神の教え〜トラー=婚姻契約=神の中に生きる、神の性質通りの人達の生き方が、初めて文字として神から人に与えられました。
それ迄は、エデンの園から、全て口頭で神から神のトラー=教えが与えられて、伝授されてきたのですが、文字で初めて記された婚姻契約を受け取った、神と正式な関係に入った祭りが、シナイ
山でのシャヴオートの祭りです。
それが春の祭りの4番目にある記念日、ハグ=都の上りの祭り「シャヴオート」です。ギリシャ語ではペンテコステと訳されていますが、本当の名前は、ヘブライ語「シャヴオート」週(複数)過越から7週間後の祭りです。
ジーザス、イエズスは翻訳ですが、本当のメシアの名前は、ヘブライ語でイエシュアです。「救い」という意味の名です。
言葉を聞くと、その言葉が持つそれぞれのイメージや印象があるので、元の言語、本当の言葉、ヘブライ語に戻して、固定概念や違う思想が、その言葉に関連して植え付けられているので、それを全部切り替えるために、元の本当のヘブライ語の言葉に戻して書いています。
ペンテコステと聞いたら、聖霊が初めて人に与えられた祭りだと連想するでしょう?それは西洋宗教の教えであり、聖書にはそのようには書かれていません。しかも、ペンテコステは、聖霊降臨祭などという名前の祭りではないのです。聖霊=神が人の内側に住まう人が新しくされた事実を信仰により受け取るのは、エデンの園を飛び出した時から、同じなのです。
出エジプトした人達が、子羊の血の代価により神の花嫁とされ、
イスラエルと言う、天にある「神の国」を地上で反映させる人の代表として神が選ばれた唯一の民族〜祭司の民、聖なる国民となった人達のことが記されています。
このイスラエルの中には、共に異邦人も1つの大家族として、
加えられていることがずっと教えられ、書かれています。
エジプトで10ヶ月近く、「10の災」を目の前で見て、体験した中で、異邦人も同様にイスラエルの神の声を、モーセを通して
聞いて、イスラエルの神を信じた!イエシュア=救い、子羊の血を、神が言われた通りに鴨居に塗ったのです。
鴨居に血を塗るとは、神との契約=関係の中に入る印でもあるのです。その血は入り口の全部に塗られ、戸、敷居にも塗られた。
縁を切られた家族に、「家の敷居をまたぐな〜」という日本語の
表現がありますが、子羊の血が塗られた敷居をまたぐとは、神との関係に入ることを意味しているものなのです。
だから、血の契約、血の花婿をいう言葉が使われているでしょう。
神はイスラエルを、神の創造された全人類の代表として選んでいます。そして少数の異邦人が聖書の記録に登場するのには、意味があります。
最初はイスラエルが大家族の代表、主体ですが、異邦人も同時に神の家族に加えられることを、その少数の異邦人が共にイスラエルと荒野を40年生きた、住んだ、約束の地を目指して、神の声を聞く訓練を受けた。12部族の中に加えられイスラエルとして数えられた事実を通しても、最初から教えているからです。
アヴラハムも最初は元々異邦人でした。ノアも異邦人です。
神が彼らを選び出して、1つの国民〜イスラエルの神の性質を
反映し、神の性質=神の言葉で表される生き方を地上でする、
天を反映する祭司の国民として選び出したのです。
そして、それはイスラエルだけではない、アヴラハムは全世界の全民族の父とされ、全世界の民族に同じ救い、贖い、祝福を
分け与えるツールとして神がアヴラハムを選び出しただけだからです。それが神の選びの目的であり、イスラエルだけが優れた
人間だからとか、特別だからではないのです。
大家族の長男、次男、三男、それに続く兄弟姉妹を考えても
分かるのです。長男〜イスラエルには、大家族の長として、
重たい責任と使命を与えた!だから、神の契約の命から外れた
生き方をし、神が与えた地の塩、世の光、世界へ生きて伝える
ミッションに何度も失敗し続けて、神から長男としての特に厳しい訓練を受けたのです。
それが、捕囚の民となって散らされた訓練でも分かるのです。
これは大家族でも同じです。
長男は、下にいる弟妹に正しく父から教えられた家訓を教える
責任、役割があり、そして長男は父が不在の時、家長である父を
代表して行動し、家族を守る、治める、養う責任を負わされている存在だからです。
それが、人として来られたイスラエルの神の大家族の長子=
イエシュアを通して教えられているのです。イエシュアは、
父そっくりそのまま、それがイエシュアが言われた、父とイエシュアは同じ、1つ、一体であるという意味です。「わたしを見たものは、父を見た!」と言われたのです。父の言葉=トラーを
そっくりそのまま、父の意図通りに、イエシュアは教えに来た!と、イエシュアが言われたのです。
人の考えた解釈や解説ではない、天直送〜父の言葉の意図通りを
地上で教えて、実際に生きてお手本を、イエシュアが人々に見せたのです。
その人達は、私達一人一人、地上の歴史の、それぞれの人生の
途上で、同じメシア〜イエシュアと出会い、イスラエルの神=
創造主の元に戻り、イエシュアの性質と同じく、子羊の贖いの血で新しくされた人達を表しているのです。
だから、神は人に、神に創造された同じ人間としての生き方を
最初から最後迄、ぶれずに一貫して同じ事を伝え、教え続けているのです。神は異邦人クリスチャンが解説するような、変身する神、神の約束、言葉、罪の定義や人間や動物の性質、生態系を
歴史の途中で進化、変化させる神などではありません!
別の神像〜空想の神を、イスラエルの神であると、解説してしまっているのです。
新年は春、第一の月から始まりますが、一年の中には色々な新しい始まりがあります。
春の最初の「初穂」は、大麦です。この時が、過越の祭りです。
そして、シャヴオートを祝う時には、「小麦」の初穂を捧げる時になります。
そして、一年の全ての農産物の「収穫」が全て揃う時期が、秋の仮庵の祭りの時の収穫祭です。そして、新しい農業のサイクルの季節が始まるのです。
これら全て「収穫」で、人を表しています。初穂〜大地から切り取られたイエシュア、イエシュアの復活の命に、贖われた人は連なり、新しい命を与えられた人、その人達が、夏の時期を通り、秋の最後の収穫まで成長する。そしてやがて、全人類の歴史の
最後の全部の収穫〜イエシュアに連なる人が、全て集められる!これらが、神のデザインされたモアデイムでも表されているのです。
だから、良い麦と毒麦など、収穫のたとえ話を通して、イエシュアに連なる人、そうではない人のことを表して、イエシュアが
語っていたのです。
春から、秋の仮庵の時迄の長い間、イスラエルには一滴も雨が
降らない時期になります。
イスラエルの大地、地形と自然、気候にピッタリ重ねて、何を
教えているのか見えます。
人生の旅路〜春、新しく生まれてから秋の収穫〜成長が達成される時迄、生ける水〜イエシュア無しに、人はこの世の旅路を生きられない。これが、荒野の40年でも表されています。
荒野は、湧水が出てくる場所がありますが、基本的に何もない地に見えます。でもその地に、一旦雨が降ると、水が流れていくと、水が流れた場所から、植物が芽生えて来ます。
荒野には、命が眠っている。イエシュアの水を与えられれば
その命=種は芽生える事ができるのです。
人は、イエシュアの命〜水に触れたら生きる!生き返ることが
できることを、イスラエルの地形、気候でも教えているのです。
さて、神殿崩壊以降、異邦人とユダヤ人がなぜ、今のように完全決裂し、別方向に行ったのか。そして、なぜ、異邦人クリスチャンが、神の教えとは違う人間が編み出した教えを生きるようになったのか、その原因、理由をずっと書いて来ました。
その理由は、政治的理由、ローマ帝国からの圧力、勅令〜モーセの五書を生きたら、神の記念日を祝ったら、処刑、死刑、重税を課せらたから、異邦人は、ローマ帝国の罰を恐れて、神の言葉を生きることから、抜け出した、逃げたからです。
そして、西洋教父たち〜異邦人、テモテのように幼い頃から、
トラーに親しみ、学び、生きて育った人達ではない人達、異教徒背景の異邦人、私達異邦人のように、ヘブライ聖書など、一度も聞いたことがない、生きたこともない、神のシャバット、記念日や祭りが何かも知らない、祝ったこともない人達。
イエシュアや弟子達、それまでの預言者たちが、知って生きて
いた、トラー=神の教え=モーセの五書に記された教えを、よくは知らない、馴染んで生きてない人たち。
もちろん、神の創造された記念日なども、生きては来なかった。
その人たちが、神の言葉を捨てることなど、いとも簡単なことなのです。始めから、よく知らない、理解していない、生きて来た
経験がないからです。
そして、神殿崩壊後、ユダヤ人達は、エルサレムから追い出されやがてイスラエルから、世界の四隅へ散って行きました。
その中には、イエシュア信者のユダヤ人達がいました。
1世紀当時、福音書以降に記されている、イエシュア信者の殆どは異邦人ではなく、ユダヤ人だったのです。
神殿崩壊前後から、ユダヤ人〜イスラエルと呼ばれる人達同士の中での亀裂もありました。
イエシュア信者であるユダヤ人は、イエシュアを信じないユダヤ人からも、迫害されました。パウロが同胞から、ムチ打たれたと書かれているように、イエシュアを信じたことで、同胞ユダヤ人から迫害を受けたからです。
そして、第一ユダヤ戦争〜神殿崩壊前後、西暦66年〜74年、70年に神殿がローマ帝国により崩壊され、それ以前から既に
ローマ帝国から、モーセの五書を生きること、神の祭り、記念日を祝うことを禁じられていたのです。
だから、ヨハネは黙示録2:4で、ある群は、「はじめの愛」
トラー=婚姻契約に記された生き方から離れた、忘れた!と
警告しているのです。
これは、イエシュアが来られる前の、マカバイ戦争でユダヤ人が直面した事と同じでした。異教の神々、汚れた動物=豚を食するように命じられ、エルサレムの神殿内に、異教の神々の像を持ち込み、豚をイスラエルの神の祭壇に捧げるなど、神の聖なる神殿を、そのような偶像と、汚れた動物で汚されたことに、断固として抵抗するために、マカバイが立ち上がった事件があり、神殿を異教徒から取り戻し、神殿を再びきよめて、再奉献したことを
記念する祝いが、ハヌカであり、イエシュアもそれを祝った記録が記されています。ヨハネ10:22-23
そのようなこと、詰まり異教の神々の教えに同化する、同調し
けがれたものを食するように強要され、異教の神々の教えに交わるように弾圧され続けて来たイスラエルの歴史があるのです。
昇天以降、神殿崩壊、その後、キトス戦争と呼ばれる、諸外国、東地中海各地いるユダヤ人たちが各地で、同時に紛争、暴動を起こしました。
そして、バルコクバの乱 132−136年。イエシュアが来られる以前から、ユダヤ人たちは、ギリシャ、ローマ帝国などに
弾圧、支配され続けて、彼らは事実上、この諸外国の支配から
イスラエルを救い出し、国を建て直す王の王を待っていたのです。そして、バルコクバの乱では、ラビアキバが、救い主であるとしたので、そのような戦いには、イエシュアを信じるユダヤ人は、参戦することができなくなってしまったのです。
このような出来事で、イエシュア信者のユダヤ人は、イエシュアをメシアと認めない、知らないユダヤ人との間に亀裂、軋轢が
益々生じて行ったのです。
同時に、ユダヤ人イエシュア信者と、異邦人のイエシュア信者も同様に、亀裂してしまったのです。別方向に、真っ二つに分かれてしまったのです。
その理由は、異邦人イエシュア信者は、ローマ帝国による
トラー=モーセの五書を生きることを禁じられた勅令に同意し
プラス、異邦人教父達も同様に、カトリックという宗教組織からも、神の教え=モーセの五書を生きること、神の記念日を生きることを、禁じられたので、異邦人はユダヤ人信者たちと、その頃から完全に別方向の道に歩む、完全決裂が起きたのです。
だから、異邦人の世界では、今までヘブライ語聖書など、教えられもしない、語られない。イエシュアや1世紀当時の信者たちが歴史の最初からガードし祝って来た神の創造された記念日が何かも教えられない、もちろん、祝った事もない、そのような1世紀の信者たち、イエシュアとは違った教え、生き方、別の記念日を
祝う、聖書にさえも記されていない、似ても似つかない西洋宗教
時のローマ帝国が作った新興宗教の教えに、異邦人は完全に移行して行ったのです。
異邦人クリスチャンは、この歴史の事実を全く教えられないままなのです。そして何を教えられてきたのかというと、宗教の教えが混ざった教え、人間創作の記念日を祝う実践です。そして完全であり訂正不可、永遠普遍である神の言葉の方を否定し、廃れたと言い続けているのです。
2世紀以降の異邦人教師達、カトリックが、神の教えと神の記念日を変えたのです。カトリックもその事を文書にして認めて発表しています。司教も、公の場所で発言しているでしょう。神の教え=トラーを生きること、祝うことを禁じて、イエシュアが教えた事を生きること、祝う事を、異邦人はやめた〜「はじめの愛」神が与えた婚姻契約を捨てたのです。
その歴史の事実を知らないままで、神がイエシュアが来られたことで、神の教え、罪の定義を変え、神の教えを変え、神の記念日は、今は自由に人間が決めた日に祝えば良いという、聖書に全く
記されていない、実は異邦人教師たちが考えついた教えを信仰する、宗教の教えへ、乗り換えたのです。この歴史の事実を知らないまま、神が神のトラーを終了したのだ〜と、聖書を読み違えて、今日迄主張し続けて来てしまったのです。
でも、それらの教え、思想は、非論理的な,不合理な,支離滅裂な,筋の通らない、常識から外れた論法、仮説なのです。
そのロジック〜論法は、神の言葉の道理に全くかなっていないものなのです。
なぜなら、それは神の伝えている事ではないと、神の言葉が証明しているものだからです。
続く