礼拝 祝福 愛の実態はモーセの五書に記されている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

「祝福する」バルフという言葉は、「膝」ベレフという言葉から来ているものです。

 

膝をかがめて神の前に出ること、それが祝福の意味です。

そして、神が人を祝福するという意味は、神が人の前に膝をかがめて、全てを与えて仕えているという意味なのです。

それが、イエシュアが示したトラーに記された愛の生き方なのです。だから、イエシュアが人のために命までも与えた、これ以上身を低くする 究極の行為はありません。

 

ユダヤ人の世界の祈りでは、神を祝福することを、たくさんします。シャバットで、祭りでも、常に神を祝福するのです。

そして、お互いを祝福する祈りをします。

神も同様に人に対して、祝福=膝をかがめてくださるのです。

その典型が、イエシュアが人間となって地上にこられたことで表されています。私達のために全てを与えてくださっていること、示しています。神でありながら、人の形をとって、私達と同じレベルに来て

生きてくださったからです。

 

人が神の前に出て、膝をかがめないならば、それはどのような

ことを意味しているのでしょう?突っ張っている、たかぶっている横柄な態度であり、自分と神が同等だと思い、神である存在にそれ相当の敬意を払わないという、行為です。

日本人なら、割と理解できますよね。相手に対して身を低くし、

礼をするのは、文化の中にあります。

 

膝を屈めるという物理的な行動は、霊的態度を示すものです。

私達が神を愛すると言うならば、神の権威の下に完全に身を置いていること、神に完全に敬意、忠誠を示すことを、神に示す行為、それが愛なのです。

ひれ伏すとは、そういうことなのです。ひれ伏してとは、自分の命を神の権威の前に、完全に預けますという表明だからです。

 

神を愛するとは、全て、神が人に教えること、伝えていることを人がそっくりそのまま神に伝えられた通りを行動すること、それが聖書に書かれている、愛の実態です。神を愛すると言いながら、どうして

神の言葉、教えを生きないで、反対に、神の言葉に対して、それらは古い教えで、今はもう終了、無関係などという神の言葉を退けている教えを信じて行動するのでしょうか?

聖書ではない教えが、クリスチャンの教えの中に浸透し、染み付いてしまっているから、そのような神の言葉とは異なる、人間創作の思想に対して、全く違和感が湧かないのです。聖書に書かれている意味を、ちゃんと捉えていない、確認しなおさないからです。

福音書以降には、神の教えの全部が書かれていないから、書かれていないものは終了と考えているのでしょう?

中学2年生の数学の教科書に、九九の一覧表は書いてありますか?書いてないから九九は終わり?そう言うことを、クリスチャンの世界では言っているのです。福音書以降は、最初の部分、

モーセの五書=神の教えを理解している人たちに向けて、最初の聖書の部分の短い抜粋が書いてあるだけだからです!

 

神が伝える、聖書に記されている神を愛するとは、全て行動の世界です。意志、決意、決定でありふわふわ感情など関係ありません。

神の教えに忠誠を持って、生きること!それが神の伝える愛の実態です。

ふわふわ、ウキウキの感情、自分の神に対する気持ち、それらは愛ではありません。態度で示そうよ!の世界、それが聖書です。

感情は、葉っぱの上に落ちてくるつゆと同じ、行動、思想、決意を生きて、その後からくるものです。

 

ヨハネ4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
 
ヨハネ9:31 わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。
 
1サムエル12:24 あなたがたは、ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕えなければならない。そして主がどんなに大きいことをあなたがたのためにされたかを考えなければならない。
 
コヘレト12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、
神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
 
ローマ7:14 わたしたちは、トラー=神の言葉、教えは霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。
 
パウロは、トラーは霊的であると伝えています。そうです。
聖霊=言葉=イエシュア=神と聖書には、書いてあるからです。

ヨハネの福音書の冒頭にも書かれているでしょう。

イエシュア=肉体を取ってこられた言葉=トラーであると。

 

神の言葉は実態です。霊的であり物理的なものを生み出すのです。

だから、世界の全ては神の言葉により造られなかったものは1つもないでしょう。全て神の言葉が最初にあって、そしてその実態通りが

現れ出たことが創世記の冒頭に書かれています。

グノーシス主義思想は、霊的なことは、肉体より優れている、肉体は悪いと教えています。それがクリスチャンの世界の思想にも、浸透していますが、神の造られたもので1つも悪いものはない、肉体、物理的、トヴ=神の意図通りの物が現れ出たこと、神の創造物が完成して、神は、「トヴ メオド」はなはだよかった!と感嘆、感激されたことが書かれているからです。

 

マタイ22:36 「先生、トラーの中で、どのいましめがいちばん
大切なのですか」。

22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

22:40 これらの二つのいましめに、トラー=モーセの五書全体と預言者とが、かかっている」。

 

神の言葉=教えを、クリスチャンは勝手に分断、分割、仕分けていますが、神の言葉は体と同じく、1つで全部繋がっています。

だから、この部分は終わり、あの部分は無用、異邦人にはこれだけ、ユダヤ人は全部などという、そのような人間が考えついた

思想は、聖書とは異なります。全部繋がって丸ごとシャローム、

エハッド=1つで完全、それが神の言葉の性質だからです。

人の体で、右手は不要、左足は今は機能しない、そんなことありえないでしょう?それと同じことを、神の言葉に対してクリスチャンは

語り続けているのです。そんな思想は人間の思想であり、聖書ではない教えであると、気がつかないからです。

神が伝える神の性質と、神の言葉の性質を、クリスチャンの世界では、違うものとして解説しています。そのような根本的なズレ間違いを全部一層すれば、聖書の永遠で完璧で完全で普遍である真実が、

初めて見えてくるのです。

人の思想は、神の言葉、根底、土台を塗り替え、揺るがし、歪めています。だから宗教くさい思想が次々と生み出されている=それが偶像礼拝の根であり、律法主義的生き方、神との関わりを

本来の透明で直に顔と顔を合わせるものに、ベール、おおいを

かけているのです!

 

1コリント13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
 

クリスチャンの間では、愛の章と言われている1コリント13章は、パウロがトラーに記された愛の実態を、抜粋して書いているものです。愛と聞くと、どうしても自分達の文化の中で語る、愛の定義になってしまっています。

黙示録2:4に記されている、ローマ帝国、イスラエルの神の教え、モーセの五書=トラーを知らない人には解読できない、隠語=コード化された言葉で、黙示録は記されています。

 

第二次世界大戦中も、日本の戦士たちも暗号、隠語を使い、情報伝達をしました。それと同じであるのが、「黙示録」に書かれた言葉=隠語、暗号で書かれた言葉なのです。

日本軍が、『トラトラトラ!』と言えば「我奇襲に成功せり」。

『ニイタカヤマにのぼれ』と言えば、 「12月8日に攻撃を開始せよ」と言う伝達だったのです。敵に話している内容を悟られないために、暗号を使って伝達したからです。

だから、クリスチャンの世界で語られる解説は、聖書とはズレた解説がたくさんあるのです。元の言葉が意味していることを知らなければ、自分の国の現代の文化や思想、空想で聖書を読んでしまうからです。

新高山とは、台湾にあった日本一の高さの山ですが、その山にのぼれと言うことと、12月8日に攻撃せよ!というメッセージが

まるで違うことが分かるでしょう。

だから、黙示録にある、「はじめの愛」とは、シナイ山で与えられた婚姻契約=トラー=モーセの五書のことを、話しているのです。聖書は創世記から、黙示録まで全て、モーセの五書だけを語って解説していることに気が付けば、聖書を正しく把握できます。

聖書の最初から最後まで、神の言葉をガードして生きよ!と神が

教えているのに、クリスチャンの世界で語られている思想は、

神の言葉を捨てよ!終わり!律法主義!

ととんでもなく、聖書=神の教えとはずれたことを、イエシュアを信じながら同時に言っているのに、気がついていないのです。

 

ヘブライ語の聖書に記された愛の定義は、全部「行動」です。

何に基づいて行動するのですか?神のトラー=言葉、教えに基づいて全ての行動をする、それがまことの礼拝なのです。

 

礼拝というもう一つの言葉は、創世記、エデンの園に最初に出てくる言葉です。「アヴァダ」という言葉であり、耕すと訳されていますが、私達は神が伝える通り、神の意図通りを何をしていても

生きる、それが礼拝であり、生きることはキリストとは、生きる

すなわち神の言葉で語られている性質通りを生きる、それが神の前に何をしていても、全てが礼拝なのです。

 

神の意図通りを生きるなら、アヴォダは、神に属する聖なる民の

生き方であり、神の教えとずれると、アヴォダは、奴隷となるのです。人の教えに仕えて生きるとは、エジプトの奴隷に戻ることを聖書では意味しているのです。同じ言葉で、「アヴァド」は、「仕えるもの」と、「奴隷」という、裏表の意味がある言葉になるのです。

 

イエシュア=トラー=言葉、生きることはキリストと書かれている意味は、それだからです。神の言葉を生きること、イコールそれがキリスト、イエシュア、トラーです。

人間が勝手に空想する、愛や礼拝を生きるのではなく、神が伝える通りを生きること、それに尽きるのです。

 

だから、神を愛すると言いながら、神の言葉を退けて、人が編み出した神の言葉や教えを根こそぎ塗り替える勝手な思想を生きるとは、神を愛する態度、行動、生き方ではないことは聖書に明らかに何度も何度も記されています。

神の教えを違反した、イスラエルが辿った厳しい訓練もそれです。

 
箴言16:2 人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は
人の魂をはかられる。
 
エレミヤ17:10 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。
 

マタイ15:8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

15:9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。

23:27 偽善なトラー学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。

23:28 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、

内側は偽善と不法(不法とは、不=無し、法=ノモス=トラー

神の教え)とでいっぱいである。

 

続く