1つの群れ、1つの契約書 1つの神 デイスペンセーション神学は人の思想 聖書ではない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ステパノは、モーセの五書に逆らう教えをしているのではないかと疑われ、議会に引き出されたのに、実はそこにいる人達こそが
神のトラーを正しく理解していなかったのです。
もし、タナック=モーセの五書、預言書を正しく理解していれば、地上に来られたイエシュアが約束のメシアであると、理解出来るからです。シメオンの様な残りの民は、イエシュアを待望し理解して待っていました。その他多くのユダヤ人もタナックに
記されたメシアを理解して待望していました。そう言う人たちが、当時イエシュア、イコールタナック=モーセの五書、預言書、諸書、に記されているメシアであると認識、理解し受け取れたのです。
そしてステパノの言葉をよ〜く考えて読めば、ステパノはモーセの五書、預言書を100%支持し、語っている事に気が付けます。福音書以降、特に使徒行伝以降は、新しい教えへの過渡期
変換する時期であると唱える、新約聖書学者M.テニーやデイスペンセーション神学、ダービーが唱える人間の教えを全部削除、一掃して聖書に書いてある事に忠実に読み直さないとなりません。
聖書にない隠された教え?作り話を元に聖書解説しては意味がないからです。
異邦人の世界の神学校では、聖書ではない人の考え付いた仮説
神学が教えられているからです。人の思想から聖書の解説をする事を学んだ教師が、一般人に聖書とは異なる聖書解釈、解説を
教えてしまっているのです。
使徒6ー7章をじっくり読んで、何が書いてあるのか考える必要があります。ステパノは、モーセの五書、預言書から全てを解説釈明しているのです。彼らの教科書は、モーセの五書、モーセを解説する預言書、諸書のみです。
 
もし、デイスペンセーション神学が主張する様にトラー=神の教えと恵みを対比、対立、敵対させる教えを、神の前に人に対して唱えるならそれが何を意味するか、ダービーは理解していないのです。
恵みと神の言葉が対立する?それこそステパノが受けた処刑と
同等の罪に問われます。そんな事、聖書には書いてありません。
神が伝えていない、神が禁じている神の言葉を差し引き、付け足しし、神の言葉を歪め破壊する罪=神の前に重い罪、神の言葉を曲げる歪める差し引き付け足す人の教えは、死に匹敵する罪で、タナックを理解するユダヤ人達は神の言葉を直撃否定する様な
教えは異端と分かります。
もちろん彼ら全て皆正しくトラーを理解していたのではない事を、イエシュアとの討論やこの議会での議論でも分かるのです。ステパノが石打ちの刑にあったのは神の言葉を塗り替え歪める
教えをしていると誤解されたからです。
 
ステパノは石打ち処刑される前にこう言ったのです
 
使徒7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられたトラー=婚姻契約=神の教えを受けたのに、それを守ることをしなかった」。
ステパノは、100%モーセの五書、預言書、諸書を語り、それらに反する教えなど信じてもないし、人にも伝えていませんでした。
ステパノの証言が、100%モーセの五書、預言書にマッチし
彼ら反対者=誤解者は微塵の反論の余地も残されていないほど
モーセの五書、預言書を正しく語って、でも自分達の考えとは
合わない事をステパノが言い、しかもトラーの通りだから、
物凄く悔しがりステパノを処刑したのです。酷。
当時エルサレムに居た人達は、ヘブライ語を使うユダヤ人、
ギリシャ語を使うユダヤ人が居ました。そして、ヘブライ語の
タナック=モーセの五書、預言書、諸書は、イエシュアが来られる約250年前の、紀元前3世紀(285-246 BC)にギリシャ語に
訳されました。
ステパノはギリシャ語の70人訳を知っており、群れ=エクレシアは、ヘブライ語のカハールである事を理解して話しています。
ステパノの頭の中には、教会=異邦人の新しい群れなる思想は
微塵にもありません!同じ1つの神の群れ=神の声に呼び出されて応答した人々=イエシュアの贖い救いを受けた、アダム迄遡る人種、時代に関わらず同じ救い、聖霊を受けた義とされる人々の1つの群れです。

注:異邦人=別の群れ=教会とは、聖書に実は1つも書かれていないものなのです。もちろん、教会など預言もされていないし、存在していない。

教会と言う造語、元の=群れ=カハール=エクレシア=神に呼び出された人々の群れ=1つの群れと言う言葉を反映しない言葉=教会を、元の言葉の意味通り正しく理解し、正しい言葉に置き換えて考え続けて下さい。

本来の言葉、創世記から使われている正しい翻訳に戻して考えて下さい。

教会と言う異邦人新単独グループの群れなどと言う、イスラエルとは別物の神の民の群れは聖書の中には存在していません。

日本人は日本人教会、単独だ〜と考えるでしょう?イスラエルの

神の家族は、世界中どこに居ても、1つの家族=カハール、エクレシア=群れ=会衆の一部であり<体は1つ、肢体はそれぞれある>、同じイスラエルの神に、イエシュアを通して贖われ、神の中に修復、引き戻され、神が提示する愛=婚姻契約を与えられ、神との関係はこの婚姻契約の上に成り立っていると神が教えているのです。契約の愛の命の姿を生きて、同じ記念日を祝うと聖書には書いてあるのです。

 

救いを受けて新しくされました〜神を信じます〜。神との関係が

モーセの五書=婚姻契約の上に成り立っていると言う事実に先ず

聖書から気が付かないとならないのです。救われた事は無条件!信仰により、永遠の中から屠られ完結されている子羊の血の贖いを受け取っただけです。でも救われたその後、聖なる民、神の

花嫁、祭司の国の一員になった人には、この天の国に生きる条件付きの契約書があるのです。ちゃんと書いてあるでしょう?

神との関係を生きるとは、神とそして神の子らの共同体の中に生きる責任が伴っているのです。

 

1ペテロ2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。

出エジプト19:5 それで、もし<条件付きです!!>あなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるで

あろう。全地はわたしの所有だからである。

 

わたしの契約=モーセのの契約=トラーに書かれた愛の生き方を

生きるならとはっきり神が伝え、同じ事をこの箇所を引用してペテロが説明しているのです。

 

聖なる国民、祭司の国〜世界へ地の塩、世の光の性質を失わない

神の最高の宝のままで神と関係を持ちたいと、もしあながた願うなら!神のトラーを生きて、神との関係に留まるならば、と言う条件付きの契約があるのです。神に贖い出されて救われたら何でもして良いよ〜自由の恵みのキリストの聖霊の律法とクリスチャンが言いながら、その本当の中身が実はモーセの五書であり、それ以外の神の教えを大幅に削除した教えを異邦人は生きるなどと神は1度も教えてなどいない事を丸で知らないまま、人の作った教えを信じているのです。モーセの五書とは別物の教えが異邦人クリスチャンに与えられたなどと解説していますが、それは

100%エラー、間違った聖書解説です。聖書にはモーセの五書以外の別の教えも別の契約もありません!又は契約をほぼ破棄、捨てる、異邦人用のスカスカ状態の骨抜き契約もありません!

ペテロは、出エジプト19:5−6に書かれている事、そして

モーセの五書に100%同意して書いている事実を考えて下さい。ペテロはトラーを解説しているのです。1つの契約書を生きると。

19:6 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。

神の提示した婚姻契約に生きる事を放棄する場合、祭司の国の

聖なる民の塩気、光を失う!と教えている事に気が付いて読んでみれば良いのです。

デイスペンセーション神学の様な教えが、人に神との関係を固く結ぶ、婚姻契約を破棄し、放棄し、無責任に勝手に生きる様に

教えているのです。そう言う言葉では言いませんが、こう言うでしょう。古い律法は、無用、無効、異邦人には終了、ユダヤ人だけ生きれば良いのだ〜 詰まり異邦人は婚姻契約の生き方を

学ばないまま、読まないまま、お手紙を捨てて、自分の考える

通りを生きよ〜と教えられているのです。

考えてみたら、神との関係を証明、根拠とするものは、この婚姻契約=モーセの五書に記された神の言葉以外にありません。

これは救われた人全てに与えられているものです。神のみ言葉にある約束を固く信じて唱えるならば、それらは全てモーセの五書に記されている教えであると気が付いていますか?そして、神は神の言葉を付け足し差し引き分解して仕分けて生きる様な事を人に教えるどころか、そう言う行為を神は完全に禁じているのです。

聖書に書いてあるのに、どうして分からないのか?それは聖書とは異なる異物の思想デイスペンセーション神学の様な教理を神の教えであるなどと信じているからです。詰まり祝福奪われてても全く何を奪われているのかさえ気が付いてないと言う事が起きているのです。

神が提示する生き方=契約の愛=はじめの愛=婚姻契約書に書かれた生き方、それは人は拒否する事は出来るのです。

あなたの前に命と死を置いた。あなたは命を選びなさいと言う

選択権が与えられているのです。神の教えを拒否する場合には

はっきり言ってろくな事が起きません!て言う事をイスラエルの歴史からも読み取れるのです。

しかもどうして神が提示する生き方を生きるのがそんなにも嫌だと思うのか?肉が妨害するからです。

救われた人々に与えられている契約は、条件付き契約なのです。

何を生きようとも、神との関係の度合いや内容が変わらないなどと考えていてはならないのです。神との関係を神が伝える通りに正しく育まないなら、それなりの結果がある事は人間関係の中でも理解できることです。

しかも人が、神が提示する関係の育み方を拒否するのですから。

神と最も近く、神の伝える通りの生き方、近づき方をする人達、神を愛する人には、神が約束している事が保証され祝福を喜び

味わう事が出来ますと言う事です。

好き勝手な生き方で、自分をコミュニテイの仲間を破壊し、

世界へイスラエルの神とは違う教えを伝えたら、そのまま神は

ずっっと放置して訂正しなければ、その人達はずれた方向に進んで行ってしまうのです。でも神は人がズレても即座に矯正しませんよね。罪、ズレた途端、上からが〜んとげんこつが飛んで来ないでしょう?のれんを押すがごとく、する〜と通れてしまう。

イスラエルなど、高き所=異教の神々の礼拝をして、1000年

近くも神はそのまま裁きを下さなかったでしょう。それ程忍耐

強く待つからです。今方向転換を神が行う最後の時代になっているのは明らかです。全てが真実、1つの神、1つの神の教え、

1つの神の家族に戻る時が着々と準備されているからです。

1つ家族が父の言う事に同意せず、勝手に違う生き方をして、

違う記念日を祝い、交わらない。そんな家族は分裂した、機能不全の家族だと分かりませんか?

神は神の子ら全員、同じ家の中で、同じ生き方をして、そして

同じ記念日を喜び祝う事を教えているのに。父の願いに反した

分裂を生きることが正義だと思っている。

 

異邦人はこれこれを生きて、別の宗教記念日を生きて、ユダヤ人は古い教え?を生きて、古い記念日を別々に祝い別々に生きる?

そんな事聖書のどこに書いてありますか?

聖書=タナックには、神が伝える契約の命の実態〜人の本質の詳細を生きると神が伝える教えの詳細が書かれていて、そして神の記念日、神が神の子ら全員を呼び出している記念日、神との関係にある印、証拠でもある記念日はレビ記23章に完全版記念日暦として記されています。これを読んだ事がない場合、何が神の記念日なのかも分からない、本当は知らない、この記念日をどう

祝うのか、祝った事のない場合にも分からないのです。

 

異邦人の世界では、宗教の教え=デイスペンセーション神学=

置換神学、反モーセの五書〜人が作った教えは教えられても、

神の言葉、神の教えは書いてある通りの意味では教えられていないからです。

事実、1世紀の異邦人イエシュア信者は、ユダヤ人の群れ=当時はパリサイ派が主流、大衆でしたから、パリサイ派の群れの中に異邦人が加わり、ユダヤ人の群れ、シナゴグでシャバット=第七日目に集い、トラーを学んでいた、それが事実です。

 

2世紀以降、異邦人グループが、ローマによる政治的迫害理由、そして、西洋人が編み出した非聖書的教え=神の言葉を否定、

削除、無効とする教えを異邦人が編み出して、人が作った宗教の教えに完全に方向転換し、ユダヤ人の群れ、ユダヤ人トラー教師達、リーダー達から完全決裂し、西洋宗教の教えに流れて行ったのです。

今でも同じく、聖書に何が書かれているのか本当の意味を知らないならば、教師〜人が作った教えを聖書と勘違いして信じるのは当然、しかも手元に聖書など個人個人は持てない読めない時代。

だから、異邦人教会と言う、新しいグループが出現したと思い込むのですが、それは、預言されている通りです。異邦人にも同じ契約=トラーが伝えられイエシュアを信じる人達が増えただけです。

でも異邦人は、イエシュアを信じた後の生き方が、神の婚姻契約を削除、放棄する教えを教えられてしまったのです。それは聖書ではない教えであり、最後に同じ婚姻契約に戻る、元に戻るのです。

それがエレミヤ31章の新しい〜再更新された契約=モーセの

五書が、割礼のある皆の頭脳に腹に刻まれ神の教えを理解して生きると預言されている、ユダの家とイスラエルの家に与えられる

同じモーセの五書=婚姻契約であると書かれているのです。

 

 

続く