ローマ10章 新しくされた人を体験していないユダヤ人へ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ローマ人への手紙ですが、色々パウロが解説していますが、

問題点をはっきり明確にし続けて、読んで下さい。

 

そして、クリスチャンの中で誤解されている2つ別の内容を一緒くたに混同して考えていることも、はっきり把握して理解して下さい。

 

パウロがずっと語っているのは、ローマの群れにいた、トラーに対する理解の浅いユダヤ人、イエシュアを通して新しくされることをよく把握できていない人たちへ、語っているのです。

 

ローマ 10:1 兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。

 

パウロがはっきり言っています。救われるようにと。

詰まり、神の教えを頭では知っている。でも、その神のトラーは

イエシュアを通して新しい命を得ていなければ、神の教えを行って

いたとしても、神との本当の関係には戻れない。エデンを飛び出したまま、神との隔たりの場所に居るからです。

家の外で門の外で、家の中の部屋にある、お茶の間の団欒をしている家族を見ているような感じです。

 

そして、救われていないユダヤ人は、異邦人〜契約の中にいなかった民、生まれつき割礼がない人達を見下し、選民意識を持っているズレた考えをしていた、救いを得てないユダヤ人へ話しているのです。

 

異邦人に対して、イエシュアを通して新しくされているのに尚も、

自分たちの間に浸透していた「口伝律法」ユダヤ人になる改宗儀式をしない異邦人は、正式に救われていない、イスラエルの神の大家族の一員となっていないという、ズレた思想があったのです。

 

そして、クリスチャンの間で、正しく神の教えを捉えていない点は、

神が神の婚姻契約〜トラーを与えた目的を誤解していること原因があるのです。

 

1)イエシュアを通して贖われて、聖霊を受ける〜新生体験をする、

罪許されて、義とされること、これは信仰による以外にないということ。それを、信じるだけで良いんですと、クリスチャンは言います。

 

そして、もう一つは、新しくされた人には、条件付きの婚姻契約が

あるのです。

 

2)新しくされた人を信仰で受け取る事実が前提にあるのです。

新しくされた人=義とされイスラエルの神の大家族に加えられた人達は、もれなく全て、神の提示した婚姻契約を生きるという、神から提示された条件付きの契約がある!それが、トラーなのです。

それを、クリスチャンは正しく教えられていません。

 

トラーは人を救うために与えられたものではありません。

トラーにはそのような目的はありません。

救われた人〜神の花嫁になった人達に、与えられたものです。

それは、イエシュアを通して聖別された人の本来の生き方であり、

神の大家族の家訓を全ての家族のメンバーが生きる、それが神の

契約であり、トラー=神の教えであるのです。

この2つを混同しているのです。

ガラテヤ3:23-25にあるように、神を知らない人でも、神の教えを理解して、それを生きていれば、やがてイエシュアに導かれる

そのような側面も、トラーにはあります。でも、トラーを生きたから

神の義、命、新生体験を得られるという目的はありません!

この違いを、はっきり正しく区別して理解してください。

神と直接出会うとは、信仰により神に出会う、神の救い〜イエシュアを通して、神の元に引き戻される、それは神しかできないのです。

救われたら、神の厳しい教え=律法からも解放されたので、今は人間の意見や判断により神の言葉を、人が自由に仕分けて、生きて良いという、神の教えとは真逆の教え、神の教えに反する思想をクリスチャンは教えられてしまい、神の言葉に反する罪を犯しても良いと教えられ、聖書ではない教えを、聖書であると勘違いしているのです。

聖書にある罪の定義とは、神のトラーに反する行為である!という神が提示する定義を知らないならば、どこまでもズレてしまいます。

これを、はっきり聖書だけに戻り、正さなくてはならない、歪み、

間違いなのです。

神は出エジプトする前に、神の正式な婚姻契約をイスラエルと異邦人に与えたのではないことでも分かるでしょう。

出エジプトする前に、モーセを通して神が伝えたこと、子羊の血を

家の鴨居に塗りなさいと神が言われた言葉を聞いた人達、この中には異邦人も含まれているのです。神に言われたことを、それがどうなるのかよく分からないけれど、言われた通りを信じて受け取り、そして行動に移した!その人達の家を、死が過越して、子羊の血で覆われた事実により初子の死を免れたことでも、神の伝える同じ福音を理解できるのです。

聞いたことを、信じて受け取り、救われた!

それは、信じる人に対して皆同じでしょう。イエシュアに出会った事、それは神の教えを全部を理解したから、それが起きたのではないのです。

神がいる!と先ず気がついた。信じた。それが始まりであり、後から聖書に書いてある、子羊イエシュアの贖いの血、救いの業、完了の業の意味を知って行ったのでしょう。

その人達が、エジプトを脱出して7週目に、シナイ山で正式に花嫁として、婚姻契約を受け取り、神の家の家訓を生きると神の前に宣言し

誓った、それがシャヴオートの祭りなのです。

 

クリスチャンが教えられてきた教えは、聖書の事実もありますが、

神の教えに反する思想をふんだんに刷り込まれてきてしまっているのです。

神が与えた婚姻契約〜神が提示する保証、恵、約束、祝福、神との

関係がこの契約を通して成り立っているその根幹、重要な契約に対してを、「呪いの厳しい廃れた古い律法」などと言い、神が神の契約を破棄されたという、聖書に書いてもない、神の教えとは真逆の思想を語っていることに、全く気がついていないのです。

 

反モーセの五書思想の出どころは、反キリストの思想であり、

それが、ダニエル書で預言されている反キリスト、神のトラーと神の記念日を変えようとする、7:25、11章に記されているものです。

実際にギリシャ帝国が、160年代にトラーを生きるユダヤ人を全員処刑したこと、それがマカバイ戦争が起きたきっかけなのです。

それと同じ事を、1世紀のローマ帝国がやったのです。

モーセの五書を生きることを処刑、死刑、重税を課して禁じたこと、

ユダヤ人と異邦人の両方に対してやったのです。

だから、トラーなど元々知らない異邦人は、命の危険が迫れば、

神の教えを捨てた〜だから、「はじめの愛を忘れた」黙示録2:4とあるのは、神殿崩壊前後にトラーを捨てた異邦人に対して、ヨハネが

語っていることに、気がついた方が良いです。

クリスチャンは、歴史の中で起きた出来事を知らないとなりません。神が神の言葉を変えてのではなく、人間が変えたのです。

人間が神の言葉、教えと、神の記念日を変えて別物を作り出したのです。それは、神が許可していることではない、絶対的に禁じていることなのです。脇が甘いと言いますが、神の言葉をガードすることに

ゆるゆる〜それが異邦人の世界の教えなのです。

反キリスト思想、イコール、反モーセの五書思想であり、反ユダヤ

思想なのです。

だから、律法は廃れたというスローガンは、聖書とは全く関係の無い反キリスト、神に敵対するものがやったこと、やること、これからもやり続ける事である警告が聖書に書いてあるのに、その意味がクリスチャンには全く通じていないのです。

 

ここでパウロは、信仰によって義を求める異邦人と、トラーを行う事で義を獲得する〜聖霊を受け取る事を行いによって行う求めていた

トラーを正しく理解していないユダヤ人を対比させています。

これは理解すべき重要なことなのです。

ユダヤ人という定義も正しく理解しないとなりません。

北の王朝の10部族のイスラエルは世界へ散って切り離されました。

南王朝のユダとベニヤミンが、バビロン捕囚から、722年BCに

ネヘミヤの元、戻ってきたエルサレム、神殿を復興したのです。

 

義は、上述したように、神の教えを実行する、聞いてその通りに生きるという自分の行いによっては決して得られないからです。

トラーへを忠実に生きることを自分の義を獲得するために使うことは、トーラーの機能と目的に対する誤解だからです。

 

トーラーは確かに、色々な側面があり、それを理解する人には命をもたらしますが、それらは行いによってではありません。

大元がない〜新しく生まれ変わる事実がないまま、何をやっても、

本来の意図通りの自分、神との関係に入る事ができないからです。

電源にコンセントを差し込まない状態であるという事です。

神との関係に戻らないならば、それは神との隔たりがあり、そして

ずっと罪の責めの下にある状態になるからです。

 

ローマ10:2 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。

10:3 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。

 

パウロがモーセのトラー全体に関して理解していたことは、トラーは、義、新しく生まれ変わる、神の前に善行をして梯子を上り

自分の努力で神に近づく目的で、意図されたことは決してないことです。

人は、人間であり、神ではないから、神に自分で近づくことができない!それが、ずっと書かれているでしょう。神の領域にそのまま入ったら死にます。

だから、エデンの園に炎の剣を持ったチェラビムが置かれて、

同時に、エデンに戻る、シグナルの役目もしているのです。

本来の姿ではないまま神に近づいたら、死んだ体で、永遠にそのまま生きてしまう。そして、神の命が宿る言葉が入った契約の箱を、人は素手で触れたら、死ぬとあるのです。

人はそのままで神に近づけないのです。だから、イエシュアを通して以外、誰も神のもとに戻れない!と言っているのです。

 

神の教えというハシゴを登って「義」の地位を獲得するはずではなかったということです。トラー=婚姻契約は確かに命の道として与えられたものですが(ローマ7:10)、それはすでに贖われた人々に対しての命の道を生きる教えなのです。

神はエジプトのイスラエルに「これが私のトーラーである。もしあなたがこれを1年か2年完全に守るなら、私はあなたを奴隷状態から解放しよう」とは言われませんでした。

「私が今あなたを解放するのは、私がアブラハムにそうすると約束したからだと言われたのです。

そしてそのときだけ、私はあなたに、約束の地に入るときに必要な命の道を与える」と言われました。

トラー、つまりモーセのトラー=契約は、個人またはイスラエルの民全体が皆が忠実に神の教えを聞いて、それを生きることを通して奴隷状態からの解放、贖い、救出、救済、「義」、その他何でも獲得できる手段として与えられたり意図されたりしたことは一度もありません。

どういうことかというと、前述したように、神は神の業のみにより

贖い出した人達=聖なる民とされた人は、神の性質=イエシュアの

性質通りを生きることを、トラーを通して教えられたという

永遠の事実を理解すれば良いのです。

一体イエシュアを通して神のもとに戻った人は何を生きると考えていますか?

 

クリスチャンの世界で教えられる、人間定義、自分教の教えを生きるなど神は教えていません。

神が伝えた通りの、神が創造された人の性質通りを生きる!

あなたは、〜〜〜を生きるように造られていて、〜〜〜〜を生きるようには造られていませんと伝えているでしょう。

至極単純です。でも人は神の教えなんて、聞きたくないのです。

自分が考え出した、自分教〜宗教の教えを生きているのです。

 

神の言葉を否定した教え、それはどの箇所の神の言葉を否定すること

それ自体が、神に対する叛逆であることを、理解していないのです。

神の教えは、全部でエハッド、丸ごとでシャローム、完全なのです。

人間が、あれこれ、自分勝手に神の言葉にいちゃもんつけるようなことを神は許しておられないのですが、それを異邦人の世界ではずっと

やり続けているのです。

考えれば分かると思いますが、何で人間が神の言葉に対して物申す行為が、とんでもない罪、違反、違法、不遜だと気がつけないのでしょう?神が神であると、分かってないからです。

 

続く