毎日何も変わらない平穏無事な生活がずっと続いたり、又は過渡期で何か新しい事が起きたり、方向転換が起きたり、又は予期せぬ出来事が舞い込んで来たり、病気になったり、財産を失ったり、大事な家族が亡くなったり、災害にあったり、事故、事件に巻き込まれたり、その他諸々の出来事を人はどれ1つとしてコントロールなど出来るものではないですね。
そして、唯一出来る事はそれらの出来事に対してどの様に対応するか、それが100%自分がコントロール出来る事です。
誰も明日の事を予想出来る人は一人もいないでしょう。
私自身未来を想像して、これこれこうなるだろうな〜と思っていた事の殆どが予想通りになっていません。笑
でも、これは私の想像するプランであって、アバのプランでは
なかったのだと後を振り返ると納得出来る事です。
イスラエルの荒野の旅、その40年の道のりが約束の地に入るための移動。神が共に居てたくさんの奇跡を体験し、日々の糧を
与えられ続けて、でも最初の世代は約束の地に入れなかった。
その理由?頭脳に割礼がないまま、肉の頭脳で神の見る世界を
全然学べなかった、これは衝撃的な教訓なのです。
問題が出たら呟き、疑い、喚き、エジプトに戻りたい!エジプトの方がまし!と言い続けたり、レエフェデイムで水が無い事件に遭遇すると神に助けを請い願うのではなく、つぶやく!
これ気が付くと普通にずっとやっている事なのです。
最後、アロンもモーセも約束の地に入れなかった理由は、神ご
自身を、その通りに人々に表さなかった事。詰まり選び出された
代表者はそれほど神ご自身をそっくりそのまま人々に表し伝え
生きる重大な責任を課せられていたのです。
大祭司の家系であるアロンは民がモーセに失望し、別の方法で神に拝もうとエジプトから持ち出した金の子牛でイスラエルの神を拝む事に同意してしまった事、その結果3000人が死んだ。
モーセは、岩に向かって命ぜよ!と神が言われたのに、岩を二回叩いてしまった事、この様なこと、神が言われた事とは異なる事をすると言うことは、神のみ名を汚す、空虚とする行為なのです。
神に言われた通りにしないで、自分の考えで神を表す事をする!これは宗教の世界では日常茶飯事に行われていることなのです。
だから神の言葉は廃れた!と言い、神の教えを捨て、神が創造された神ご自身の記念日を捨て去り、別物をやっているのです。
神のみ名をみだりに唱えるとは、”空虚”=神の実態を、神の性質とは異なる意味のない事で表し生きてしまう事、神の実態をそのまま伝えない教え、生き方その事を話しているものです。
私がヘブライ語の聖書を言語の中に書かれている意味通りに1つ1つ教えて下さる安全な教師達に出会い、トラーの学び出会ったのも、思わぬ人生の方向転換の道を歩んでしまった結果出会ったものでした。
心の奥底の願望=聖書には本当は何が書かれているのか知りたい!と言うものであったものが、どうやってそれが可能になるのか、理解できるのか、誰に聞いたら分かるのか全く不明でした。
日本語聖書を読んでいてもそれだけではそれ以上掘り出せず、
何が書いてあるのか字面では分かっても言語とそしてヘブライ
思想で書かれた多くの情報を教えられて初めて見えてくるものだらけで、当初は衝撃の連続でした。
私が考えていた神の言葉とは全く違う事がオリジナル聖書には
記されている!
それは、人の思想、人が考え付いた神学を取り除けば、神が語る
静かな真理の声は神の言葉の中に永遠に埋蔵されて今も語りかけてくるものだからです。
私がヘブライ語で記された聖書、モーセの五書、預言書、諸書
そして福音書以降が全部丸ごと1つで同じ教えが記されている事を言語で記された事実から学ぶ事に出会ったのは、16年近く前
です。
一口に説明出来ませんが、もちろん聖書を読んである事がらは
知っていても、神の言葉に対する意識、思想、言語の中に記されている深い意味や奥行き、広がり、私が想像していた翻訳聖書を
通して考える世界とは全く別物出会った衝撃はなんと表現したら
伝わるのだろうといつも考えてしまいます。
どんな分野でも同じなのですが、その世界を深く知らないと見えない事が多々あり、そこはエンドレスに広がって終わりがありません。神の造られた世界は永遠であり、神を知って行くには永遠の時が必要なほどエンドレス、タイムレス、永遠に神の素晴らしさの全部を人が理解など出来ないものだからです。
だから神ご自身である神の言葉を捨てる様に教える様な教えは
その教えする人自体が一体何を言っているのか全く気が付いて
いないからだと思います。人間が神の言葉のどの箇所でも否定し神の場所に立って神に成り代わって物申し始めると、神の伝える真理が見えなくなって行ってしまうからなのです。
神の言葉のどの箇所でも捨て去る行為は、神に今何を語られ、
教えられているのか全く見えなくなる!と言う事に気が付いたら良いのです。人の話を聞かない人は、その相手の言う事、意図が汲み取れない、それと全く同じ事をさせられているのです。
神の言葉を無用、廃れた律法、悪いもの古いもの、その様な概念は何を人にもたらしているかと言うと、”神に対する敵対心”
神の言葉をないがしろにする心、神の教えを捨て去る事が良い事であるなどと言うとんでもない危険以外の何物でもない!と言う事に気が付いた方が良いです。
詩篇の記者には、モーセの五書だけが彼らのテキスト=教科書でした。
いやモーセの五書の中に記された神の言葉=教えが完全版であり
それ以外の聖書のどの箇所も全てがモーセの五書を解説しているに過ぎないものなのです。つまり、神が居て、神の教えを見上げて全てを語っている、神の教え=モーセの五書に記された内容が
完全版!聖書はモーセの五書を指して全て語っているものだからです。
太古のユダヤ人達、現代でもそうですが、彼らはモーセの五書=神の教え、インストラクション=トラーをどの様に表現しているか、詩篇を読めば分かるでしょう。
異邦人が語る所の意識とは全く違うものです。
神の言葉は蜜の様に腹に甘くしたわしく麗しく神を求める永遠の願望を腹の底から湧き上がらせるものであると記しているのです。
救い主が地上に来られるまで人が救い主=イエシュアを知らなかったと考えているから、見えてこないのです。同じ福音!救いは1つ!と説明されている事を、タナックから理解すれば良いのです。太古の人、タナック=モーセの五書、預言書、諸書だけが
教科書でそれで全て十分、完全なる神の言葉教えなのです。
福音書以降は、最初の部分の後書き!であるだけなのです。
世界の流れを見ても、異邦人クリスチャンがオリジナルの聖書
イエシュアが教えられた教え、シャバットやショファーや神の祭りや、トラーなどその様な事さえ30年前には見聞きなど全く
しないものでした。
世界は創造主の計画通りに、元、オリジナルに戻る事を神が促している事は疑いのない事実であり、聖書に記された神の言葉を通しても伝えられている事です。
今ユダヤ人も1世紀以上に”救い主”イエシュアを求めて出会う
多くの人達がいるそうです。ユダヤ人が”イエシュア”に関して
ネット検索するなんて、余り聞いた事はありませんでした。
それと同じく、異邦人がイエシュアが教えられて生きられた純粋な神の言葉、教えに戻る!と言う事を切望し実際にそう生きようと言う軌道修正をする多くの人達がいるのです。
ヘブライ聖書の中に記された永遠、時代を超えたタイムレスの
真理、神の永遠不変の教えを神の言葉から発見して行くと、
神が教えられている事が1つの大きな絵、画像として繋がって
見えて来る事を発見します。
神の都上りの祭りを見ても、世界が最後に1つに修復される絵画的教えを表している事が見えてきます。
1つ神、1つ同じ教え、1つ家族に世界は戻る。。。
神の声に応答する人達は皆同じイスラエルの神の家族に加えられるからです。
イスラエルの辿った歴史を見ても、人は簡単に神が教える事からずれるものだと分かります。なんで?こんなに奇跡を見せられたのに、どうして忘れて違う神々や教えに走るの?と思うけど、
皆同じ事をしているものなのです。
それをイスラエルと言う民族が通った出来事を通して、神は世界に神の教えを教えているのです。
今移動中で、落ち着いて書きためた内容をまとめる時間がまちまちですが、出来る限り記事を書いてみたいと思っています。
これから、2020年あの流行病の騒動で全てがキャンセルになり、海外も行き来出来ずにいた家族の一大イベントあります。
昨日ワルシャワショパン空港で半年前ニューヨークに移った親しい知り合いとばったり出入り口ドアで会いました。
私たちの名前を呼んでくれていたのですが、なんか”幻聴?”と
家人は思ったらしく、最初は気が付きませんでした。
彼らも家族が集まるので戻って来たと言っていました。
英語ではFamily reunionと言いますが、どこかの空港で知り合いに会うと言うのは、幾度か経験しています。
世界中に人が生きていて、それぞれの場所に神が置かれているのでしょう。
落ち着きの無い移動生活ですが、記事が書ける時間があったら
書いてみたいと思います。
今はイタリアに滞在しています。日本から来る家族は、中国上空が軍事演習で飛べず、中継地点で18時間延滞し今日の夜中に
フライトでこちらに向かうと言っていました。
どこでもドアが欲しいと思ってしまいます。
続く
マルペンサ空港から市内への電車
日本の景色になんとなく似ている。イタリアに来たのは何十年ぶり?だろう。
広いスーパーの店内