人間が神に成り代わる思想 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書は、聖書でのみ解釈定義するものであり、聖書を人の考えついた教理や思想に基づき、照らし合わせて解釈してはならないものです。その様な事をすれば、聖書に書いてある内容を逸脱して誤解する読み込みをして、聖書に書いてない事を聖書=神の言葉であると信じ込んで行くからです。クリスチャンの世界では、

聖書を人の思想=デイスペンセーション神学に照らし合わせて

読み込んでいるのです。

 

だから聖書には神の言葉は永遠に変わらないと至る所に書いて

あるのに、マルキオンやクリソストムや、その他諸々1世紀後半以降から出現した反モーセの五書を語る様々な西洋教父たち、

そして19世紀のダービー、ダービーの反聖書思想、そして現在に至るまで、神の言葉を変化するものであると聖書とは真逆な思想、誤りの思想に人々を導き、神の言葉が変化したなどと、聖書とは異なる教えを言い続けてもその嘘、矛盾に聖書の記述から

読み取れない、気が付けなくなっているのです。

 

大衆が、皆がそう言うから聖書の事実ではないのに、神の言葉が昇天以降変化進化したと信じているだけなのです。進化論が嘘なのに、神の造られた世界は45億年の古さなどではないのに、

科学者権威と言われる人達が勝手に言っている仮説=嘘を一般人

大衆が本当だと信じ込まされているのと全く同じです。

 

スコッフィールドの聖書を見ると、聖書のページ全てに、彼の

思想が半分記されているのです。そして、クリスチャンの世界で

語られている教えは、ダービー思想で書かれています。古代の人々は律法により義とされていた、今は恵の時代で律法を生きる事ではないとダービー思想が書かれていますが、聖書には、永遠から永遠に同じ救い、永遠から永遠に恵深く、聖霊は人の内側に住み、許しとまこと、許しに富み、変化しない、神の言葉は永遠に固く立つと神が神の性質を紹介しています。

 

エデンの園から今に至るまで、未来も同様に、イエシュア =救いの方法は1つで、福音も1つ。イエシュアを通して以外誰一人として父の元に来る事は出来ないとはっきり最初から最後まで

同じ救い=1つの義の道=1つの神の教えしか書かれていないのです。誰一人神の言葉を生きて義とされない!と書かれているのに、ダービーは神が言ってもいない思想を語りました。

 

ダービーは信仰による義とは、アヴラハムに与えられた信仰義人契約である事を聖書全体が語っている事実に全く気が付いていない、知らない人だったのです。

それだけではなくて、聖書を人の思想に基づいて考え、解説すると、聖書、神の言葉、意図とは全く関係のない、ありとあらゆる人の発想、思想の聖書解釈を編み出し続ける事が出来るのです

 

それがダービーが考え出した様な思想、それが20世紀のアメリカの神学校、教師達の思索を聖書の事実、記述から益々引き離し

神の言葉に根付いてしっかり生きる事を人々から引き離した原因でもあるのです。その結果が、クリスチャンの間にはびこる今の教え、今の状態、人の確信により神の言葉を人間が仕分けて判断すれば良い=LGBT OKと罪=悪を善とクリスチャン牧師も主張する事に導いた要因です。

 

ローマ14:1 信仰の弱い者を受けいれなさい。

ただ、意見を批評するためであってはならない。

14:3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。

14:5 また、ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。

各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。

 

この箇所のパウロが語る意味を誤解して、人間が神の教えではない事でも、それぞれが確信を持った事を生きる自由、恵、聖霊

時代と言う説教を一般的に聞きますね。クリスチャンの語る教えの意味は、こうです。

神の言葉より人間の判断の方が今は勝る。人間は神より賢いのである。人は神の上に勝る権威がある。神の言葉を人間が変えて

良い。神が禁じている事も人間の確信に至る判断で、神の教えとは違う事を今は生きて良い。こう言う主張を人間がしていると

気が付いていますか???

どう言う意味だと思いますか?神の言葉を曲げて良いとは、人間が神に成り代わらない限り可能ではありません。人が神になれると言っている事に気が付いていますか?人間至上主義。

事実、現実にそう実践していますよね!?気が付いていますか?

誰が神の教えを曲げ、神の聖日を別日で良い、変更になったと

言ったのですか?異邦人、ローマでしょう?神ではない。

わたしの安息日=第7日目は永遠に祝われる神が人に与えた記念日。契約神との関係にある印として与えたとあるのです。

どれほど神のシャバットが重要なのか繰り返し書かれています。

エゼキエルの言葉、未来預言でも繰り返しシャバット=神の聖別された第7日目の祝い日の重要さを教えています。長いので

次の記事に貼ります。

神の教えは100%丸ごとどの場所も今も全てのイスラエルの神の子らに対して同じ教えであり、今も有効である、神の生きた言葉教えなのです。言葉=神と書いてあるからです。

詰まり、人間が神の言葉の権威の上に立つと言う事は、人間が神になる以外に可能では無い事に気が付いていますか?

恐ろしい解説、解釈なのです。神は人に神の言葉を退けて、

それぞれが確信を持つ事を今は自由に生きて良いなどと1度も

そんな馬鹿げた危険な事を教えてなどいません。

 

この箇所、何が書かれているのでしょうか?神の教えではなく、

人の”意見”に関してとはっきり書かれて、人の意見に対する人々が議論する事は避けなさいと書いてあるのでしょう?

神の言葉は、人の意見などではありません。神の言葉は神が人に伝える教え、インストラクションであり、人の教えは人が作った

人の仰せ、人の考えであり神の教えではありません。

神の言葉=教えを、人間が認める、却下する、その様な仕分けを

する事に人が異議申し立てして良いなどと書いてないでしょう?

恐ろしい思想なのです。人が神の言葉を勝手に仕分けて、否定

削除、拒否、別の教えの付け足しをする。神は何と人に教えて

いますか?神の言葉に付け足し差し引きするなかれ!

黙示録の最後にも警告されているでしょう。ヨハネは、預言の書

とはタナックを指して語っているのです!

黙示録 22:18 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、

神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。

22:19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、

神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。

 

ヨハネは申命記の神の言葉を土台に話しているのです。

申命記4:2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。

 
だから、パウロは神の言葉を人が勝手に仕分け、判定し、選んで
好きな通りに生きて良い、神が禁じたきよくない動物を食べ良い
とか、今は聖別の定義が崩壊し、どの日も神の記念日=呼び出し日=止まる日であるなどと言ってもいないのです。
レビ記23章、レビ記11章=神の教えのどの箇所も破る教えを
パウロは最初から話してなどいない事を理解すれば、ローマ14章のパウロの言葉を正しく理解出来るのです。

この箇所は神の教えに関して人が仕分ける話ではなく、それぞれが考えている事”意見”に付いてパウロが話しているのです。

その中に書かれている内容は、神の言葉に反する事を生きると言う話ではなく、神が許された中での生き方で、様々な生き方を

する人がいるから、その人がある事が大事だと思っていれば、

それを他人が批判する筋合いはないよと言っているのです。

 

それ以前に、パウロは1000%モーセの五書の教え、それは神の

教え=トラー全体に忠実に生きて、他者にも教えている!と言う

大前提を崩壊した人の思想の前提で聖書を解説している事に

クリスチャン達は、気が付いていないのです。

 

このローマ14章では、”人の意見”とはっきり書いてあります。

神の言葉は人の意見で仕分けると言ったダービーの嘘を信じる人には、人は今神の言葉を人間の判断で正しく仕分けて良い〜

これはダービーが小冊子を出版して非聖書的教えを浸透させましたが、聖書には、神は人に神の言葉を人が仕分けて、神の言葉と

反する事でも、それぞれが確信もてばそれを生きなさいなどと

天地がひっくり返ってもそんな事を神が言わないと言う事が聖書に書いてある事実に気が付かない人は、様々な創作、空想、人の

作り話を作成し続けているのです。

クリスチャンはヘブライ人でもなければ、モーセの五書=ヘブライの聖書に精通して1世紀当時の人が神の教えを理解していた様には聖書を読んでいません。

 

このローマ14章の箇所、背景が分かると理解しやすいです。

当時、断食をすると言う異邦人達がいたのです。週のどの日に

断食するのが良いか、効果あるとか、ある人はこの日が断食には有効な日で大事と思っていた。日本人の思想で言えば、先勝、

友引、先負、仏滅、大安、赤口そう言う日にこだわるでしょう?それは神の教えではないでしょう?人の意見。

 

伝統で語り継がれた迷信。でも、ある人はそう言う事にこだわるのです。それと同じだと思って下さい。神が指定している神が神の子らを呼び出している記念日、レビ記23章は永遠に代々祝われるわたしの記念日と神が人に伝えているでしょう?それが変更と考えるのは異教神の国に育った異教徒背景の思考回路だから

そう考えるのです。神が一度でも永遠と言ったら永遠なのです。

 

断食は神の教えではありません。断食すれば、霊的になるなどと言う教えなどありません。断食して神にゴリ押しするのですか?モーセの五書に断食せよと書かれていません。ある人はある理由で断食する。それだけです。

そうならば、人は神が造られた食べ物、食事と言う事をしないで、ヨガの人みたいに断食ばかりをすれば霊的になると言う事になりますが、それこそが律法主義的で、自分の行いで自分の霊性を高めよう〜と言う思想なのです。私たちは既に神の言葉とそして神に与えられた義=イエシュアの性質を身に帯びているのです。その性質を影らせる生き方をしていたら、曇るのです。

 

パウロは、神の聖日以外の日、人がどの様に選んで考えても良い
日の中での事を話しているのです。同じ箇所で並列されている
食べ物に関して話していますから、ある人はある日に断食するのが重要だと当時考えいたのです。それは神の教えではなく、人の
意見だから人の確信を持つ事を選んで生きれば良いとパウロは
言っているのです。神の言葉で禁じられている事を人が神の言葉に反する事をしても良いと考えるならしてもよい!などと書いてません。だからLGBTQもその人の性的傾向ならば、それを選んでも良いなどとクリスチャンが言うのです。神が禁じている事は
永遠に禁じている!と言う基本的な理解が丸でないから、人間が
神の言葉を変形する背信に気が付いていないのです。
そして、ある人は野菜しか食べない、それは色々理由があるでしょう。肉は、きよい動物=レビ記11章にある肉でも異邦人の
市場で売っていたのです。だから、どう言う経緯で売り場に出てきたのか分からないから、それらを買うのは嫌だと思う人は
野菜だけ食べれば無難だと思う。1コリンとの偶像に捧げた
肉と同じです。そして、ある人は体、健康、体質で野菜しか
食べないと考えているのかもしれない。でも菜食主義は神の教えではありません。ある人々は、グルテンミートと言う大豆ミートを食べて、菜食主義が聖書だと言うグループがいますが、それは
神の教えではないのです。でもその食生活をしたかったらしたい人がすれば良い。それを批判しないのです。でも菜食主義が
神の教えだなどと言う嘘には完全に抵抗します。聖書ではありません!と。
創世記の最初、エデンの園では、全部が説明されていないだけです。神は最初から人が食せるためのきよい動物を6日の間の創造の中で造られているからです。
神の言葉でしなさいと言う事をしないで良い、してはダメと言われる事をして良いなどとイエシュア、パウロ含め誰一人聖書では言ってなどいない事をまず理解している場合のみ、ローマ14章のパウロの解説を正しく理解出来ます。
 
その人がその日が大事だと思う普通の日の個人的に大事な日は、その人の考え、確信により取り扱うものだと教えているのです。この箇所をクリスチャンは、今はどの日も安息日、聖日、礼拝日と解説していますが、それはパウロの語る内容とはことごとく
違う教えです。
もし、神が永遠に祝われるべきわたしの記念日=レビ記23章の神が創造された記念日を人が勝手に、決めて仕分けて別物にして良いと言うならば、神の伝える聖別=神の目的の通りに分たれていると言う定義は消え、神は神の権限を人に明け渡して、神をやめます〜と言っている事になります。神は永遠と一度言われたらそれは永遠であり、永遠に祝われるわたしの記念日、シャバット、祭りはイスラエルの神との関係に入った契約が存在している印として与えたと神が人に伝えているのに、それがどうして歴史の途中で無効になるのでしょう?
神が永遠と言われて今は変更と言うならば、神は完全なる嘘つきとなります。
永遠を一時的、暫定的などと言う、聖書に書いてもない読み込みをしているのです。
そして、すべてのどうぶつがきよい〜どの日も聖日になったら、
神の聖別の定義は崩壊するのです。分かりますか?
白、黒2つあるから、区別ができるのです。全部が同じなら区別などなくなるからです。聖別とは、神の目的通りに分かたれていると言う意味です。だから区別がなくなったと言う場合、境界線がなくなる。男女の性別の境界線が無くなる、LTBTQと同じ思想なのです。
 
続く