからです。

 

2)昇天以降、神の最初の契約、教えは廃れた。神の教えは人間の

意見、判断により生きる聖霊時代になったとは、ローマ帝国、ローマ教皇、西洋教父、置換神学や、デイスペンセーションが編み出した

思想であり、聖書ではない。そのような人間の教えを土台とする聖書解釈を聞いても、ある部分は真実でも、根本が人間の教えなので

正しい聖書解説にはならない。

神は、神の言葉に人間が付け足し、差し引きすることを、断固として

禁じている。

 

3)イスラエルは神の契約〜教え〜トラーを代表として受け取る役割を与えられて、それ以外の全ての民族は、イエシュアを通して同じ

契約に加えられ、神が伝える神が創造された人間の生き方をすると

聖書では、教えている。イスラエルと異邦人は、別々の群れであるとは聖書には記されていない。エデンの園から同じ1つの群れ〜カハール、エクレシア、群れ、集会、会衆という翻訳で書かれている。

同じ言葉、カハールエクレシア〜集会、会衆、群れを、福音書以降、

神学思想、分断思想を持つズレた思想を翻訳に搭載し、同じヘブライ語、ギリシャ語を、「教会」という別の翻訳に変えてしまい、あたかも別物の群れが、初めて新しく出現しと人に印象付ける翻訳トリックが施されている。印象操作。同じ言葉、集会、群れという翻訳を使うべきであり、翻訳だけを頼りに考えていると、聖書の一貫性、繋がりがこのように不適切な翻訳のおかげで、永遠の真実が埋もれて見えてこない。

4)未来は、天と地が一つ、イエシュアが統治される世界を、神の契約

に記された生き方に全ての人が戻り生きる時代が来る。

 

エレミヤ 31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家と

ユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。

<新しい契約〜シナイ山で与えられた同じ契約が、又再更新される日が未来に来る。それらは、異邦人に与えらるものではない。イスラエルの神が異邦人に与える別の契約など存在しない。ユダヤの家と、

イスラエルの家だけに与えられる。全ての人〜異邦人は、ユダとイスラエルの家に与えられる同じ契約に加えられ、同じイスラエルの神の大家族に加えられる、接木される、同じイスラエルの羊の囲いに入れられ、本物、1人の羊飼いイエシュアにより守られ、統治される日が来る。>

31:32 この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。

<エジプトを出てすぐの時、彼らの頭脳は、神の教えを理解し、

受け取る状態が整えらないまま、肉の性質のままであった人も大勢いました。人間の側の状態が違うようになる、神の言葉が変わるのでは

ないのです。その理由がさ33-34節に記されています。>

 

31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる

契約はこれである。すなわちわたしは、わたしのトラーを彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。

 <内側から変えられた人は、神のトラーを、裏表知り尽くした状態

頭脳に、腹に刻まれて身に染み付いている状態で生きる。>

31:34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。

 

ゼカリヤ14:9 主は全地の王となられる。

その日には、主ひとり、その名一つのみとなる。

 14:16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、

皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るように

なる。

14:17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。

14:18 エジプトの人々が、もし上ってこない時には、主が仮庵の祭を守るために、上ってこないすべての国びとを撃たれるその災が、彼らの上に臨む。

14:19 これが、エジプトびとの受ける罰、およびすべて仮庵の祭を守るために上ってこない国びとの受ける罰である。

 14:20 その日には、馬の鈴の上に「主に聖なる者」と、しるすのである。また主の宮のなべは、祭壇の前の鉢のように、聖なる物となる。

14:21 エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して聖なる物となり、すべて犠牲をささげる者は来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。

その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。

 

1世紀当時、ヘブライの世界、ヘブライ思索、ヘブライ語のトラーを

理解して生きていた人と、似ても似つかない西洋人が編み出し宗教の教えがどうして、編み出されて、今に至るまで聖書とは違う教えを

付け加えられ続けて来たのか、その歴史の史実を前回まで、15世紀前までのローマ帝国での出来事を書きました。

 

クリスチャンは、神が神の教えや記念日を変えたと、聖書に書いていない事を、書いてあるのだという空想を信じています。

その理由は、ローマ帝国が作った宗教が神の教えだと勘違いしている事によるのです。

神はそのような人間の教えが混ざった宗教を作っていない、教えてもいない、いやそのような人間の混ぜ物の教えに対して厳重警告で禁じています。

反キリストとは、神のトラーと神の記念日を変え、神の教えに逆らい

敵対する事をする、人にそのように強要する、神に敵対するものである事が記されています。

反キリストは、一度現れるのではないのです。一人の人だけではない。神に敵対する事に賛同して生きる集団なのです。

それが、歴史の中で繰り返し、繰り返し行われているのです。

160年代のギリシャ帝国の迫害。トラーを生きる人を法律で処刑し

神の教えに逆らう行為をユダヤ人達に強要しました。

この結末が、マカバイ戦争、そして神殿を取り戻した勝利の記念日が

ハヌカの祭りとして祝われるようになりました。ヨハネ10:22

イエシュアもエルサレムの神殿で「ハヌカ〜宮清めの祭り」を祝った記録があります。167年、マカバイ戦争が起きた時代は、マラキが

閉じられ、福音書が記されない空白の400年です。

だから、聖書に唯一、ハヌカの祭り、しかもイエシュアが祝った記録がこのヨハネだけに記されています。

そして、1世紀当時も、ローマ帝国の迫害は、残忍極まりないものでした。

クリスチャンの世界では、聖書著者の人物、背景、何を、誰に対して書いているのかという正しい知識がないまま、現代のキリスト教〜

西洋宗教思想で、聖書の記述を読み込みをしているのです。

黙示録に記されている内容、患難時代は、未来に起こるだけではなく、これは、歴史の中で繰り返し繰り返し、巡りめくり何度も何度も起きている事を記しているのです。

異邦人は、西洋哲学思想、歴史線上にものごとを見ていますが、

聖書はサークル、円です。繰り返し、繰り返し、ぐるぐるぐる同じ事が歴史の中で繰り返される事が書かれているのです。

だから、ギリシャ帝国の迫害、ローマ帝国の迫害、そして、それ以降の異邦人がユダヤ人に対してやった迫害も患難なのです。

1世紀のローマ帝国の残忍な迫害、これが患難でなくて何なのでしょう。

黙示録に記されている、7つの教会とありますが、これは、教会などという言葉ではなく、カハール、エクレシアです。群です。

 

黙示録1:4 ヨハネからアジヤにある七つのカハール(エクレシア、造語翻訳=教会)へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から

 
カハール、エクレシア〜神に呼び出された人々の群れです。
教会という意味はゼロです。教会は異邦人が作った造語、聖書にない
言葉に対する、不適切な作った言葉の翻訳です。
この群れの中心は、ユダヤ人なのです。そして、この7つの群れが、

7つの都市に存在している、その都市とは、今のトルコ周辺です。

そこの地域には、いろいろな人種、ギリシャ、ローマその他、いろいろな人種が混ざった、人種のるつぼであった場所なのです。

異教神の思想、哲学が蔓延しているそのようなところにいるユダヤ人へ送った警告であり、それは、1つの群れではなく全部の群れに対して、次へ次へと同じメッセージが伝えられているのがヨハナンの警告なのです。

ヘブライ思想、1世紀当時の人は、記されている言葉、数字で何を

語っているのか理解していました。そして、1つの言葉で表される

その裏には、トラー、預言書のある箇所全体のメッセージを思い起こさせ、その中に記されている内容を考える事ができる人々に書かれているものなのです。

そのような理解は異邦人にはないのです。それは神の言葉を知らないからです。

5という数字をヘブライ人が聞いたら、モーセの五書と考えます。

モーセの五書に忠実に生きない事を警告された5つの群れ。

そして、2は、契約の板の2つ。神のトラーに忠実に生きて称賛だけを与えられた二つの群れが記されています。

スミルナとフィラデルフィアです。

2は、たくさん出て来ます。神のトラーに忠実に生きている残りの民、イスラエルと異邦人の両者のことなのです。

 

 

 

 

続く