深掘りして検索すべき誤解されている箇所 使徒10章 ペテロが見た幻の意味は? | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

福音書以降、モーセの五書の教えは終わりになった!!!と

異邦人クリスチャンの間では定番になっている思想、教理、教え

が聖書の神の言葉を追いやって存在しています。

聖書を書いてある意味通りに読み取っていない。例えば使徒10章の様な箇所は簡単に誤解されて解説されている箇所でもあります。

聖書解釈の大前提を思い出して下さい。聖書は元の意味が損なわれないまま互いに完全に調和して保存されているものであり、

神の言葉が互いに矛盾したり敵対し合ったり、無効にされる様な教えは聖書には存在していない!と言う神が伝える永遠の真実、永遠普遍の神の言葉である!と言う事実からだけ、聖書を読み

続ける訓練が必要なのです。

 

さて、使徒10章でペテロの見た幻はモーセの五書に記された

教えの知識が無い人に取っては簡単に誤解する箇所でもあるのでしょう。

この箇所をクリスチャンの世界では一般的に何と解説しているのでしょうか?

使徒10章は、神ご自身が今までの”食規定”を撤廃した事が書かれていますと解説してしまっているのです。その理由は、時満ちて異邦人の世界にも神の教えを伝えるために、異邦人を受け入れやすくするために儀式の規制=神の教えを撤廃する必要があると神が考えたのであるなどと解説しています。

この思考回路、異邦人的異教徒思考回路そのものなのです。

神の言葉の方を人間の考えで平気で曲げる思考回路。

神の言葉が絶対と分からない人の思想。日本に伝道に来たザビエルと同じ思考回路で語っています。

日本は当時仏教が一般的であったので、仏教徒により良く受け

入れられるために、ザビエルは、カトリック教イエズス会の教えを、”天竺教”と言う仏教の一派ですと日本人に紹介したのです。

 

神は人間がやる様に、神の言葉をご自身で曲げて、変更した教えを人に伝える事などしません!と言う事が分からない異邦人には神の考えている事など見えないと言う事なのです。

神の言葉は完全で変更不可!

 

ペテロが見せられた幻は、神がペテロにカシュルート(コーシャ法)のトラーで教えられた食規定の基準を無視し、神がトラーで禁じていたものを食べ始めるよう意図されたことを意味すると

異邦人の教えではそう解釈、解説されています。

 

使徒10章を上辺だけさらっと読むとその様な事が書いてあると

伝統的な解釈はそう解説していますね。

 

使徒10:10 彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。

そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。

10:11 すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、

四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。

10:12 その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。

10:13 そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。

10:14 ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは

今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことが

ありません」。

10:15 すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。

 

ペテロは天から大きな布の中に入れられた様々な動物が降りてきて、神が教えられた通りに、きよくない動物など食べた事が

ありません!と言います。

しかし、多くのクリスチャン解説者はこの箇所の理解は混乱なく

容易に解説出来ると考えているのです。 クリスチャンはこの箇所でペテロに見せられた神の幻が何を意味するのかをよく知って

いると考えて解説いるのです。

汚れた動物は現在では食用として神から許可されていますと考えているからです。 確かに、マルコ7:19でギリシャ語原典文章には無い人が勝手に後から挿入した「イエスはすべてのものを清めてくださった」と言う付け足し文章を根拠にして、汚れた動物はもういませんとクリスチャンは言っているのです。

ここで2つの間違いは明らかです。

1つは、そんな事マルコ7:19にはギリシャ語原典文には書かれていません!人が勝手に書いて挿入した文章!2つ目は、神=イエシュアはトラー=モーセの五書に反するきよくない動物は

今は食していいなどと天地がひっくり返っても言う訳ないからです。神は嘘偽りを言う事が出来ないと人に伝えているからです。

 

もしも神がその様に言うならば、聖書は最初から全部書き直して、別のシナリオ、教えに全とっかえしない限り矛盾してしまうからです。神の言葉は永遠不変!完全!と言う言葉を一掃して、神の言葉は不完全!途中で変化すると書き換えないとならないのです。

きよい動物、きよくない動物を通して、聖別の意味を定義し、

そして神の宮=天にある神の宮、神殿に住まう人達、異教神の

世界から分かたれている存在である事を神が様々な事を通して

教えているのに、聖別を破る、破壊する教えは、神の教えが矛盾し不明になる事を意味しているからです。そんな事を言うならば、未来イエシュアが戻られてエルサレムの神の家から統治する時、過越や仮庵の祭りで、神の宮の祭壇に”豚”を捧げるのです〜などと言っている事と同じです。ゼカリヤ14章。

 

神はイザヤ書の未来預言でもはっきりそれらの動物がどれほどいまわしい事か人に伝えているのに、全く辻褄合わない教えのオンパレードなのです。未来預言下矢印

イザヤ65:4 墓場にすわり、ひそかな所にやどり、豚の肉を食らい、憎むべき物の、あつものをその器に盛って、

66:3 牛をほふる者は、また人を殺す者、小羊を犠牲とする者はまた犬をくびり殺す者、供え物をささげる者は、また豚の血を
ささげる者、乳香を記念としてささげる者は、また偶像をほめる者である。これはおのが道を選び、その心は憎むべきものを楽しむ。
 66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。

神の言葉は無効!と言う耳、頭脳には何も響かない神の永遠普遍の言葉になるのです。

一般のクリスチャンの中で定着した思想ですが、F.ブルースが

こう解説しています。彼はイギリスの福音主義の新約学者であり考古学誌、神学誌、聖書注解の編集に携わった、プリマス・ブレズレンの思想を信奉する、詰まりは、ダービーのデイスペンセーション神学と言う創作神学を土台に聖書を読み込みする解説です。その様な聖書解説はこの様な思想持つ学者の教えから出ているもので、遡ればその様な聖書とは異なる思想を語る事は

1世紀後半から、西洋教父達によりずっと行われて継承されて来た教えなのです。下矢印

 

これらの[食物]法は、マルコによるイエスの教えに暗黙のうちに含まれていたのと同様に、儀式的な適用においては明示的に廃止されました。 7:14ff.6

<人が解説しても、これは神から出た教えでもなんでもない>

でもマルコ7:19には、”全ての食べ物はきよい”なんて文章は

本当はギリシャ原典聖書には記されてなどいない文章なのです。

この事実からして聖書翻訳と解釈に違反がある!と言う事実があるのです。聖書に書いてもない事を土台にイエシュアがこう言われた〜と言うのは無意味であり嘘偽りです!こう言う事実が明らかにされて、正直に聖書を読み直す異邦人も今やたくさん居るのです。

聖書だけに戻り、注意深く検証し続ける人は、聖霊が聖霊が記した神の言葉の真実を聖書から明らかにして下さるのです。

それをしないで、人の教え=伝統の教えの解説=神の言葉は廃れた〜と言う教えを信じる場合には、聖書に書いてある事実が読み取れないまま、半分真実、半分嘘が混じった神の言葉を曲げた

エデンの園の蛇の声を聞き続けてしまうのです。

 

人が勝手に付け足した文章を神の言葉であると信じてはダメなのです。神の教え=トラーは廃れた〜と言う思想を持つ人が勝手に聖書に無い文章を付け加えて自分の思想を聖書に語らせている人に偽情報〜フェーク情報を伝える反則をしているのです。

使徒10章の本文を詳しく読むと、このクリスチャンの間の伝統的な解釈について多くの疑問が生じるのです。

もしイエシュアがペテロ達に食規定が廃止されたと教えていたとするならば、(あり得ませんが)なぜペテロはこの幻に当惑しているのでしょうか?イエシュアにきよくない動物を食べても良いと教えられたのでしょう?なのにどうしてペテロは戸惑うの?いやそんな事イエシュアに教えられていないから戸惑ったのです!

 

第二に、ペテロがコルネリオの家に行ったとき、非コーシャ食品=きよくない動物をペテロは食べましたか?

第三に、幻の中でこのシートには、様々な動物とあらゆる種類の四本足の生き物が含まれていた場合、これは、その一部が

”きよい動物”であったことを意味します。

そして最後に、ペテロが後にその幻を他の人に語るとき(使徒11章)、ペテロは決して食べ物の問題=食規定が変更になった話などを持ち出すことはなく、ただその幻が非ユダヤ人であるコルネリオの家に行くことを教えているものとして解釈している事だけが記されています。

 

実際、ペテロははっきりと、自分が幻を通して神に「示された」事は、誰も=異邦人も汚れていると呼ばれるべきではないと言うことであると言っています。(使徒 10:28)。

 ペテロがたどり着いた結論はきよくない食べ物が廃止になったなどと言う事とは何の関係もなく、すべては”人間”に関する事を

神から教えられて理解していたものなのです。

異邦人=汚れている、ユダヤ人だけ=きよい!などと言う思考回路は捨てないとならない!神にきよめられた人はどんな人種でも

神の前にきよく、神に聖別された人達である!と言う教訓です。

さらに、使徒10章を注意深く読むと、他の重要な疑問が生じて来るのです。

例えば、ペテロに「屠って食べなさい」と神が命じて使われた

言葉使いは、通常、神殿の祭壇に捧げるコルバン=犠牲の動物を屠殺するために使われる特別な儀式用語なのです。

この言葉自体もそうですが、レビ記に記されたコルバンに関しても、理解が無い場合は、翻訳と文章の上辺だけ読んでも、ここに何が記されて何が起こっているのか気がつく事が出来ないのです。日常の食用に単に屠って食べよ!と言う言葉ではない。

もし神がペテロに、布の中の動物の1匹を取り、和解のいけにえとして犠牲にするよう命じているとしたら、つまりそれは屠られた動物の肉を食べることを意味しているので、これは状況全体にまったく新しい光を投げかけるのです。

 

したがって、ペテロが応答するとき、彼は単に汚れたものを食べたことがないと言っているだけでなく、普通=コモン〜普段に食する動物ではない、コルバンとして捧げる動物は、特別な規定を通って祭司により選別、判定されたものではならないと言う、

トラーに記された神の教えの知識が無いと、この様な箇所の真髄、意味は正しく読み取れないのです

だから、モーセの五書を知らないなら、聖書を理解する大事な重要な知識が欠落したまま、福音書を字面、更には翻訳だけ読んで

自分の世界で想像して読んでいるだけなので、書かれている意味

の真相が見えない、分からないと言うのはそう言う事なのです。

 

動物は、きよい動物でも、儀式上きよくない動物があるのです。

儀式として祭壇に捧げるにはふさわしくない、欠陥がある、

きよくない動物でもそれらの動物は、儀式以外の普通の食用としてはきよい食せる動物なのです。

 

欠陥があるのか無いか、その動物がどんな年齢なのか、その他

諸々コルバンにより神の規定にあった動物なのかどうか、

その動物がコルバンとして儀式的に相応しい状態の動物なのか判定をするのはレビ族の祭司であり、それが無いままどこから来たのか分からない普通の動物を、儀式、コルバンとして神の前に

捧げられるものではない”普通”の動物=儀式上きよく無いと考えるのは当然なのです。それが神の教えだからです。

 

儀式上のきよいと言う言葉と、(κοινός、コイノス) が使用されている意味は、儀式的に不浄を意味しています。ペテロは

普通=コイノスである動物は、儀式上コルバンとして相応しく

無い動物!と言っているのです。

これらのことを念頭に置くと、私たちが今日の自分達の中にある知識に照らし合わせる一般的な聖書箇所の読み方を超えて、

1世紀当時のユダヤ人の世界、背景に照らして聖書箇所を理解しようと努めなければならないことは明らかなのです。

だから注意深い正しい聖書の学びが不可欠なのです。

 

続く