人造神学の教えを一掃 除去する 変えられてしまった神の言葉 教え | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

トランプ氏が第47代アメリカ大統領に就任してから、彼のスピーチで、「人には男と女のジェンダーしかない」と宣言し、様々な反発を喰らっています。聖公会の、司祭がトランスジェンダーにご慈悲を〜

などとトランプに言って、トランプが司祭に謝罪するように、反発しました。

今の世の中、イエシュアの名を使いながら、神に対する冒涜、神の

言葉を汚す教えをし続けている人々〜教師に、普通の人が教えられ、

聖書ではない教えに洗脳されていることに、トランプ氏のように、

気がついている人、いない人に分かれた時代になったのです。

 

主よ主よ、イエスキリストと言いながら、その教えている内容、実態は聖書とズレている!これが、2000年近くも続いていて、その結末が今なのです。

小さいズレでも、ズレで、それが今のように、堂々と、牧師や教師がLGBTQ賛成!という、サタンに同調する教えを、イエシュアの名を

使いながら発表しているのです。

気がついて下さい。神の言葉のどの部分でも曲げる行為は、同じく罪であることに、はっきり聖書から気がついて下さい。

教師や、牧師が聖書ではない教えをしているのは、異邦人が編み出した、神の言葉を否定する思想を土台に造られた西洋宗教の教えのせいなのです。

クリスチャンと言われる人たち、日本の牧師や宗教活動家でさえ、

こんな当たり前で、当然、シンプルな神の創造の真実、神は人を

男と女に造られたという事実に反することを、主張し、教えている人達がいます。ソドムとゴモラの腐敗、ノアの時代も同じで、今もそう

なっているのです。

神の教え、言葉を知らない人達でも、人は神の似姿〜神の言葉、神の

DNAで造られていますから、腹に書かれたトラー、DNAに刻まれた

人の本質に反することは、道から外れたことであると分かるのです。

分かるでしょう。昭和の時代、学校で人間は、男と女しか性別はありませんなどわざわざ教えない、言わない、誰もその事実に疑問に思わない。男性が女装したら、そういう人達が気色悪がられ、皆に嫌悪され、白い目で見られ、後ろ指さされ組で追放になった、それが普通の反応だからです。

神の造られた世界を破壊した根本原因を、神が最初から教えています。神の言葉、教えではなく、神の言葉、教えの中に、別の教えや

考えを放り込むことで、人を破壊できることを、最初の最初から

警告しています。エデンの園の蛇の声、言葉。神の言われたことを

疑わせ、そして人を神の創造のデザインとは違うことをさせた。

人間が食べるものではないものを、食べて良いと蛇は言い、それを

ハヴァは「そうかもしれない」と思い、夫にそう伝えたのです。

でも、夫は妻の言う神の教えを否定した「嘘」を退けなくてはならない役割があったのに、一緒になって神の言ったこととは違うことを、やった、行動したのです。

それほど、見た目には美味しそう〜だったのでしょう。

食べても美味しい、でも毒、死を招いた。

これが、ずっと今に至るまで、続いているのです。神は、神が創造された世界を、人がどう生きるのか伝えているのに、人間は神の言うことを無視しているのです。クリスチャンの教えの世界では、自分に都合の悪いことは、律法は廃れたと言っているのです。ある部分の神の教えは受け入れても、ある部分は自分の判断で捨てているという、

神が伝えてもいないことを、やってしまっているのです。

神の教えのどの箇所でも否定する思想は、結局、人間の考えで何でも

神の言葉を勝手な解釈を施して、神の言うこととは違うことをすることに導けるのです。

根本がズレれている、「神の言葉終わりありき」という、西洋人の

思想は、根本が聖書ではないから、どこまでもズレて行くのです。

 

神は地上に於いて、イエシュアの完了の業を、不思議な方法で表されることをしています。でも、それだからと言って、神の性質が時代ごとに変化したのでもない、神の人に対する関わりが変わったのでもない。

永遠の中に完結している「子羊の贖いの業」は、永遠の中に完成して

完了していて、それが地上で実際に証拠として証明されているだけなのです。そして、地上でそれが証明される以前にも、残りの民は

昇天以降と全く同じ、贖い、救い、罪の赦し、そして新しくされた人

復活の命、イエシュア=聖霊を、どの時代の人も同じように受けていたのです。その点が、全く見えてない、聖書から読み取れていない

場合には、このような思想になります。デイスペンセーション神学のように、神が人格を七変化、怒りの神、恵の神になり、神の教えも、怒りの時代の教えから、恵みの時代の教え〜無法地帯、罪の定義取り払った!聖霊により導かれて、それぞれが好む所、意見で神の言葉を生きるのか、生きないのか仕分けて良い時代というのです。聖霊=言葉であり、聖霊は、トラーに書かれたことに1つも相反することなど人にそそのかして、罪犯すようなことは言いません!

それは、神の教えが廃れたからと、聖書とは真逆な人間が作った宗教の教えを、教えられてしまっているのに、全く気が付かないままいるのです。

トラー、モーセの五書を読めば、その中には、最初から、エデンの園から人は、神と向き合い、共に生きる関係にあったことが記されています。神が人に直接話しかけ、人は神と対話して、エデンの園で生きていたのです。

神が食べてはダメ!と言われた知識の木の実を食べた後も、神が指摘した通りに人が罪を告白しそして、神が屠られた動物の皮〜義の衣を、アダムとハヴァに着せてそして、エデンの園から出ても、

イエシュアがずっと彼らと共について来たことが書いてあるのに、

気が付かないでしょう。

最初から同じでしょう。神の言われたこと、神の目が見た通りの罪を、見せられ、それを告白して、そして許されて、神の屠った贖いの代価で、義の衣〜イエシュアに覆われたことが、最初から記されているのです。

カインが、神が伝えたコルバンとは違うものを捧げて、顔を伏せていた時にも、神と直接対話しているではないですか?

なぜ、カインとアベルは、突然コルバン捧げているの?神が彼らに教えたからです。その細かい説明が、そこに書かれていないだけ!

聖書の最初に、テーマの全ての解説など、数小節では、できないで

しょう。人の書いた書も、何百ページで1つの書であり、その書の

テーマが、解説されているのです。それと同じです。

十戒と訳されている、「10の言葉」は、聖書の内容の題目、タイトルであり、モーセの五書全体で、その10の言葉の意味を解説しているのに、クリスチャンは、第四項目を、勝手に変えています。その行為が神の前に重い罪であるとも、丸で気がついていない。

そこは、「聖別」を教える神の教えが解説されている内容であり、

聖別は、人の生きる生活の中、神のモアデイム〜アポイントメントの日を聖別し、そして衣食住を通して、聖別を神が教えているのに、

その根幹を、異邦人は勝手に破壊して、人間の考えの方を取り入れて

しまっているのです。しかも、シャバットがいかに 重要か神が教えているのに、気がついていないのです。死に匹敵するほど、重要な神の教え!と言われているのに、その意味に気がついていないのです。

最初の警告!食べることです。生きること、命につながること。

これは、肉体、物理的、霊的と分ける西洋思想では見えないのです。

全て一体。物理的〜神が創造された世界は物理的で、見えない神

霊的と一体の性質なのです。肉体、霊、魂は1つなのです。

どうして、翻訳で、霊、魂、精神などと分裂した翻訳なのか、それは

ギリシャ語と、西洋思想の為、そのような分裂したコンセプトに

なっているのです。ヘブライ語では、そのような分裂思想はなく

1体なのです。人は「生きるもの」とされた。ネフィッシュであり、

神の息吹〜霊〜を吹入れられて「生きるもの」となったとあるのです。

人間は神の教えを捨てて、頭脳に、肉体にも害毒なもの、人間が食べるもの、取り入れるものではないもの放り込み続けているのです。

神の教えは最初から同じです。西洋宗教は、神の教えが変化したと、

聖書に書いてないことを、パウロの書簡を、間違いの読み込みと、

無理な解釈を施して、聖書に書いてないこと〜神が神の教えを、昇天以降変えたのだと、主張し続けて、人に聖書=神の言葉とは異なる

ことを伝え続けてしまっているのです。

神の教えは1つであり、永遠に同じ教え〜トラーを口頭で、伝えていたからです。

それが、文字となったものが、シナイ山で与えられた婚姻契約、

トラー=モーセの五書=イエシュアの性質を生きる、人の生き方を、記したものなのです。

 

西洋宗教とは、人間が作った宗教なのです。聖書には、西洋宗教も、

ユダヤ教も書かれていません!聖書には、純粋な神の言葉が記されていてるだけなのです。聖書の最初の部分が古い教え〜ユダヤ教、最後の部分は、新しい教えのキリスト教などと、クリスチャンは勘違いしているのです。

聖書の最初から、イエシュア=救いは教えられているのです!

その事実を、神の言葉から、理解していた残りの民と、そうではない、神の教えに無知な人、その違いがあっただけです。

今と同じです。

2000年前に突然、救い、贖い、罪の赦し、聖霊が内側に住む事実が、与えられたという聖書とは違う教えは、聖書ではありません!

詩篇を読んでも分かるでしょう。モーセの五書に登場する人たちの

神との関わりを読んでもそれが書いてあるのです。最初から同じ!

モーセの五書で、神は人の間に住まう、人の内側に住まう事実を教えているのです。荒野で、神の家〜移動式ミシュカンが作られた理由は、天の神の家を地上でそっくり反映させ、イエシュア=神が共に

住まわれること、贖い、赦しの事実を、実体験を通して、ミシュカンを通してイエシュアの完了の業を教えていたからです。

それは、神の言葉、トラーを正しく教えられた人には、理解できる

内容なのに、クリスチャンはその事実を教えられていないのです。

なぜ?ヘブライ聖書に記された内容を、紐解くパウロのようなトラー教師が周りにいなかったからです。

福音書以降は、聖書の最初の部分の本当に短い解説のみ!

聖書のどこにもモーセの五書=イエシュアが教えた父の教えを否定する教えは、1つも書かれていない!という事実に、クリスチャンは全く盲目状態なのです。の理由は、何度も書いていますが、パウロが話している内容を、モーセの五書を否定した新しい教えを解いていると、完全に勘違いしている、無理な読み込み、ズレた解釈を施している!聖書ではない教えを、聞かされ続けている。それが誤解の本当の原因です。その大元は、人間が作った神の言葉を否定した教えを土台として、西洋宗教の教えのせいなのです。

人の教えなど、出現してはならないものであり、人は神の言葉だけを

固くガードして生きよ!と教えているのに、それが丸で理解されていないのです。

ユダヤ教は、神の言葉をクリスチャンのように曲げたり、変えたりしません!それは、神の罪の定義では、死に匹敵する冒涜罪だから、

神の教えを正しく理解する人は、そのようなことはしません。

もう一つの理由は、翻訳聖書には、反則があります。原典にない言葉や文章を勝手に付け足し、挿入しています。

これは、ヘブライ聖書では出来ません!

なぜなら、言葉も文字数もぴったり同じだから、変形できないのです。アバに感謝です。1つの言語を選び出した。

これは、変えられない事実。

人の手が加えられ、改ざんできない決定的な事実、絶対的証拠を神が確保、ガードし与えて下さっているのです。翻訳は、翻訳者により、意味合いやニュアンス使う言葉が違います。

だから何何版という無数の聖書の種類があるのです。

無数の言語がある。でも、これは仕方がないのです。だから、オリジナル、元の言語で書かれたヘブライ語のトラーを学ぶ意味、理由が

そこにあるのです。聖書には本当は何が書かれているのか?が分かるからです。聖書を教える人は、オリジナルの意味を知らないと、

正しく聖書は教えられません。

英語の教師が、英語を知らない、ABCを知らない、数学の教師が

九九を知らないなど、あり得ないでしょう?でも宗教の世界では

それがありなのです。

これは前の記事にも書きましたが、ユダヤ教の中にあるのは、付け足しの教えがあります。それは、神の教え自体に手を加えることではありません。神の教え=トラーを実際にどう生きるのか?という、実践に関しての人間が解釈した、様々な規定、ルールなどであり、それらが、1世紀当時は、口頭で伝えられていた、口伝律法と訳されているものです。今はタルムードや、ミシュナという書になり、閉じられて、その書にも以降は付け足しはありませんが、人の解説はなんとでもなるのです。イエシュア、ペテロやパウロ達が、議論しているのは、神の教え=モーセの五書=トラーに記された内容ではなく、

ユダヤ人の中にあった「伝統の教え、先祖の言い伝え」人間が編み出した教えに関して議論していることを、クリスチャンは、イエシュアやペテロ、パウロが、モーセの五書の教えに反対して、議論していると完全に勘違いしているのです。

 

1つ1つの誤解を解いていかない限り、聖書に書かれたことは、正しく読み取れません。しかも、土台が、モーセの五書を否定した、

人間の思想だから、今や牧師や教皇が、LGBTQ賛成などという

神の教えに真っ向から反する罪を人に伝えているのです。

同性婚も、シャバットを破ることも、清くない動物を食することも

全部、神の前には同じ罪〜ズレ!なのです。人間の生きるデザインから外れているという理解が出来れば、神の伝える永遠の真実が見えます。

全て神の教えは、人を守るもの〜それが神の教えなのです。ローマ

帝国が、ローマ・カトリック教が作られた後、崩壊しましたが、その大元の問題は、同性愛なのです。腐敗。罪を生きる、教える場合、

必ず崩壊する!という永遠の法則、事実を覚える。悪、ラア〜神の

意図からズレたことを生きて、身を固く立てられない!と神が警告しているからです。

今はなんでも良い〜シャバットを汚し、汚れたものを食べ、人間の

意見で神の言葉を仕分ける、その教えは、人に罪を奨励していることに気がかないまま言っているだけなのです。

異教徒と同じ生き方をしているのです。

神の教えではない教えとは別の神々の教え、偶像と書かれているのです。

神の教えに敵対するものとは、何ですか?そうです。敵対するものというヘブライ語は、サタンなのです。考えれば良いのです。

エデンの園のあの声。神は本当にそう言ったの?食べてはダメなものを食べて良いと言った。今も教師や牧師が人間の食べ物ではない

食べてはダメなものを、食べて良いという、同じ声なのに、気がついていないでしょう?神に敵対するものの声。

自分が信じていることは、聖書なのか、それとも人が解説している

神の言葉は今は生きなくて良いという、人間の思想なのか、聖書から

考えれば良いのです。神の言葉を否定する教えを信じる人に聞いても、本当のことは全部分からないままになります。

神は人間の手で編み出したもの、礼拝など、受け取りません。

礼拝というと、儀式を考えますが、礼拝という言葉は、人の生きる全てです。神の前に、神の言われたこととズレたことをし続けても

気が付かないのは、罪の定義は終了しました!という人間の教えを

神の教えだと勘違いしているからです。

 

 

続く