聖別の中核は神の記念日 食べることを通して教えられている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2ペテロ3:16 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。

その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、

無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。

 

クリスチャンの世界に浸透している、パウロの手紙の解説は、

ここのペテロが伝える警告通り、パウロが意図していない意味で

解説され、トラー=神の言葉に反した無理な解釈を施しています。

その理由は、無学で心のさだまらない〜トラー=モーセの五書、

聖書を正しく理解せず、聖書に反する、神の言葉終わりありきの

人の思想を学んでそれを信じているからです。

 

神の教え、契約を代表として与えられたイスラエルとて、純粋に高き所で、異教の神々の儀式やシンボルと混じり合い、イスラエルの神を礼拝していたのです。

そして、ある時突然敵が侵入して、国から追い出され、捕囚の民と

なったのは、私達への同じ警告なのです。

 

神の言葉を、どの箇所も軽んじるように教えるものは、神の国で

最も無意味、無価値になるとイエシュアも警告しているのです。

マタイ5:19

クリスチャンは聖書には、モーセの五書の教え以外は書かれていない神の言葉を否定する教えは、1つも書かれていないという事実に、

完全盲目状態のまま、聖書を歪めて読んでいるのです。

神の言葉が変わったという人の思想の分厚い色眼鏡で、聖書を読んでいるから神の言葉の真実が見えないままになっているのです。

 

そうですよね。パウロの書簡が、これ程迄にクリスチャンの間で

誤解されている理由は、パウロの手紙を読む前提が、パウロが

「モーセの五書に違反しても良いと教えている」という反聖書的な

思想のおかげと、そして1世紀当時の人たちの間に有った諸問題〜

神の言葉とは異なる教えをする偽教師、偽の教え、思想、哲学、悪霊とのチャネリング、そしてユダヤ人の編み出したモーセの五書とは

違う、口伝律法〜律法の戒めに関して話しているのであり、モーセの

五書に関して反対しているのではないという理解をしていないからです。

最初から、モーセの五書に反する教えをパウロがしている!という

あり得ないズレた前提から、クリスチャンの聖書解説が施されているからなのです。

聖書に書かれていることを正しく学んでこなかった理由は、人の思想

初代教父達から始まった、神の言葉を否定する教えを信仰の土台と

するように教えられてしまったからです。

そして、パウロのようはヘブライのトラー教師に教えられなかったからです。

それが、宗教改革したはずのルターも、反モーセの五書、反ユダヤ

思想に翻り、ルターの書いたユダヤ人殲滅プラン通り、ヒットラーがそれら全てを実行してしまったのです。そして、反モーセの五書思想は、その後も異邦人により引き継がれ、20世紀には、イギリス人

ダービーによるデイスペンセーション神学思想が、アメリカのクリスチャンの世界で幅広く受け入れられ、神学校の教師もこぞってこの

聖書を否定する人間の思想に傾倒し、その思想からだけ、聖書が曲げて語らてしまい、今に至るのです。

聖書を教える教師が正しく聖書を学ばない、教えられていない問題

が引き起こしている代償、弊害なのです。

だから、神の言葉=トラーを、否定する神に対する冒涜に、完全に

無感覚なのは、人の思想に頭脳が占拠されてしまっているから、聖書に書いてあること、得にパウロの書簡を引き続き誤解した解説をしているのです。

聖書とは全く関係のない教え〜人間の思想、デイスペンセーション

神学のように、神の言葉を分断させ、時代ごとに神の性質、業、言葉が変わるという偽の教えは、浸透して止まることはないので、

聖書ではない教えを識別するには、聖書に何が本当に書いてあるのかを知ることが必要なのです。

人の思想と、聖書との違いを見分けるには、聖書に書かれた細かいことの意味迄は、分からなくても、世間一般に長年浸透しているような、神の言葉の方を否定する思想、モーセの五書をパウロは生きなくて良い、違反しても良い、人の意見で仕分けて、今は人間の意見で

神の教えを仕分けて生きて良い、そのような教えは、100%全て

聖書ではない、神の言葉に敵対する教えであることを、神の言葉から知っていれば良いのです。

神の言葉の一点一画も否定する教えは、聖書ではない、神の言葉は

永遠に固く立つと、神の口から語られた言葉が聖書に書いてある

その事実に立って理解すれば良いのです。

神の言葉は、一貫しています!創世記〜黙示録まで同じ教え、同じ

福音、同じ救いの方法〜救い=イエシュアを通して以外、誰も、

どの時代の人も父の元に来ることはできない。

肉の生まれのユダヤ人〜8日目に割礼を身に付けられていても、

関係ない。イエシュアに直接個人的に出会うことがなければ、

誰も父の元〜新しく生まれ変わることは出来ない。

 

1ペテロ 1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、

 1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、

あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。

 

<聖別、聖なるとは、神の目的通りに分たれて生きること、

この世の基準や生き方とは、境界線が敷かれている、それが割礼でも

表されているのです。ペテロが引用している箇所は、レビ記11章です。福音書の聖書記者は、100%トラーを解説していることを

忘れないでください。モーセの五書とは異なる別の思想など、聖書では誰も語ってなどいません。パウロがモーセの五書から自由に解放された思想を語るなどという、偽の思想は聖書ではありません!

教師や、牧師がそのような教えをしていますが、それは聖書を正しく知らない異邦人教師だからです。彼らが学んでいるのは、聖書ではなく、人の思想〜神学だからです。西洋人が作った神学を信じて、

聖書、神の言葉を否定しているからです!はっきり言って、聖書とは何も関係のない思想を聖書だと勘違いしている教えなのです。

この箇所は、レビ記11章。何を持って聖別を神が人に教えているのでしょうか?食べ物です!きよくない動物、ときよい動物を区別して

人に教えています。そして、きよくない動物を食して、自分を汚してはならない(44節)そして、47節にこうあります。

 

レビ記11:47 汚れたものと清いもの、食べられる生き物と、食べられない生き物とを区別するものである。

西洋宗教の教えは神の教え、知恵を捨て、きよい、きよくないの区別がない境界線がない、神の教えを知らない、きよいものときよくないもの、一緒くたにする教えをしています。クリスチャンには神の言葉が、神が伝える通りには通じていないのです。神は食べること、

飲むこと、全てに於いて、聖別された生き方をせよ!と伝えています。そして、神の記念日も聖別を教えている教えなのです。

この世の異教徒とは、全く違う生き方でしょう。異教徒は、

レビ記23章にある神の記念日をガードし神と会見しません!

神との関係に入っていない人は、レビ記23章を祝わないです。

そして、神の言葉を理解しない人も、神が呼び出している日を知らないから祝わないのです。

神の言葉を知る人だけが、神の招いたアポイントメントの日に神と

特別な会見をする祝福に招かれているからです。

 

レビ記11:45 わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、

あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。
 

1ペテロ1:17 あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平に

さばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、

おそれの心をもって過ごすべきである。

1:19 きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。

1:20 キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。

1:23 あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。

<変わらない!み言葉とは、100%モーセの五書の教えを指して

語っているという事実があるのです!クリスチャンには通じないけれど、ユダヤ人なら分かるのです。>

1:24 「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。

草は枯れ、花は散る。

1:25 しかし、主の言葉は、とこしえに残る」

これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。

 

この箇所でペテロが書いているのは、イザヤ40:6-8の引用なのです。聖書記者は100%モーセの五書、その解説である、預言書、諸書だけを指して語っているのであり、聖書記者の誰一人、クリスチャンが語るように、モーセの五書から解放されたなどという、神に反逆する思想など微塵にも頭脳にない!という、大前提を、覚えて置いて下さい。

神の言葉は終了!という、非聖書的思想をクリスチャンは信仰の最初の日から教えられてきてしまった。西洋宗教の思想、伝統、文化、

記念日は教えられても、聖書を教えられていない!という事実に気がつけば良いのです。それは聖書から気がつけます。

読めば分かる通り、聖書には、1世紀の人々は誰一人、今のような

西洋宗教の教え、日曜礼拝や、クリスマス、イースターなど知らないし、祝ってさえもいません。

それらは、4世紀以降、人間が作った宗教の教え、記念日だからです。

だから聖書には、そのような人間が作った記念日を祝うことなど書かれていないのです。神の言葉が進化したから、聖書が閉じられた後、別の記念日を神が作り祝うように人に伝えたのではありません!それでは、ユダヤ人が編み出した口伝律法と同じ、聖書とは違うことを神が口頭で、誰かに伝えたという空想話と同じになるのです。

 

今や教師や牧師が、神の言葉自体を真っ向から否定しています。神に造られたにすぎない人間が、神を批判し、神の言うことを退ける冒涜に全く気が付かないまま、そのようなことをしているのです。

あからさまに聖書に反した教えをしている!と気がついた人達でさえも、宗教の教え、神学〜神の言葉は終わり、終了、無用ということを土台にしていたら、神の言葉が1つである、モーセの五書しか聖書には語られていないという事実を知らないので、結局混ぜ物、ある部分真実、ある部分人の教えを取り入れている中途半端な教えを信じて

実践しているのです。

結局人の思想との混ぜ物の教えに留まってしまうのです。ミックス。

 

そして、必ず、神のこれこれの言葉は時代錯誤だから、これは今は

関係ないなどと、人間が神に対して物申す主張をしているのです。

とにかく100%神の言葉は完全であるという、永遠の真理の大提

土台からズレてはならないのです。

神の教えの多くは、神殿がなければ実際に実践できないものです。

でもその中に記されていることは、神の子らの生き方、聖別、性質に

直結した教えなのです。

割礼は女性にはありませんが、割礼を通して神が教えている意味、

内容は深く、イエシュアにある人の性質そのものを教えているのです。

だから、聖書を正しく知り読めば、真理はいつの時代も同じ真理、

神が人に伝えている人が知らなくてはならない教えであることが分かります。

又、古代の人の生活は、現代の生活とは違います。今のように、車も電車も飛行機もない、そして、家の中に電気も、水道もないから、

今のユダヤ人が言うように、シャバットに火を起こしてはならない、イコール電気のスイッチを付けたり消したりしてはならないという、ズレた読み込みは、普通の考え、意識があれば避けられるでしょう。

火を起こすというのは、重労働です。木を刈って運ぶ、その薪を取り出し、そして火を自分の手で起こすのは労働です。そういう意味で、古代の人の荒野での生きた生活と、そして今の時代、家の中に電気、電化製品があり暮らしている生活とは別だと分かるでしょう。

でも、シャバットの時、祭りの時は、ミシュカン建設はしないと

教えているのです。神が伝える真理は同じです。

 

シャバットは、人間ではなく、神が創造された日であり、神が聖別された日であり、その日には労働、金勘定、余計な普段の労働はしないで、家族が皆で神の言葉を考え聞いて過ごす時を持つ為に、神が特別に分たれた、聖別された日であり、この日に神が神の子ら全員を呼び出しているのです。

今の世界は、みんな分裂でしょう。忙しい。外ではお店は開いているし、様々な経済活動、その他の活動が二十四時間、7日間、休みなく

行われています。

そして、スマホに皆が向かい、お互い向き合い、直に話さない、

AIが全部答えてくれたり、人と話したり、交わらないような、異様な生活スタイルになっているのです。

それらを、シャバットの時にはやめて、お互いの関係を楽しむ

一週間バラバラだったのだから、一緒に過ごす時を持つ、神の言葉を共に考える時が必要なのです。

 

そして、神はイスラエルの国以外に住む私達のような異邦人、異教の神の国に生きている事情もご存知でしょう。

そして、イスラエルとて、シャバットの時に労働に就かなくては

ならない人もいるのです。

病院、電力発電所、ダム、消防署、警察、又は施設やその他諸々の

職場は、24時間稼働です。

神殿に仕えていた祭司たちも、シャバットには、任務があったのです。二十四時間交代体制で、一定期間の勤務交代制でしたが、

それ以外の人は、このシャバットを過ごせるのです。

それぞれの事情がありますが、この日を神が与えたシャバットとして

異教の神の国々に住む人も、この日丸々休みではなくても、ある時間を聖別して過ごせるのです。出来ることがあるのに、できないという理由で、できることをやめないのです。

神が言われたことには、意味があり、シャバットは神の伝える教えの中でいかに重要であるのかを、神が伝えているのです。

してはならないのは、神が言われたことではない、混ぜ物の教えに

生きることです。

 

Shabbat Shalom