コロサイ2章は禁欲主義 神秘主義 伝統の人の言い伝えに固執させられることへの警告 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

コロサイ2章は、神の教えは、一時的な影なので消えた〜、今は神が伝えたレビ記11章にある、汚れた動物、そして、飲み物はなんでも食べて、取り入れて良い、そして、レビ記23章の、神の創造されたモアデイム、祭り、新月、シャバットは祝わなくても、他人にとやかく批判されるなかれと書いてあると、完全に誤解している箇所を書きました。

聖書に書かれてもいない事を、書いていない意味で読み込みするのは、1世紀後半以降に現れた西洋教父達の思想〜モーセの五書に反対する反ユダヤ思想のローマ帝国の同調圧力に一緒に便乗して、神の

言葉を否定した人達が作った教え、思想を、聖書であると教えられ

続けて、聞いた人達が、解説するズレた聖書解釈、解説なのです。

聖書の内容、記述から全く逸脱した、ズレた聖書解説です。

問題は、聖書を教える人達が、聖書に記された神の言葉を正しく理解してないこと、神の教えを削除、否定した人の教えを信奉していることに気が付いていないこと、それが本当の問題の根なのです。

そのような教えが語り続けられて、浸透してしまい、今に至るのですが、今は確実に神の本当の言葉=聖書に記されている事実に戻る軌道修正をする、終わりの時代を迎えているのです。

書いてある原語の意味、その時代の宗教背景、裏にあった背景〜

偽の教え、禁欲主義、人間の編み出した伝統の言い伝え〜律法の

戒め=人の作った戒律が蔓延していた問題があったことを、知れば

パウロが何を解説しているのか、分かります。

今の異邦人の世界に蔓延しているのは、神の言葉自身を否定、曲げて

自由自在に削除、付け足し、歪んだ解説をすること!

そして、神の言葉ではなく、人間の編み出した宗教文化の教えを

尊重していること、果ては、神の言葉を否定して、汚れた動物を食べ、同性愛を支持することまでしている、もう、ソドムとゴモラ

腐敗の生き方の道、罪の道に扉を開いて、聖別を汚しているのです。

 

人間が作った宗教の教え、そして宗教文化、伝統で語り継がれて実践されて来た事と、聖書に書かれている神の教えとは違うものです。

もちろん、メシアの贖い、子羊の血の贖いの代価で救われ、罪の代価を全部支払われて、新しくされた事実は聖書の事実です。

でも、クリスチャンの教えでは、その中身も、聖書とは違うことを

解説して伝えています。以下は、神が伝える事実とは異なる、クリスチャンの世界で信じられている思想です。

 

①2000年前迄、イエシュアが地上に来れられて実際に処刑されて

昇天するまで、罪の赦しは仮の赦し〜動物を通して許されていた。

<イスラエルの神はごく少数の特定の人しか、許されないようなそんな神ではありません。神殿での一連の教えは、目に見えない天の神の家を地上でもそっくりレプリカを作り、神の臨在が人の間にあること、そして、神の家に住まう人の生き方、イエシュアの贖いの業、

神の前に新しくされている事実を教えている、五感を通して実際に

学ぶ、体験型神の家での様々な学習ツールなのです。

実際に天にある、神の家を、地上でそっくりそのままのレプリカを

作り、神は全世界に満ちて、人は神の中に存在するのに、ある特定の場所〜神が定めて聖別された場所に神の臨在が言葉として宿り、人が神の臨在に地上でアクセス出来る家、神の子らが住まう家を教えているのです。だから契約の箱の中、言葉に神の臨在があったのです。

その契約の箱の蓋は、カポレット〜贖いというヘブライ語と同じ物です。>

②2000年以前は、律法を生きて義とされた。又はユダヤ人に、

律法を生きて義とされるように神は教えた。

だから、異邦人には関係のない教えである。

神の言葉=トラー=教えは、人が義とされる目的の為に与えられたものなどではありません!義とされた人達〜イエシュアの血の贖いを信仰により受け取り、神の契りに加えられた人達、義とされた人達が、イエシュアの実態を生きることの詳細を教えているものなのです。

この違いが見えれば、分かります。イエシュアを通して以外、誰も

神のもとに来ることはできないと言っているでしょう?救いの方法は1つだけだからです!仮の救いなど、聖書に書いてません!

どうして、古代は律法を生きて義とされたなどと、神の伝えることとは異なる、聖書とは真逆な思想を語っているのでしょうか?

 

③ユダヤ人と、異邦人は別。ユダヤ人だけ律法を生きれば良い。

異邦人は律法を生きる必要などない。

<これ、西洋神学思想、反モーセの五書、反ユダヤ思想です。

イエシュア=ユダヤ人の王であるお方〜イエシュアの教え〜父が教えた教え、エデンの園から同じ神の教えを、人が勝手に判定しているだけ。誰でもユダ族メシアであるイエシュアを通して、神の大家族に加えられたら全てイスラエル!という名前が与えられているのです。

神と格闘して乗り越えた人々!真実を求めて、神に引き寄せられた人の苗字です。異邦人、ユダヤ人と分ける思想は、ダービー思想、それは、1世紀後半から根付く非聖書的異邦人思想であり、神の民は1つという、神が伝える基本中の基本さえ、理解していない人が考えついた、聖書に反する教えである事を聖書から把握してください。

エハッド=一体=一つ以上で全く1つの神の性質〜人も一体として

同じ土=アダマから造られた事実を、完全に見逃して聖書を読んでいるからです。だから、一体、一致という意味は、このようなダービー分裂思想とは異なるものなのです。

④聖霊は、使徒2章以降まで、人の内側に住まわれなかった。

このような思想は、聖書に書いてある内容を理解していない、把握していないことによる、人の思想=デイスペンセーション神学の非聖書的教えに影響されている思想です。聖書に書いてある事実が、見えない盲目を生み出すのが、神の言葉を曲げる、人の思想なのです。

 

聖書の真理に敵対する人の思想は、神の教えではないのです。

肉の耳、頭脳には心地よく納得、しっくり行く教えでも、それは

神の教えではない、デイスペンセーション神学、置換神学は人の肉の思想、聖書を曲げている思想だと覚えておいた方が安全です。

それは、そのような思想を持つ人が、聖書を正しく学ばず、理解せず

人の思想で塗り替えられた教えを信奉して、半分聖書の事実、半分

人の解釈の作り話の嘘を信じているということに気が付いていない人の教えです。

福音書以降に記されているのは、神の教えの完全版全編ではなく、

モーセの五書の中に記されたある教えに関しての、抜粋しか記されていなのです。なぜ?それは、モーセの五書に神の完全版である教え

言葉が記され、ヨシュア〜マラキで、モーセの五書の完全版解説をしているからです。福音書以降は、聖書の25%に過ぎない理由は、

タナック〜モーセの五書、預言書、諸書の、短い後書きだからです。

クリスチャンは、神の教えが100%モーセの五書のみという正しい理解がないのです。福音書以降には、モーセの五書〜古い教えとは

違う新しい教え、又はモーセの五書を終了、勝手に人間が選んで

今は自由に生きれば良いという教えが書かれていると勘違いしているからです。

コロサイ2:16は、その後18節以降を読むと分かりますが、グノーシス主義と同じ、聖書とは異なる思想を持つ偽教師の教えが蔓延し、

プラス、ユダヤ人の中にもあった、「戒めの律法、先祖代々の言い伝え」を生きるように強要していた、それらのものが蔓延していた背景を理解すれば、見えます。

偽教師達は、コロサイの群れに、宇宙的で霊的な力を崇拝するよう

説得しようとしていたのです。今でいう所のスピリチュアルを求める悪霊の世界を探る行為です。そして彼らが強要、推奨している、そのような過酷な生活が霊的な力を和らげ、偽りの神々から何らかの恩恵を享受できると考えて、禁欲的なライフスタイルを奨励したのです。

禁欲主義、人の伝統の教え、それらを人に教えて、強要していた、

今も同じです。

聖書とは違う教えを、人にするならば、形は違えど、本質は同じなのです。その背景を理解して読まないとなりません。

神の教えではないこと、そしてユダヤ人の場合、彼らが考える伝統のやり方、儀式を通して、食べ物飲み物を取り扱い〜これは、マルコ

7章の手洗いの儀式でもイエシュアが論破したことと同じです。

異邦人の世界、市場に行ったら、その手や器は汚れるから、彼らが

編み出した手洗いの儀式をしないと、その手で食べ物をさわり、器に食べ物を入れたら、異邦人のけがれ〜えんがちょが移り、きよい食べ物が汚れる!という迷信を信じていたのです。

 

前回の記事の内容ですが、ここに書かれていることを、クリスチャンの解説は、神が禁じた食べ物、飲み物を摂取して、そして、神の創造された記念日、祭り〜ハギム 新月、シャバット=それらのモアデイムをクリスチャンが祝わないことを、批判されるなかれと、書いてもない空想の解説をしている箇所です。そのような聖書とは異なる解説は一掃、永遠に破棄しないとなりません。

神の言葉=教えからズレて生きる、神のモアデイムを廃止〜これは罪!命に匹敵する重さと、神が教えている意味を理解しない、聖書を正しく学んでいない、知らない人の唱える教えです。

 

ここに記されているのは、当時の宗教エリート達、又は禁欲主義者が

神が人に祝福、喜び楽しむために与えた食べ物〜それらは神が伝えるもちろんきよい動物のみが人の食べ物としての肉ですが、そして野菜やパンなど、それらを食することを禁じたグノーシス主義者に、批判されてはならないと、パウロが教えているのです。

彼らが編み出した伝統の儀式〜手洗いの儀式をしない手で食べたり

飲んだりしたら、きよい食物も汚れるなどの、人の伝統の思想、儀式に縛られることはない!批判されるべき事ではない!

同時に、宗教エリート達の編み出した方法で、祭り、新月、シャバットを祝わない、違うやり方をしていると批判されることが、あっては

ならない。それら人間の教えに支配されるな!というのが、パウロの

知恵、警告なのです。

そのパウロの知恵、警告をクリスチャンは、今はなんでもかんでも好きなように選んで食べることが可能になったのが、今の恵の時代の教えだ!と、そんな聖書に書いてもない事、罪を犯す事を奨励する、神の言葉に真っ向から反する教えを主張して、けがれた動物を食べること〜律法を死守する人達などに批判されるなかれ!と、聖書とは異なる真逆の教え、不真実な別のことを解説してしまっているのです。

そして、神の創造された記念日は今は祝う必要はない、記念日、

シャバットはいつの日にしても良いなどと、人間の教えを神の教えとすり替えた嘘を信じて実践しているのです。レビ記23章の神の記念日を祝わないことを、批判されるなかれ!などと、解説しています。

このように、聖書を正しく理解しない教師たちに、聖書ではない教えを、教えられ続けてしまっている弊害、問題があるのです。

 

それは1世紀後半に遡る、神の教えに叛逆した教え〜モーセの五書

否定削除派の異邦人人間至上主義思想で、聖書を否定する偽情報を

刷り込まれ、デマ、でっちあげの空想話しを語り続け、それらが神の言葉教えであると教えられてしまった深い罪=ズレの代償をずっと

現代に至るまで負っているのです。

そして、影〜消えるなどと、全く聖書にある言葉の意味とは、異なる

解釈をしているのです。影=ツエル、スキアは、本体=目に見えないものの、性質そのもの〜影と書いてあるのです。

本体=メシア=神の実態、目に見えないものを、地上で目に見える形で表している、それが影です。だから、食べること、飲むこと何をしても神の栄光=実態通りに生きる、神の言葉=性質を生きる、人の生き方から、神の実態が地上に現れ出るからです。

そして、神の記念日=祭り、新月、シャバットは、メシアそのものを

表しているものであり、目に見えない実態=影である!と教えているのに、パウロが伝えて意味を、正しく理解していないことが問題で

全く別物の解説がされています。

神の言葉が廃れた、神の記念日は今はいつでもOkなどと、神に対する罪、冒涜を平気で言えるのは、異教徒思想背景の人、神の言葉を理解していない人か、異邦人しかいません!

聖書に登場する人で、クリスチャンが信じている神学思想を神の言葉を否定、削除して信奉する人などは、誰一人としていない事実から

正しく聖書を読み直す必要があります。

 

コロサイ2:16 だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。

2:17 これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。

この箇所の後に、当時蔓延していた、神秘主義、グノーシス主義、

その他、神の言葉、教えとは異なる偽教師達の教えに対しての

警告がはっきり書いてあります。

パウロが、モーセの五書を生きることを否定しているという、その嘘

神の言葉をさえぎる諸悪の根源である異邦人思想の方を、先ず全て

一掃、削除、破棄してください。

聖書を教える、人に神の言葉の真実を教える教師達が、本当に聖書の真実=神の言葉は変化ない永遠と神が言う通りの事実に気がついて、聖書に書いてある事実、真実を学び、理解し、はっきり確信を持てば、世界は変わるのです。問題は、聖書を教える人が、神の教えを

否定しながら、同時に聖書は完全なる誤りのない神の言葉だ〜と言うそんな大矛盾を言っているのに、その矛盾に気が付いていないことなのです。

2:18 あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、

<神秘主義、スプリチュアル=悪霊崇拝思想への警告です。

聖霊以外は、全て悪霊だからです。>

 

2:19 キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。

このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。

<キリストにしっかり着くことをしない、イコール、メシア=聖霊=神の言葉にしっかり根付いて生きていない!という意味です。

神の教えを拒否し、揺れ動く葦のように、人の思想に引っ張られて行くことへの警告をパウロがしているのです。>

 

2:20 もしあなたがたが、キリストと共に死んで、世のもろもろの霊力から離れたのなら、なぜ、なおこの世に生きているもののように、

2:21 「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。

<禁欲主義であり、神の教えではない、人の教えの規定に縛られる事に対しての警告なのです。>

 2:22 これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。

<神の教えではない人の教えは尽きる、人間の規定、教えと書いてあるでしょう。どうしてそれを、モーセの五書=父の教え=イエシュアが教えられた教えだと、勘違いしているのでしょうか?

人間の教え、規定に縛られている思考回路そのものです。>

 

2:23 これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。

<人間の編み出した禁欲主義=グノーシス主義は、肉の欲=ズレた

思考回路には、何も意味がない!そんな物で、罪に支配される事は

防御できませんと、パウロが言っているのです。新しい人として、

神の性質=言葉=聖霊を生きる事、それが人間が本来神に造られた通りを生きる唯一の方法だからです。>