神の伝える永遠の真実に目覚めていること | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人は、神が神の言葉や教え、祭りやシャバットを、イエシュアが変えたと疑いなく信じていますが、それは聖書に記述されていないどころか、神は神の言葉、教えを変えていません。

聖書には、そう書いてあります。

 
ヘブル13:8 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。
 
イエシュア=父なる神は、変わらない同じ、永遠に同じであると聖書には書かれているのに、異邦人の思想、デイスペンセーション神学は、イスラエルの神は、怒りの神から恵の神に変身した、
異教神を語るが如くに、イスラエルの神像を語り、イスラエルの神が紹介する神ご自身の性質を、勝手に人の思想で塗り替えて、偽物のイエシュア像、偽物のイスラエルの神像を紹介しているのです。
私達が、神に言われていることは、神の言葉を正しく他者へ伝えること、それが、地の塩、世の光、天に属する祭司の役割です。
天にあるものを、そっくりそのまま地上で反映する。
 
イザ40:8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

1ペテロ1:25−26は、イザヤのこの箇所を引用して同じことを話しています。

詩篇119:89 主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり、

 

民数記23:19 神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことで、しとげないことがあろうか。

 
どうして、聖書に書いてある、神=神の言葉の性質通りに、
クリスチャンは信じていないのでしょう?神の言葉を勝手に仕分けて、ある部分は信じて、ある部分は無効とする、人間が神?
その思考回路は、異教徒思想、人間至上主義です。
 

神の定めの日=アポイントメントの日=レビ記23章に記された神が語られた、神が神の子ら全員を今2024年の7月の今も、未来も永遠に、神が呼び出している、特別に聖別された記念日の暦を教えて、与えているのです。

 

誰に、聖書を教えられたのか?ということが重要な鍵です。

そして、それが聖書とはズレている教えを信じている、本当の原因なのです。

神は人種により、神像を変えたり、神の言葉や教えの意味を変えないからです。カメレオンのような、パウロ像や、カメレオンのようなイエシュア像?それは、聖書に記されている、イスラエルの神ではありません。

そして、イエシュアや、パウロから直接教えられた人達ならば、ローマ教が作った教えを信じて、実践しないからです。

 

異邦人の世界では、2世紀以降には、神の教えは終了したと勝手に決めて言い出し、永遠普遍である神の教えを曲げた思想を流し始めて、今に至ります。

 

異邦人の世界の教えは、こうです。2世紀以降から、神の言葉や記念日を生きることは停止、終了された状態の時代である。

今は神の教えや記念日が終了していて、イエシュアが再び地上

エルサレムに戻られたら、その後、再び神の教えはまた復活し神の記念日も再び正常に祝われるようになると、聖書が伝えているともで言うのでしょうか?

聖書には、人種にかかわらず、イスラエルの神にイエシュアを

通して取り戻された人は、神の教えを今生きて、神の記念日を

祝うことを教えられている、それが聖書の真実です。

 

異邦人の語る神学教理こそが、まさに聖書には書いてもない奇妙な教えであり、どうして聖書の記述とは異なる事に丸で気がつかないことが起きているのでしょうか?

分断思想、聖書ではない教えです。神の教えは永遠から永遠に同じ!不思議でしょう?いや私も、聖書に書いてあるその事実が

永遠の真実であり、変わらないと気がつけなかったのです。

 

単純な真実、神の言葉が、こうして目の前に、聖書に書かれているのにも関わらず、永遠に変わらない!同じ!と書いてある通りに聖書を読み取れない、真実に気がつかない不思議な現象=集団催眠状態とも呼ぶべき現象が起きているのです。

それは、進化論やニセ科学仮説と同じく、嘘が大きければ、大きいほど、そしてその嘘の解説、実践が長年浸透し続けているので、記憶に恒久化し、周りが皆実践しているから、それが本当だと信じる。そして何が本当なのか、分からなくなっている状態なのです。

 

今の世の中、嘘が蔓延しています。気がついている人と、眠っている人、はっきり分かれています。権威が語ることが真実だと思うわされる。安全だ!と吹聴されたことは、単なる嘘でプロパガンダであること、人を破壊する目的の為であった事、知る人は知る、知らない人はどこまでも分からない、それと同じなのです。

それでも、未だ気がつけない。〜が言うから真実であると、騙されてしまうからです。

 

「良い地に蒔かれた種の例え」良い地と例えられているイエシュア の教えは、「レブ」の事を話しているのです。

ヘブライ語では、レヴ=頭脳です。神の言葉の種が頭脳に植わりそれを受け取り信じ、生きる、大きな木になり、御霊の実がなるとある通り、神の言葉を受け取る頭脳が、人の教えで、神の言葉の種を拒絶する、固い頭脳になってしまっているのです。

 

だから、シンプルに、WWJDに戻れば良いのです。

 

イエシュアは、地上で人に何を教えて、何を生きよと実際に手本を見せて教えましたか?イエシュアは人に神の言葉を破り、神のシャバットを破るようにいつ、そのようなことを教えましたか?

異邦人が語る脳内空想のジーザスは、聖書に書いてあるメシアとは異なります。

イエシュアは、どの日を聖別された日として尊重し、祝ったと

聖書には書かれていますか?聖書には、永遠の事実が証拠として、私たちのために、記録されて、書かれているのです!誰も揺るがせない、聖霊により書かれた永遠の証拠として。しかも、イエシュアが地上から去り、昇天以降も、聖書に登場するのは、何も変わらない、神の教えをそのまま生きていること、シャバットや祭りを祝っていることしか書かれていません。

 

どうか、自分で聖書を読んで、ぜひ確かめてみてください。

1)どこの箇所に、神が神の教えは終了したと宣言し人に伝えて

神の言葉を破っても良いと、神が言っていますか?

2)聖書のどこに、ユダヤ人と異邦人では、生きる教えが違うと書いてありますか?

3)聖書のどこに、神が神の記念日を変更し、異邦人は、クリスマス、イースターを祝え、ユダヤ人だけレビ記23章に記された

記念日を祝えと書いてありますか?

4)聖書のどこに、今は人の考えで、神の言葉を仕分けて、自分の判断で自由に生きて良いと書いてありますか?

5)聖書のどこに、今はどの日もシャバット=安息日だと書いてありますか?又は、今は日曜日が安息日=聖別された主の日であると書かれていますか?

6)聖書のどこに、神が禁じたことを今やっても良いと書いてありますか?

7)聖書のどこに、神がきよくない動物が、今はきよめられ、

人が食することができるようになったと書かれていますか?

8)聖書のどこに、怒りの神が恵の神に変身し、怒りの時代から

恵みの時代に変化し、律法時代から聖霊時代へ変化したと

書いてありますか?

 

7)ですが、遺伝子組み換えでも、オーガニックと偽表示がしてある、そのような食品と同じです。中身は純粋ではない。

遺伝子組み換え=人の教えが神の言葉の中に混ざった純粋ではない神のことば、教えです。

 

よく考えて行くと見えてきます。どうして、神に造られたに過ぎない人間が、神の言葉を、神が言う通りに取り扱わず、終了だ

破棄された、呪いの律法、今は異邦人には無関係と様々に神の言葉に対して、敵対する意識を持ち、勝手に仕分けて、そのように発言しているのだろう?と考えたら良いのです。

 

イエシュアが来られて、呪いの律法=神の言葉を十字架に付けたからだ〜?このような思想は、聖書ではありません。

どうして、人間が神に対しての冒涜をしているのに、その事に全く気がつけないのか、それは、聖書を読む土台、前提が、最初からズレているからです。人の思想を信じて聖書を曲げているからです。

クリスチャンの世界で解説されている、神の教えがあたかも変化したとされる箇所は100%、どの箇所ももれなく聖書に書かれている意味を、正しく理解し、読み取らない人たちにより、されてしまっている、ズレた誤解の解釈だからです

そのような、聖書ではない教えが、異邦人クリスチャンの世界で浸透してしまっているのです。その始まりは、1世紀後半に遡る事なのです。

聖書には、神の教えが変化したなど、そんなことは1つも書いてないのです。

「律法」という誤訳翻訳で覆われている、本当の言葉は、「トラーであり、神の教え、インストラクション」です。

本来の言葉の意味に直すと、違和感を覚えるでしょう?

「神の教え、インストラクション」は呪い、古い、悪い、不完全なものなので十字架につけられた??神の言葉に対して、そんなことを言うのを憚る意識を感じると思います。

 

全部、神の伝える永遠の真実が、人が作った教えで、覆い隠されているだけなのです!

異邦人は、2世紀以降、パウロ達のようなユダヤ人のトラー学者達から離れて、完全決裂し、異邦人独自の宗教の教えを編み出し独自の聖書解釈を翻訳聖書に施して、それがずっと継承され続けて来てしまったのです。

 

しかも、中世のローマ教のズレた教え、ルターが1517年の10月にカトリックに対して、ズレた教えに対する「99の論題」というのを突きつけています。そこから、プロテスタントが、初めて誕生したのですが、プロテスタントが誕生するまで、神は神の永遠の真理を人に教えなかったのでしょうか?

いいえ、神の永遠の真実はエデンの園から、その時代ごとに置かれた、残りの民により継承され続けている、神の純粋な言葉=教え=契約を教えて生きる人たちを通して、神が真実を教え続けて来ているのです。

ルターでさえ、神の教え=トラーを正しく理解していないまま、最後はユダヤ人迫害思想に走ってしまったのです。

ドイツで、グーテンベルグが1436年に、印刷機械を発明しましたが、一般に翻訳聖書が流通するには、もっと長い年月を要しているのです。詰まり、今のように個人が手元に聖書を持ち、読むということが、なかったのです。

たとえ、今翻訳聖書があったとしても、その中身を正しく理解しないまま、人の教えで聖書を読んだら、神の教えが創世記から

黙示録まで同じであることに、気がついていない多くの人がいる

現実があるのです。

それは、人が教える思想で、聖書の事実が塗り替えられた教えが

されているからなのです。

 

一般的に異邦人の世界では、最初から、ヘブライ聖書を熟知し

正しく教えるという教育背景が全くありません。イエシュアや

パウロたち、聖書に登場する人たちが生きていた、教えやシャバットや、祭りを祝ったことも一度もないのが普通です。そのような背景=異邦人の世界の独自の教えを生きてきたのです。

 

誰でもイエシュアを愛するならば、神に敵対することなど、したいとなど思わないのです。何が聖霊を悲しませる行為なのか、理解していないとならないのです。

でも、神の言葉を愛して生きると、神がイエシュアが言われたことには、抵抗を感じるのです。

 

WWJDと言うなら、イエシュアがされて生きて示したことを生きるのが、妥当であり永遠の真理だと、どうして信じられないのでしょうか?

イエシュアは、モーセの五書=トラー、父の教えを人に正しく教え、生きて見せて、そして、神の記念日レビ記23章を祝いました。それ以外では、ハヌカの祭りをイエシュアがエルサレムで

祝われた記録が唯一聖書のヨハネ10:22-23に記されています。

 

1世紀の人々、聖書に記された人々は、全てトラー=父の教え=婚姻契約=モーセの五書に記された神の教えを生きる事を教えられ、シャバット、新月、春と秋の神の祭りを祝った!

聖書には、本当にそれしか書いてないのです。

 

聖書に、日曜礼拝、クリスマス祭り、イースター祭りを、昇天以降は祝えと、イエシュア=神が言ったと書いてありますか?

 

聖書に書いていないことは、神の命じていることではないと、

シンプルな事実に気がついてください。

神は、神が言う通りを人が生きて!と伝えています。

神は、人が神の伝えたことを曲げることは、決してしてはならない!と禁じているのです。

 

2世紀以降、異邦人が作った宗教で、イスラエルの神の教えや

神が創造された呼び出し日=アポイントメントの日=聖日=主の日=記念日や祭りをなし崩しにし、異邦人の考えるところの、

宗教の記念日や教えや祭りに、人が手を加えて完全に切り替えて、リニューアル。

それを2世紀以降実践し初めて、歴史の間でそれが、異邦人により継承され続け、恒久化し定着しただけです。

 

神がそのようにしなさい!と言っていないことを、神の教えだと信じることは空想を信じるのと同じです。

 

初めの愛=トラー=神の言葉を異邦人は忘れた!と警告された事が実際に、歴史の中で起きた、継続して起きているのです。そして、終わりの時代に、元に戻る=神の本物の教えを生きる事に戻る事が、神により始められている。

その事実に気がついた人達が、聖書に書かれた神の言葉の真実を語る軌道修正をし、神が語られた永遠の真理=教えを生きる事に軌道修正=悔い改める事をしているのです。