宗教の伝統の教えと、神の言葉の違いを聖書で確認する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人クリスチャンの教えの世界では、聖書は神の完全なる言葉で

あると言いながら、同時に聖書〜神の言葉に反する解説が、必ずされています。

それら異邦人の編み出し思想、神学、教理に基づく聖書解説は、

全て神の言葉終わりありき、又は神の言葉を、自分の意見で今の時代は仕分けて良い、又は得に異邦人は生きなくて良いという、聖書には書かれていない人間の教えを前提としているものなのです。

 

以下は一般的な、クリスチャンの聖書解説ですが、こんな事が書かれていました。典型的なクリスチャンの主張ですが、完全に神の言葉

教えからは逸脱した非聖書的思想を述べているのです。

書いている人も、聖書の記述と、主張が矛盾していることに、全く

無感覚のまま、書いています。

 

<パウロの語った福音の一番の特徴とは、「モーセの律法からの自由」を説いたことでした。律法を守らなくてもいい、ということを

パウロは語ったのです。これは驚くべきことです。律法の中でも一番大事なものは十戒ですが、皆さんは十戒を守らなくてもいいのだ、

と言われればびっくりするでしょう。>

 

「モーセの律法からの自由」このような人間の意見、思想は、聖書ではなく、ローマ帝国、西洋教父の教えです。人間の主張。モーセの

五書を、実践し生きる事を禁じた、異邦人の勅令に基づいて出てきた人間の思想にすぎないものです。

律法とは、ヘブライ語では、トラー=神の教え、インストラクション、指示、指導であり、「神の言葉から自由にされた、解放された」という意味は、神の支配〜聖霊から外れて、自由に何でも生きる事を許されたという意味です。別の霊、人の思想に引っ張られる無法地帯を生きることです。それは、神の教え=安全な囲いから飛び出て、

人間の教え、この世の思想、哲学、禁欲主義、又はユダヤ人の中に

あった、人の思想を生きる世界を受け入れて、神の言葉を捨てるという意味であることに気がついていない人の思想です。

このような事を言いながら、聖書は完全なる神の言葉であるなどと同時に宣言、主張できるのか、それが不思議です。

 

大体、パウロが、モーセの五書から自由に解放された!などと言ってもいない、パウロ自身が、モーセの五書に100%忠実で、モーセの五書をこの上記に思想のように否定したり、そこから解放されるなどと言う教えをする訳などないのは、パウロ自身が証明しているからです。使徒21:21。パウロは、モーセの五書に反する教えはしない!そんなまやかしなど、生きていない!という証明をしていることを、聖書を読みながら、気がついていないのです。

もし神の言葉を否定するこの上記のような事を言うならば、聖書では、それが冒涜罪、死に値する罪であると全く気がついていないのは、神の言葉を永遠普遍と知らない、罪の定義を知らない、

罪の定義は永遠に変わらないという事が、分からないからです。

異邦人がパリサイの中のパリサイとパウロが言った言葉の意味が、

全く通じないのは、異邦人思想、現代の西洋宗教の教えを通して

パウロのいう言葉を読んでいるからです。

パリサイの中のパリサイ、パウロは、当時最高峰のトラー学者

ガマリエルの門下生であったのです。今で言えば、世界のトップレベルの大学の有名教授、学者の特待生でありパウロは、ガマリエル大

ラビの弟子だったのです。

その人が、モーセの五書を捨てよ、モーセの五書=神の教えから

自由に解放されよ!などという馬鹿げた教えなどしません。

パリサイの中にパリサイの子とは、モーセの五書=トラーに忠実に

生きている!という、パウロの宣言なのです。その意味を、クリスチャンは知らないまま読み、パリサイ派、イコール偽善者と教えられて

そう思い込んでいるのです。

しかも、イエシュアが語って教えた教えも、100%モーセの五書のみ!父の教えと言っているでしょう。

ヘブライ人には、通じる事が、異教徒背景の異邦人クリスチャンには

全く見えない通じないのです。父の教え=モーセの五書です。

このような事が、パウロがユダヤ人にはユダヤ人のようにと言った

言葉にも繋がるのです。

トラーを知らない、クリスチャンに話しても通じない世界がある!

しかも、イエシュアを信じながら、聖書には、モーセの五書=父の

教え=トラーしか書かれていないという事実が全く見えていない

でしょう。

イエシュアが父の教えしか語らないと言って、どれだけのクリスチャンが、イエシュアがモーセの五書=父の教えしか語らないと言っている意味を理解し、捉える事ができていますか?

イエシュアもパウロも、モーセの五書とは違う、又はモーセの五書を否定した教えをしていると、勘違いしているだけなのです。

聖書を正しく読んでいない事が、問題の根なのです。

 

1コリント9:20 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。

ユダヤ人を得るためである。ノモス(律法)の下にある人には、

わたし自身はノモスの下にはないが、ノモスの下にある者のように

なった。ノモスの下にある人を得るためである。

 

この箇所、注意して読まないとならないものです。

律法とひとくくりに訳されている裏にある言葉は、ギリシャ語の

ノモスです。

ノモスは、ヘブライ語のトラー=神の教え、インストラクションを

指して語られる事もあれば、人間の作った「戒めの律法、戒律」

「伝統の言い伝え」ミシュナという書に今は記されている、

モーセの五書=トラーとは違う、人間が編み出した教え、解説に

関しても使われます。

そして、罪の法則=ノモス、司法=ノモス、この世の法則などにも

ノモスという同じ言葉が使われているのです。

だから、その日本語翻訳は、律法という1つの言葉で括られているので、何をパウロが話しているのか、文脈から理解しないとならないのに、ノモスを全部=神の言葉=トラー=モーセの五書であると、勘違いして解説しているのです。言語に対する正しい理解、その情報の

欠如による誤った解説と、その解説の土台が、モーセの五書終了ありき!と上記された、「モーセの律法からの自由、解放」と

いう、完全に聖書からズレた異邦人クリスチャン思想で、聖書を歪めて語り続けているからです。

ヘブライ人ならば、イエシュア、パウロが語る教えが、100%

モーセの五書=トラーであるという事は理解できているのに、

クリスチャンは、西洋宗教教父の思想で、神の言葉が終了したと

勘違いの教えを教えらているので、聖書を正しく読めなくなっているのです。

ここでパウロが言う、ユダヤ人にはユダヤ人のようにという意味をはっきり知る必要があります。

20節の、ノモスの下にいないとは、モーセの五書の教えではなく

ユダヤ人の間にあった人間の教え、先祖の言い伝え、しきたり、

律法の戒め〜人間の教えやルールの下にはもういない!と言っているのです。それらは、神の教えではないから、人の教えに縛られる事は

不要である!とパウロは自覚しているからです。

ユダヤ人なら分かる事、それはこの場合は、パウロは彼らの中にある

モーセの五書=トラー以外の彼らの伝統的な教えやルールのことなのです。これは、異邦人には分からない世界なのです。

しかも、パウロは、イエシュアを信じたことから、ユダヤ人の同胞から、鞭打たれたとあります。それも1つです。鞭打たれる筋合いなどない、なぜなら、イエシュアはタナックに記された約束のメシアであることは事実であり、パウロはタナックから、メシアが真実であると知っていても、タナックに記されたメシアが地上に来られた、過越で処刑されたあのメシアであると認識できてないユダヤ人には分からないからです。

ユダヤ人同胞の交わり、繋がりから外れないためにも、パウロはそのような仕打ちにも甘んじたと言ったのです。

 

学者のマイケル・ブラウン博士が書かれた内容を見てみます。

彼は、5 巻セットの『イエスに対するユダヤ人の反論に答える』と『本物のコーシャ イエス: 隠された救世主の謎を暴く』を出版しています。

ブラウン博士は、パウロのように、「ユダヤ人を獲得するためにユダヤ人のようになった」のです。マイケル・ブラウンは、ユダヤ人に

メシアを伝える使命を持っています。

ブラウン博士は、イエシュアが約束されたメシアであると主張しますが、タナック=モーセの五書、預言書、諸書そして、ミシュナ=

書き留られたラビの口承伝統、口伝律法、先祖の言い伝え、戒めの律法と福音書以降に記されている教え、又はその他の聖書以外のラビの著作に基づいて議論、主張しています。

彼自身ユダヤ人であるマイケル・ブラウンは、メシアを信じているにもかかわらず、ユダヤ人を獲得するために、ユダヤ人のように議論し、彼らユダヤ人の情報源と教えを、使用して解説しているのです。

なぜなら、そのような伝統的な教えは、ユダヤ人なら理解できる内容だからです。そのようなことを、異邦人に話しても、トラーやミシュナを知らないから、話している内容は通じないので、そのような

話し方は異邦人に対してしないのです。

ユダヤ人は、彼ら自身のラビが、福音書以降で、使徒たちが教えているメシアに関する事柄を支持する多くの発言をしていることを、彼らに示し、それから、これらのラビの発言を、イエシュアが語られた

教え〜トラーの解説と比較しています。

この方法は異邦人には通用しませんが、ユダヤ人の背景を持つ人にとっては、大きな影響力を持つ解説の仕方なのです。

同様に、パウロは同胞に語るとき、彼らユダヤ人をキリストに導くために、ユダヤ人自身の観点からイエスのメシア性を論じました。

パウロはおそらく、ユダヤ人が尊重していた口伝律法に基づく彼らの

慣行のいくつかを、実際に行い参加したでしょう。

ブラウンの伝道方法もパウロの伝道方法も、ユダヤ人を引き寄せるためにモーセの五書、つまりトーラーを守ることとは何の関係もありません。この点をクリスチャンは、完全に誤解しています。

トラー=神の教えを守ること、教える事は伝道戦略ではなく、神への服従の問題なのです。そして、パウロは神の言葉を破るような事は、決して教えていません!!!!

神の教えを破る!自由に解放されると言う思想は、聖書ではない!という大前提をクリスチャンは、聖書から絶対に知らなくてはならないのです。

一方、ユダヤ人の文化的枠組みを理解し、それを福音を説く手段として使うことは伝道戦略です。この違いが分かりますか?

 

口伝律法に由来する聖書外の慣習のいくつかに参加することは、

これらの慣習が神の教え、戒め〜トラーに反しない限り、伝道戦略なのです。それは「ユダヤ人を獲得するためにユダヤ人のようになる」ことです。どんな場合にも、神の言葉に違反するような事は、パウロはしていない!という事を、忘れてはならないのです。

パウロが異邦人の間で、食事をしたら、異邦人と一緒に豚やエビや貝を食べる、又は第7日目のシャバットを破り汚す、そのような事は、

トラー=神の教えを知り、生きているパウロは天地がひっくり返ってもしない!という事を覚えておいて下さい。異邦人には、分からないなぜなら、神の言葉を正しく理解せず、今は神の言葉、罪の定義は

破棄されたという人の思想を信じ込んでいるから、通じないのです。

この点を、クリスチャンは今は神の言葉、教えを破る、律法から自由詰まりその意味は、神に対して罪を犯しても良いなどと言う完全に

ズレた教えをその意味を気が付かないまま、平気でそれが神の言葉、教えであると勘違いして、人に伝えているのです。

神の言葉から解放される、それはイエシュア、聖書によれば、パウロの言葉によれば、無法=アノモス、トラー無し!英語では、lawlesnessです!神から切り離される状態を作るのです。神の言葉を追放!という思想、神に敵対する行為であり、これが聖書を誤った解釈をする大問題の根なのです。

罪の定義が無い、無法地帯を生きること、危険な生き方を人に教えることになってしまいます。

神の言葉を捨てて勝手に生きる人に、イエシュアはこう言われたでしょう。

マタイ 7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、

主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

知らない〜関係ない〜契約の中にいない!と言っているのです。

なぜなら、神が提示した契約の生き方に違反しているからです。

イエシュアが言った言葉の意味が、クリスチャンには全然響かないでしょう?イエシュアの言葉の意味通りには、クリスチャンには通じていないのです。

それは、ユダヤ人なら分かるのに、異邦人だから、神の言葉終わり

ありきという冒涜的、反神の言葉、反聖霊の思想を土台としているから、見えないだけなのです。

 

9:21 律法=ノモス=トラーのない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。

 

ここで、パウロが言っているノモス=律法とは、トラー=モーセの

五書、神の教えのことです!

パウロは、パウロも神のトラーの外にあるのではないと言っていることに注目してください。当たり前です。全てイエシュアを通して、

イスラエルの神の元に戻った人は、神の提示するトラー=婚姻契約の下にいて、神の婚姻契約で提示された、神の創造された本来の人間の

生き方をすることに同意しているからです。

ノモス=トラー=神の教えがない人=異邦人だからです。神の教えを知らない人には、知らない人のレベルで話さないと通じないでしょう。同じ聖書を読んでいるのに、クリスチャンは、人の思想を取り入れて、聖書の土台を曲げているので、神の教えが永遠普遍である事さえ、神が伝えるその重大事実さえ、否定しているでしょう。

それを伝えても、律法は廃れたなどと、聖書に書いてないことを言い続けて、理解しようともしません。

その人達に対して、神の言葉が永遠であり、創世記から、黙示録まで

神の言葉は同じ!という事を伝えるのに、ユダヤ人に話すのとは、

違う事を解説し続け、細かく噛み砕いて1つ1つ聖書の事実、言葉の意味を事細かに説明しない限り、全く通じない事と同じなのです。

イエシュア信者ではないユダヤ人が、福音書以降に書かれていることをただ読めば、それらが、モーセの五書とぴったりマッチしていて

不適切な翻訳ではなく、書いてある意味通りに読めば、それらは

モーセの五書の註解である事に、気がつけるのです。

それが異邦人とは全く違う、トラーを知るユダヤ人だからです。

クリスチャンは、神の言葉のある部分を生きることには、同意していないのです。つまり神の教えの全部を認めていない!ということを

しているのです。婚姻契約に完全に従順神の言葉の全てに伏して、

忠実に生きるという態度がない、サレンダーしていないのです。

自分の気に入る、納得する、都合が良い、受け入れられる教えだけ、それ以外の異物、馴染みがない神の教えは、全て古い律法、廃れた、関係ないと言っているのがそれです。

部分的に神の教えを聞いているだけだからです。

 

 

続く