神の言葉=声にだけ意識を向けて | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ダービーは律法<トラー=神の教え=婚姻契約>は良い人を祝福し、恵は悪い人を救うと言いました。これ聖書とどこが合っていてどこが違いますか?

悪い人?ヘブライ語に直すと、神の言葉=本来の性質からズレた

罪のことですよね。そうすると、10000%全人類どの時代も

どの人種も、皆神の中なら外に飛び出して別の場所に閉じ込められた人です。だから100%どの時代の人にももれなく神は恵で同じイエシュア=救い=子羊の贖いの血の代価を与えているのです。

そして義とされて神との関係に入った人たちが神の教え=婚姻契約を与えられたのです。神との関係に入った事実の無い人に与えられたのではありません。そして神の契約をガードして生きたら命の実態、祝福を与えられると神が言われたのです。

この意味、よ〜〜〜〜く聖書の記述から学び、考える必要があるのです。それらしく分かった様でちゃんと学ばないと分からない

からです。

トラーは、神の恵みで義とされる人が生きる道であり、イエシュアが教えて生きた生き方が書かれていると言う正しい意味に直して考えます。

ダービーが言いたいのは、2000年以降は律法=神の教えが

廃れて、怒りの神が恵みの神に変化し、初めて恵が罪人を祝福しましたと言いたいのです。以前は神のトラーを行う事、人間の努力により義、祝福を獲得していたが、今は神の言葉を生きなくても恵、祝福を受けると言っているのですが、それは聖書の語る事と全く異なります。そしてこの考えにもう一つの問題点があるのです。

神の教えを今は生きる必要はないと言うのは、恵と神の教えを

切り離している思想であり、そして、人が神の教えから離れて

好き勝手に何でもやって祝福されると言う事はないと言う事を

理解しないとならないからです。そんな事はどう考えても変だと普通に理解出来ないとならないのです。

 

神の祝福と聞くと、ご利益と直結して考えるでしょうけれど、

祝福を失うとは何だと思いますか?最も人にアピールしない、

”神との親しい関係”です。ご利益主義、繁栄主義を考えれば、

この世の中は悪を働く人がずっと古代から世界の富の殆どを牛耳っているでしょう?

その状態は神が彼らを祝福しているからですか?神は私達子らが神の意図通りに生きる時、物乞いする様な状態にはならないと

書いてあります。必要の全てを満たしてくださる。

そして悪を働きながら一時期は繁栄したとしても、必ずその帝国人々はことごとく全て崩壊して来たのです。

悪者は天のみ国を相続しないとあります。墓穴掘っているだけ。

しかも人として麗しい生き方が出来ないほど惨めな事はないのです。神の似姿を生きれる事こそ神と直結する祝福なのに。

 

詩篇1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。

1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

箴言12:3 人は悪をもって身を堅く立てることはできず、正しい人の根はゆるがない。

 

神はどの時代にも恵みの神であり、時代ごとに贖い救いの方法や、祝福に関しての契約の約束を変更していません。2000年前に急にイスラエルの神は恵みの神に変身したのではありません。永遠から永遠に恵みの神。恵によりエデンの園の最初から

イエシュアの贖いの血で人々に新しい人=神の元に取り戻す実態を与え続けているのです。

全ての人100%もれなく、エデンの園=神の中から外に飛び出し、神と隔った場所に閉じ込められました。そして、神の恵み=子羊の購の血の代価により、隔たった場所から、神の元に神が

連れ戻して下さったのです。自分で努力して神を探したのではない。人生に起きる出来事の全てを通して、神の元に来る道を神が備えて下さっていたのです。それが恵です。受け取るのに値する

何もしていないのに一方的に与えられた〜それが恵の定義だからです。

更にダービーの思想は聖書とはズレた解説をし続けています。

出エジプト19:5

それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、
わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからで
ある。
はっきり書いています。もしあなたが〜神の声=神の契約=トラー=モーセの五書に書かれた教えをガードし生きるならば、生きたいと願うならば、その条件が理解出来れば、あなたは全ての民に勝る私の宝となる!
どう言う意味でしょう。宝とはセグラ(王の最も大事な片時も肌見離さない宝、戦利品の中で一番価値ある宝)その宝の姿に留まるには、神の性質通りを生きて下さい!と神は言われるのです。あたりまでしょう。とある国の王族メンバーは王族に相応しくない好き勝手な振る舞いをし、犯罪にまで手を染めている、そんな生き方をする場合ロイヤルファミリーのメンバーの生き方に反している、称号剥奪される。それと同じです。好き勝手以前の肉のまま、異教の神々の教え、生き方、慣わしに染まりながら、片足突っ込みながら、同時に神の国の聖なる民に留まる事は出来ないと神が教えているのです。
ダービーは律法は、祝福を努力で得る様に教えると解説しています。律法ではなく、トラー=神から与えられた婚姻契約。
このモーセの婚姻契約は、最初アヴラハムの契約=信仰により
義とされた人達のみに与えられている、神との関係の根拠、証拠土台とするものなのです。これに気が付いて下さい。
古代中近東の契約に付いて理解する必要があるのです。

アヴラハムの契約は無条件譲渡=だから、転けたからと言って

神の国の一員=義とされている事実を剥奪されないのです。
でも、神の家に住まう花嫁は、神の伝える通りを生きたら、
祝福があると神が言われたのです。条件付きです。そして、神の国に生きて、勝手な振る舞い、違反をし聖別を汚し、神の言う事を無視し、自分を他の人を傷つける様な事をすれば、蚊帳の外に追い出されます!詰まり、神との関係に隔たりができ人間関係にも亀裂ができ、神との関係の喜びも薄れ、顔と顔を直接合わせる歓喜も消えて行くと言う事です。
婚姻契約は条件付き契約です。人が神の教える事に違反するならば、あなたにはそれ相当の刈り取る結末が及びますと言う事です当たり前でしょう?日本に住んだら日本国憲法に沿って、そして
地域に住むなら、地域のルールに沿ってみんな生きているでしょう?なんでもありなんてないのです。神の国=聖なる民、祭司の
国の国民は、神が伝える聖なる民=聖徒の生き方がある!と
伝えている、シンプルな事実なのです。
普通に考えて下さい。子育てする親が子供が何しても、叱らない人生を生きる日々を生きる中で何も大事な事を教えない、訓練しない、なんでも自由にさせる。それって自分の子として取り扱わない実に愛のない無責任な甘い親、親失格ですよね。それと同じです。その家の子は、その家に相応しい生き方を親から教えられるのです。神は神の子らとなった人達を神の子ららしく育てるために訓練すると書いてあるでしょう?どうして、肉にアピールする様な、何しても良い、自分の確信、判断が今は神の言葉に勝るなどと言う反聖書的思想、神は何しても何も言わない、無関心などと考えるのでしょうか?そう言うイエシュアを考えているなら、それはその人の想像の脳内イエシュアであり、聖書に記されているイエシュア=イスラエルの神とは異なる神像を空想して
信じているだけなのです。
この違い、モーセの五書を読んで、イスラエルの歴史を読んで
理解しないとならない点です。イスラエルが神のトラーに違反してもイスラエルと言う国は神はイスラエルから剥奪されません。アヴラハムに与えた契約は無条件譲渡、契約は変えないからです。その中にはイスラエルの国を与えると言う約束も含まれているからです。
イスラエルが違反しても1000年近く神は何もジャッジを下しませんでした。忍耐深い神だからです。
でもイスラエルが神の婚姻契約に反して、シャバットを汚し、汚れた動物を食べ、他の異教徒の慣わしに従って生きて行ったらどうなりましたか?イスラエルから国が奪われたのではなく、イスラエルが国から吐き出された、追放されたのです。蚊帳の外に追い出されたのです。祝福から遠ざかってしまった。雨が降らず、実りが与えられず、敵が襲い、困窮する。エデンの園を追い出されたのと同じ。そこに住まうに相応しくない汚れた状態に陥ったからです。神の臨在も神殿から離れ、人が神から遠く離れてしまった。そしてイスラエルの国に生きて様々な祝福を受ける事を
失った事が書かれているでしょう。
 
この点が大事です。神の義は恵、無償のギフトとして、信仰により受け取るだけでした。でも生まれ変わった赤ちゃんは、その後
好き勝手に何も教えられないまま野生に放り出されて生きたら
オオカミ、野生動物の様になります。
新しく生まれ変わり、イエシュアの実態を内側に受けた人たちは
イエシュアが生きられた実態=神の性質通りの人の生き方=トラーに記された生き方をする、これをクリスチャンの世界では
覆い隠されて教えられていないのです。
アヴラハムの契約と、モーセの契約は1つに繋がり、コインの裏表です。アヴラハムの契約は無償譲渡です。でも神の子らにされた人は、神の教える通りを生きないならば、聖なる民=聖別された人達の生き方を学習し成長することは出来ません!と言うこと
こんな当たり前のことなのに、人の思想が邪魔して理解を阻まれているのです。
もしあなたが無償で高価な楽器を与えられて、その後その楽器を
正しく指導し教える人の元で学ばないまま自己流で学ぶ、又は
全く学ばないなら上達しないと分かるでしょう?それと全く同じ。新しい人の宝の持ち腐れになってはならないのです。
教師を捨てる〜神の言葉を捨てる事です。生きる基準を捨てるからです。神は親、教師であり、厳しい律法を与える人ではない。トラー=神の教えはこられの言葉に全部繋がっています。
トラー=教え、モレ=教師 ホレ=親、ヤレ=的に当たる道、
みんな同じトラーと同じ語源、ルート文字を共有しているのです。
乾いた大地を激しく降る雨で叩き割り農作物が植えられる準備をする仮庵の時期に降る秋の雨は、ヨレの雨です。のちの雨とは
過越の祭りの辺りに降る春のチョロチョロの雨=マルコシュです。
全部構成されている文字が共通している事を発音を聞くだけで
理解出来ると思います。全部は神の教え=トラーを中心に土台に
構成されている言葉です。
良い地に蒔かれた種とは、良い地=神の言葉を素直に吸収する
頭脳=柔らかい素直な頭脳の事です。神の生ける水をいっぱい吸って実り豊かにする大地として例え話で語られているのです。
種とは神の言葉です。神の言葉を”理解する頭脳”=良い地と言う意味で箴言にも記されているのです。
的外れ=ハター罪と訳されている言葉です。的を外すとは、神の言葉から外れる事=それが神の定義する罪なのです。
それなのに、ダービーは神の言葉など生きる必要ありません!
神の言葉から人の意識をそらせる反神の言葉思想を語っているのです。反モーセの五書を益々浸透させたのです。罪=ハター。
全部繋がっているのです。神の教えを捨てる行為は、知恵を失い道からズレ、神の前に罪を生きても全く気がつけない、聖別を汚す生き方が何かも分からないままになるのです。
 
新しくされた人は、今までの生き方ではない、神が伝える聖なる民の生き方〜神がエデンの園に造られた本物の人間=神の性質
通りの人間の生き方を再学習して下さいと神が言われました。
しかも、もしもあなたが神の宝、聖なる民として神との関係に
留まり続けたいならばと言う条件付き!しかも神の教えを生きたら、大いなる祝福があると言う条件付き。なぜそうなのか分かりますか?神の教えからズレて生きたままならば、危険信号が送られないと危ないからです。何しても祝福されるなら、それは危険な状態に陥っている事に気がつけないからです。
 
もし勝手な生き方をしたらそれは、神に属さない混ぜ物、偽物
神の似姿=イエシュアの性質である本来のあなたの性質とは異なる、別物を生きる事になりますよ!と言う事なのです。塩が塩気を失う状態になり、世の光ではなくなり、そして危険、神との隔たりの場所に飛び出しますよと言う事なのです。あなたは命=神の教えを選びなさい!と言われているのです。死=神の教えに反する事を選んで生きることです。でも選択権は人間に与えられています。
あなたの前に命と死を置いた。神は”あなたは命を選びなさい”
と言われた、その言葉を拒否するのかしないのかそれは個人の
選択次第なのです。