パウロの書簡は、2ペテロ3:16で、ペテロが解説しているように、
パウロの書いている内容は、ところどころ難しいとあります。
そして、無学〜トラーを正しく理解しない人には、パウロの意図とは
異なる、無理な解釈を施している!と警告しています。
これが、実際に現在に至るまで、クリスチャンの中で行われてしまっている事であるのです。
2ペテロ3:16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。
その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、
無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。
それは、パウロは1世紀当時、イエシュア信者の中で、最高峰の
トラー学者であり、プラス、パウロが特定の群れに宛てたその手紙の内容は、相手からの質問事項の内容が、記されているものではないからです。何をパウロが質問されたのかが、見えない。
群れの中に起きている事細かな問題が書かれた、パウロへ宛てた手紙の部分が詳しく記されていないまま、パウロからの回答だけが記されているからです。
簡単に言えば、こういう事と同じです。誰かが携帯電話で誰かと話しているのを、隣に居て又聞きしても、両者の間の話の全貌、全容は
見えません。何話してるのか、よく分からない。
何かに付いて話しているのだけど、部分的にしか分からない、詳しい点が、はっきり見えないと言うのと同じです。
パウロの書簡は、古代のヘブライ人が書いた手紙です。
預言者達が書いた、モーセの五書、預言書、諸書とは、違うジャンルのもの、古代1世紀、ヘブライの世界の人、トラー学者、使徒であるパウロが書いた古代の「手紙」である事を先ず知らないとなりません。
そして、それらは、ある国、ある場所、ある文化、環境に住む、特定の群れの人々に対してだけ宛てられた手紙なのです。
エルサレム拠点の群れ、パウロというトラー学者に、ローマ人の群れが手紙で、質問状を送ったのです。
トラーを教える学者、そして指導者として、パウロという人物が、
諸外国にいる群れ〜ユダヤ人が中心の群れの間で、最も優れた学者、教師、指導者として知れ渡っていたからです。教師を選ぶならば、
トラーを最もよく知る教師を選ぶのは妥当でしょう。
パウロのように、トラーをよく知らない教師に聞いても、正しい
聖書の解説、求めている答え、指導は期待できない。
知りたい事が本当には分からない。エルサレムを拠点とするパウロに当てて、手紙の質問状を送るとは諸外国にいる群れに取って一番の
方法、当然のことだったのです。
だから、エルサレムのパウロの拠点、それはパリサイ派の群れでありそこに、パウロ宛に質問状という手紙が送られて来たのです。
その手紙のやり取り、質疑応答こそが、当時のパリサイ派の教育方法であり、イエシュアがされていた「たとえ話」を通して、モーセの
五書に記された神の教えを一般の人に紐解き、解説するという方法も、当時のパリサイ派の流儀、教育方法だったのです。
パウロは、モーセの五書=トラーから、その群れの間で起きていた
問題に対する、知恵、対処、提案、解決策を書いたものが、パウロの
手紙として残っており、それが後に聖書として認められたのです。
パウロのような最高レベルの学者の間では、直接トラーを学び、
たとえ話を通してなど語り合いません。イエシュアが弟子達に対しても言った通り、一般のユダヤ人には「たとえ話」で話したけれど、
弟子達にはトラーに書かれたそのものズバリの真髄を、一般大衆が
去った後に、語られていた箇所があるでしょう。
マタイ13:10−15
パウロの書簡の理解しづらい点は、内容もそうですが、諸外国に居た
群れの中で、一体どんな問題があったのか、その情報に欠如して読むと、益々パウロの語っていることが見えなくなります。
空想の読み込みをしてしまいます。
そして、当時ユダヤ人の間で使われていた、トラーに関する慣用句など、モーセの五書=トラー以外に、ユダヤ人の間には、「口伝律法」と訳される、人間が編み出した教え〜それらは、トラー=神の教えをどう生きるかの実践に関しての様々な見解、ルール、決め事、おきてが存在していたのです。
パウロが誤解されていた、パウロはモーセの五書に違反した事を人に教えているのではないか?「割礼」を禁じているのではないか?というのは、「割礼」〜当時ユダヤ人の間にあった、律法の戒めである、異邦人はユダヤ人に改宗する難しく長く大変な訓練、儀式をやらなければ、神の国の正式な一員とはなれないという、神の教えとは
真逆な教えがあったからなのです。
異邦人に対するそのような、改宗儀式に、パウロは反対していただけなのです。救い、贖いは、行いで獲得するのではない、信仰により
受け取るだけだからです。人間の編み出した儀式は、無用だからです。
パウロが語る割礼とは、アヴラハムの割礼のことではありません!
パウロは、永遠の印〜譲渡契約〜信仰により義とされる印として
与えられた、アヴラハムの割礼を、終了、否定などしません!
もちろん、改宗儀式の最後には、割礼もありましたが、パウロが割礼と言っているのは、改宗儀式のことであること、どんな人も、行い〜割礼や洗礼をやることによって救われるのではないというのは、新生体験をしている人なら、誰でも分かることです。
アヴラハムの割礼は、信仰義認〜譲渡契約〜永遠の中に既に屠られ
完了している子羊の血の贖いの代価、神ご自身が用意され、一方的に与えたギフト、譲渡が永遠に存在する「印」として、割礼が与えられているのです。この意味は、深く学べば、神の教えがどんなに尊い教えを人に教え、神は決して約束、契約を破らず、誠実を人に施し続けてくださるお方なのか知ることができます。
割礼は境界線が敷かれている、聖別されている印でもあるのです。
表向きに見える印、イコールそれは、内側の事実が伴わなければ
表向きの印は、何も意味がない、それは簡単に理解できるでしょう。
古代も現代でもある、ユダヤ人が編み出した教え、伝統で長年浸透したしきたり、慣わし、ルール、規則教えであり、それらは神の教え=モーセの五書とは違う教えなのです。分かりやすく言えば、クリスチャンのグループの中にあるルールは、直接神の教え=聖書の教えではない教えがあるのと同じことです。洗礼受けていない人は、二等席
クラスの信者で、正式な神の国のメンバーではないと、言っている人もいるでしょう?
全く同じ、思考回路なのです。神は信じた瞬時に、その人を神の元に引き寄せている、イエシュアは、瞬時に人がドアが開けた途端中に
入って来てくださるだけなのです。
ユダヤ人は、神の教え=トラー=モーセの五書に忠実に、神の教えを
破らないという目的で、その色々な教えを編み出した、その動機は
良いものだったけれど、それが、逸脱した本末転倒な人間の作り出した厳しいルールを生きさせることに、ずれてしまっているということなのです。シャバットに電灯のスイッチを押さない、エレベーターのボタンも自動などという、そういうルールは神の教えではない、
人間が編み出したものです。でもユダヤ人の中に存在している
「律法の戒め」に沿って、それを信じて守る人は、それをやっているということなのです。
そして、クリスチャン達の間で、浸透している教えは、実は聖書ではない、聖書が閉じられた後に出現した、ローマ帝国、皇帝、そして、
西洋教父達が編み出した教えなのです。その大元は、モーセの五書を廃止、生きるな!生きたら死刑、処刑!という指令、勅令があったから、異邦人は、徐々にモーセの五書の教えからそれた、ローマ、
西洋人が変えてしまった教え、人間が作った宗教の教え、実践、記念日を生きることに移行したのです。
神の言葉を神が変更、破棄、無効にしたという、聖書=神の教えに
真っ向から反する教えを、新しい時代の神の教えであるなどと、誤解している本当の原因なのです。
神が、神の性質、昨日も今日も永遠に同じ。神の言葉は永遠に固く立つと言われた言葉の方を信じれば良いのです。
神は、神の言葉に反すること、矛盾することは、1つも言いません。
言ったとするならば、神は嘘つきということになり、聖書〜神の言葉全体がその時点で崩壊します。嘘まみれの教えになります。
神は神ご自身が霊感を人に与えて書かせた、神の言葉を、神ご自身が
途中で変更などしない!と言った、それが永遠の真実だからです。
異邦人の世界、クリスチャンの間では、「ただ信じるだけいいんですよ」ということを、言われると思います。
それは、生まれる〜信仰の始まり、はじめの一歩のことを、言っているだけのはずなのに、信じた後も信じるだけで、良いのですと言います。信じるとは、哲学思想ではなく、信じたことを、実際に実践して生きることであり、実行、実践がない信仰ならば、それは死んだ信仰と、神は言われているのです。
イエシュア、メシアと真実な関係、イエシュアを深く知ろうとする
真理探求者に取っては、これらの挑戦的で困難なパウロのローマ人への手紙に書かれた内容を、真に理解する唯一の方法は、聖書に記された事実、パウロがモーセの五書を解説しているという真実だけに
立って、パウロの書簡を再検証することをしないとならないのです。
パウロは、使徒であり、使徒=神のトラーを神の意図通りに正しく人に伝え、教え、生きる人、その役割を与えられた人が、自ら神の教えに反することを教えているという、空想、虚構、砂の土台を根拠に
していては、神の言葉=聖書の真実には繋がることは出来ません。
神の子とされた人は、神が教えていること、伝えていることを、深く掘り下げる技術を理解することを学ばなければならないということ
なのです。
これが、異邦人の世界に欠けていること、欠けている教育なのです。
神の教えではなく、人の思想に照らし合わせて、書いてある内容を正しく理解しないまま、適用ばかりを話す。
知恵の始まりは、神の言葉を知ることとある通りだからです。
神を知るということは、空想して、主よ愛してま〜すと、アイドルの
写真を眺めるようなこととは違います。
神を求めるとは、神の考え〜聖霊〜言葉〜イエシュアを深く掘り下げ
求め続けて知る!それが、神が人に与えた方法だからです。
宗教は、表向きの不思議や現象や印、奇跡を求めます。
でも、神は神=イエシュア=聖霊=言葉を求めよ!取って食べよ!とは神の言葉であり、神を求めよとは、神のDNA、言葉を求めよ!
と書いてあるのです。
それが、神ご自身を知る唯一の方法だからです。そして、神の深いところにある考え=思索は、神の言葉で表されている、それがDNAであり、私たちの創造の性質=DNAとマッチしているものであり、神と
繋がる唯一の方法だからです。
私たちは可能な限り、あらゆるレベルで、聖書の読み書き、理解ができていないことを克服しなければなりません。
詰まり、神の言われること〜言葉を理解していない、イコール神ご
自身を理解していないことなのです。
聖別された人、神のもの、花嫁、神の子ら、神の家族の一員とされた多くの人は、神が注意を向けさせようとしている、神の言葉、教え
を深く知ることを、余り追求したがりません。
ヘブル 5:12 あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。
5:13 すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。
5:14 しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。
何をパウロは言っていると思いますか?教師になるほどの長い信仰
生活なのに、神の言葉を理解していない、初歩〜救い、はじめの一歩に留まっている、狭い狭い範囲の神の教えしか知らないという状態であると言っているのです。義の言葉〜神の教え=トラーの真髄ではなく、初歩〜信じるだけで良いんですよ〜という、信仰のはじめの話しかしていない、それです。
パウロの書簡の解説は、全てモーセの五書、預言書、諸書から話しているのです。
焦点を当てている聖句や聖句ではない他の聖句や聖句を参照したり
読まなければならないこと、そういう作業に耐えらないのです。
なぜなら、クリスチャンの世界で語る教え〜トラーは廃れた、律法に戻るきか!というローマ帝国の思想とは真逆な、神の教えを固くガードして生きるイエシュア・メシアの弟子として、私たち自身が深く掘り下げる、神の言葉を追求して、神の教えに根付いて生きることを、神が求められているからです。
神の言葉、教えをしっかり理解し、把握し、根付いて生きるという事と真逆の事を教えるのが、エデンの園の蛇の声なのです。反キリストの正体は、反モーセの五書、神の教えに敵対させることと、神の子らを殲滅することだからです。
これは、聖書を正しく理解する事につながるには、5つの要素があります。ご存知のように、ローマ人だけでなく、聖書の他のすべての聖書の「サウンドバイト」つまり、孤立したパッセージ、ある部分、
ある箇所の一節、短い箇所だけを取り出して読む傾向があるでしょう。
そうして、これらの要素を考慮に入れないと、その一節を誤解したり誤解したりするリスクが高くなります。
パウロが、何かの教えを解説しているのは、それらは、モーセの五書であり、預言書、諸書のみなのです。
パウロが、何を根拠に解説しているのか、知る必要があるのです。
なぜそのようなことが必要なのでしょうか?
ローマ人や聖書の他のすべての書は、今日の、ヘブライ語とは異なる異国に住む私達の殆どのにとって非常に馴染みのない、外国の古代文化や人々からの古代の文書だからです。
古代ヘブライの思索で、ヘブライ人がヘブライ人に書いた書、
それが聖書だからです。
これらの文書を翻訳で読む場合、殆どの場合、大量の背景情報が欠落しています。その結果、現代の読者は、不足している背景情報を把握し、理解する必要があるのです。
続く