多大に誤解されているパウロの手紙をパウロが書いた意図通りに正しく読む ローマ6章 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

パウロの手紙、ローマ6章の続きです。

子羊の血の贖いの代価で、神が私達を買い戻されました。

この世の礎が造られる前から、永遠の中から、子羊は既に屠られていたと、聖書には書いてあります。

そして、私達も、この世の礎が出来る以前、永遠の中から神により

選ばれていた!という、摩訶不思議、理解不能、永遠の中からの出来事、真実が、神により伝えられているのです。

 

歴史の途中、2000年前に、初めてイエシュアの贖いの血の代価が人類に可能、有効になったのではありません。

昇天以降、初めて人が罪許され、初めて聖霊が人の内側に住むことが、始まったのでは、ありません。

エデンの園の最初から、永遠の中に既に完了し用意されていた子羊の血の代価、贖い、救い、許し、恵、祝福、そして神の教え〜同じトラーが最初から与えられていたことが、聖書には記されているのです。

 

どの時代もその事実を知っていた人、理解しない人がいただけです。

同じ聖書、神の言葉が与えられているけれど、人により理解が違う。

理解の度合いが違っている、それだけが違いなのです。

聖書には最初から、残りの民の事が記されているのです。

最初から完了の業が記されている!その事実が、第7日目のシャバット

神は人に必要な全てを用意され、それを創造され、この世界の創造は

何も欠けるものがなく、完了した〜7で表された、全ての業を終えて

止まった記念日、人と動物と、全ての創造物と、最初に神が祝われた日が、第7日目のシャバットなのです。

そして、ノアやアヴラハムのように、神の義〜トラーに記されている神の教え〜エデンの園から同じ神の教えを、神の口から直接教えられて、理解していた人たちが、聖書に記されている残りの民なのです。

出エジプトして、イスラエル〜聖なる民、神の国を地上で表して

反映して生きる1つの民族が選び出され、そして、約束の地、イスラエルの国が与えられたのです。

聖なる民とされた人、シナイ山で婚姻契約が文字として初めて与えられた時、その中には、異邦人も居たのです。

混合、ミックスの、群衆〜イスラエルなのです。同じイスラエルの神の大家族に、異邦人も加えられ、同じイスラエルの神の家の家訓を

イスラエルと同じように異邦人も生きる!と神が伝えている事が

永遠の事実なのです。

そして、神の教えは、イスラエルと共に住む異邦人にも同じ!と

ずっと書いてあるのに、人造宗教、人間の考えついた教えは、

イスラエルと、異邦人を分裂させている教えです。でもそれは神の

教え、聖書に記された事とは、全く異なる、いや神の伝える真実に

真っ向から反する、真逆の教えなのです。

神の性質、神の言葉の性質、神に造られた人の性質は、同じです。

1つ。エハッド〜1つ以上でまったく1つの性質と、神が伝えているでしょう。分裂した関係は、悲しみ、痛みを生みます。

でも、一体で、共に同じ祝福を分ち合う状態は、喜び〜エデンの状態である事、体験的に人は、知っているのです。

それが、私達の性質〜DNAに搭載されている本能、性質、本質の生き方だからです。

 

詩篇133:1見よ、兄弟が共に座っている。

 なんという恵み、なんという喜び。

 

この箇所、ヘブライ語の賛美でよく歌われますが、共に〜とは

和合、共に、一緒に、仲間入りしてという意味で、יָחַד ヤハッド

いう言葉が使われています。この言葉、エハッドと発音が似ていますが、意味に共通点があるからです。

この文章、ヘブライ語を見るとはっきり見えます。

טוֹב トウヴ、神の意図通り、良い、素晴らしいと、נָעִים ナイーム 麗しい、楽しい、愛らしいという2つの形容詞が繰り返されています。

見よ!ヒネ(見よ) マー(なんと)が2度繰り返されて強調されているのです。

座するは、座る、住むという意味の言葉です。

このヘブライ語で表される言葉だけで見ても、人種ごとに分裂させる

人間の神学思想が、聖書とは真逆の事を解説してることは、神の言葉から明らかに証明されるものなのです。

 

全ての人は、偽の主人、この世の神々、創造主から切り離されて、

エデンの園から飛び出した場所の中に閉じ込められていました。

そこから、自力では抜け出せない場所に、閉じ込められてしまった。

閉じ込められている場所まで、イエシュアの方から来て下さり、救い出して下さったのです。それは、イエシュアは一人一人に、ご自分の方から来て下さったからです。自分では脱出できない。イエシュア ハマシアは、聖書の最初からずっと記されて教えられています。

アダムとハヴァが、神の言葉を退けて、蛇の言ったことを買い、

蛇の言ったこと〜知識の木から食べても大丈夫だよ〜という声の方を取り、神が、知識の木からは食べてはダメ、あなたはそれを食べるようには造られていませんと教えていたのに、神の言葉の方を退けた

結果、全人類に罪と死が入り込んだのです。

このエデンの園の誤りを、ずっとやり続けているのが、神の言葉を

退けて、神の教えトラー、律法は廃れたという人間の教えなのです。

そして、アダムとハヴァも、救われた全ての人と同じく、神の前に

罪を告白して、許され、神から義の衣を着せられたことが書いてあります。

裸のままで、そのままでエデンを出たのではないのです。しかも、

エデンの中から流れ出る、川、世界の4すみ迄流れる川、水〜

イエシュアを表しているものです。

その後、荒野でも、救いの岩〜水を吹き出す岩、イエシュア、

雲と火の柱〜神の臨在が、彼らと共にずっと在ったことを、

五感を通して、ミシュカン〜移動式神殿の中で、体験し、イエシュアをイスラエルの民はずっと教えらて来たのです。それが、書かれて

いるのが、トラーであり、神が誰か、神に造られた人はどう生きるのか、イエシュアの贖いの業の全てはミシュカンの儀式の中で教えられているものであり、人は神にどう近づくのか、どのような状態では死〜周りの人に命に至らない状態の生き方なのか、人の生きる全ての詳細が記されているものが、トラー=婚姻契約=モーセの五書なのです。

モーセの五書以外の、他の箇所の聖書の全ては、モーセの五書を語って、解説している事実を、はっきり理解すれば、真実が見えてきます。聖書には、どの箇所にも、神のトラーに反する教えや、トラーとは別物の教えなど記されてなどいません。

 

6章の冒頭に、恵が増し加わるならば、それならば罪を犯し続けようか?というパウロの極端な質問が記されています。

 

イエシュアの神の教えに対する忠誠、神の言葉を聞いて、その通りに生きるという定義は、外的な行動に現れる内なる従順〜聞いた通りに信じた事を実際に生きる事、行動する事なのです。

 

従順とはピンと来ない言葉なので、ヘブライ語の「シャマ」聞くという言葉に戻します。神の教えを聞いて、理解したら、その通りに行動するだから、従順と訳されています。

 

同様に、パウロは、トラー=神の教えを無視する生き方、神の言葉に対して神の教えを聞かない!という考え、思い、そのような態度から生じると断言しています。

実際、6章で彼は「古い自分」と「肉」(または「罪深い性質」)に

ついて、パウロは多くの時を費やして論じています。

ヘブライ語では、この用語はイェツェル・ハラ、つまり悪の傾向です。

悪の傾向とは、単に自己満足、利己主義、冷酷な精神を持つ動物のように行動することです。これは、神の性質通りに造られた本来の人の性質に反する行動、思索の全てです。

それは、自分にとって正しいこと、家族にとって正しいこと、社会にとって正しいことなど、神が正しいと宣言していることを考慮せずに、自分が正しいと思うことを実際に行ってしまうことです。

それは、単に道徳的な事だけに及びません。イスラエルの神の民、

聖別された民はどのようにいきるのか?と神が教えるその教えに反する全ての行動〜それが罪の定義なのです。

神の道、教え、よりも自分の道、判断、人間の教え〜宗教の方を選び、それによって、唯一の真の神に仕え、自分の人生と選択に対する神の主権と主権を認めるのではなく、自分を自分の神にする事となのです。自分教の教え、基準に照らし合わせて生きる事です。

 

神の言葉、教えを捨てて、人造宗教〜人間の作った宗教の教え〜

神の教えに反する教えを信じて生きるとは、人間の自分教を信じることであると、神から厳重警告されているのです。

それが、聖書に記されている、高きところの礼拝〜混ぜ物の教え、

神の教えに別物を混ぜて、神に近づく事をする、生ぬるい〜混ぜ物の教えを生きる事への警告が、イスラエルの失敗〜神の婚姻契約を外れて、イスラエルの神とは別物の教え〜宗教を生きて、厳しい訓練を

通過する事になってしまった、歴史の史実を通して表されている、

神からの警告、教訓なのです。

神が伝えている永遠普遍のイスラエルの神の家に属する人々の生き方教えは、異邦人に関係のない教えであるなどと教えられ、そう考えているから、神が伝えている事を、否定して、神の教えが聞こえない、み言葉が聞けない飢饉に陥っているのです。

 

パウロにとって、悪の傾向に従って生きることは、罪の中で生き、

罪に仕えることであると言っています。

したがって、パウロが、私達はもはや罪の中で生きるべきではないと言う時、彼は単に外面的な、目に見えるトラーに対する違反についてのみ言っているのではなく、さらに何よりも、私たちの中に闘う肉に従って、罪深い性質や邪悪な傾向に従って生きるべきではないということを、パウロは言っているのです。

 

私たちはもはやそのような生き方をすべきではありません。なぜなら、私たちの「古い自分」は十字架につけられたからです(6:6)。

 

これ、よく考えると見えてきます。罪〜道徳的なことだけでは、

ありません。神が伝えることとは、異なることをすること。

罪の定義とは、神の教えに反する事をする事だからです。

 

でも、神の伝えることとは異なることというものを、クリスチャンは

見えていないと思います。

なぜなら、人間が作った宗教の教え〜神の言葉が廃れたというのは

神が伝えた言葉、教えだと、勘違いしているからです。

人間が神の言葉を自分の考え、意見で今は仕分けて良い、生きなくても良いと、本気で信じてそう言い続け、そう行動しているのです。

 

トラーが終了、破棄、廃れた、モーセの五書を生きるな!!これは、ギリシャ、ローマ帝国の勅令であり、ローマ皇帝、西洋教父達の教えスローガンであり、神の言葉、教えなどではありません!

その事実が、聖書を読んでも見えていないから、神の言葉が終了したという、人間の教えで聖書を読み解いて、矛盾しているずれた聖書解釈を信じているのです。これが、大問題の根なのです。

聖書だけに戻ろう!というならば、神の言葉、教えが廃れた!という人間の勅令、思想は聖書ではないとはっきり先ず、聖書から気が付く必要があります。

神は、神の言葉は永遠に固く立つ!と言われ、イエシュアも天地が

滅びる方が、神の言葉が廃れるよりよっぽど簡単!と言われたでしょう。その神=イエシュアの言葉を信じないとならないのです。

 

この6章には、イエシュアがされた業の重要な事実が、たくさん

盛り込まれています。

ローマ 6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう

 

この箇所ですが、クリスチャンの世界では、信じた後も、自分は

ずっと罪人だ〜情けない罪人と言い続けている多くの人がいます。

常に罪悪感を刷り込まれてしまうのです。

そして、教師もそのような言い方を、言い続けます。

なんてダメな罪人〜!こんなダメな自分のために、キリストは死んだ〜などと言い続けているでしょう。謙虚に聞こえるけれど、

それって、イエシュアが宣言された事と、真逆な、蛇の声の復唱であり、毒です。

 

私達の本当のアイデンテイテイは、神は何と私達に教えていますか?

イエシュアと共に死んだ、葬られた。そうしたら、その人は葬られて

いなくなったのです。そして、聖なる民とされ、世界の中で、最高の宝になった!王の体に肌身離さず持ち歩く、最高の宝、戦利品の中で最高に高価な宝であると、ヘブライ語では表現されているのです。

そして、イエシュアと共に復活して、イエシュアの新しい命を頂いた!と、クリスチャンは宣言しているでしょう?!

でも、その後にずっと、罪人罪人、どうしようもない罪人と言い続けて、イエシュアがされた業を台無しにし、自分の頭脳に、罪人像を

インプットし続けているのです。言い方を変えた方が良いです。

アダムとハヴァは、罪を知らない状態、神の似姿そのものでした。

でも、ズレたのです。イエシュアの死、子羊の血の購い、復活の

命、新しい命を頂いて、新しくなった。

 

 

 

続く