マタイ13章でイエシュアが語られるたとえ話は天の国に付いて
の内容です。福音=トラー、預言書に書かれた人類の修復それらは、永遠の中から用意されているイエシュアを通して成された
完了の業を通してされるものです。新しくされた実態を受け取り上から生まれた人達は、全て同じ神の国=イスラエルと言う
1大家族に加えられると言う事実が聖書の最初から最後の同じ
テーマなのです。エデンから出てエデンに戻るが書かれている。
小さい始まり=イスラエルの家族がやがて終末の時にイスラエルの家族に加えられる人へと大きく広がり続けている事が書かれているのです。
パウロも同じことをローマの書簡で話しています。
9:6 しかし、神の言が無効になったというわけではない。
なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、
イスラエルの失われた羊がずっとイエシュアを拒絶し続ける状態にあるなら、そのまま失われたイスラエルの羊のままに留まる。
神の業を信じ受け取る人は異邦人でも同じイスラエルとされる。
毒麦の種とは、トラー、預言書に書かれたイエシュアに連なる事
からそれる事を説得し促す事であり、イエシュア=文字で書かれたトラーを生きる事を妨害する事も同時に毒麦の種の役割でもあるのです。
マタイ 5:19 それだから、これら=トラー=モーセの五書の最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
天の王国とは、モーセの五書に書かれた神の性質を生きる人達で構成され、その代表はイスラエルであると書かれています。
イスラエルと言う代表=長男を筆頭に全て神の婚姻契約を生きる事に同意する人が神の国に加えられるとずっと言っているのです。イエシュアの兄弟姉妹、母とは、神の教え=トラー=御心を聞いてその通りを行う人であると言うイエシュアの言葉に繋がるものです。ルカ8:19−20神を愛する人は神の言葉を生きる
と言う事にも繋がります。ヨハネの手紙1 4章
イエシュアが出現して教会と言う新しい別のグループが出現したと言うのは聖書の事実ではありません。教会と言う翻訳造語の
言葉の裏にある本当の言葉の意味は、カハール、エクレシアで
あり、創造の最初の最初から存在する神に呼び出された人の群れ集会と福音書以前の聖書では訳されている通り、その家族=群は1つしかない!福音書以降は別の翻訳言葉を使って、しかも元の言葉を全く反映しない創作用語を作り、あたかも別のグループ
出現を想像、連想させるその様な翻訳操作は毒麦の種の如く、
麦の成長を妨げてしまうものなのです。翻訳自体が本来の言葉の意味が見えないのに加え、本来の言葉を全く反映しない造語など
を使うなどと言うことはしてはならない事だったのです。
カハール、エクレシアとは、残りの民=聖徒達、古代から同じ
イエシュアの救いをアヴラハムと同様に発見し、信じ、受け取り
生きている人達の事で、クリスチャンと言うあだ名で呼ばない
だけで、残りの民、聖徒たちはどの時代にも存在して居たのです。オリーブの木、ローマ11そして、マタイ8:11−12
クリスチャン=教会=昇天以降初めて出現した新しいグループと
信じてしまうのです。
聖書を読む時に、特に福音書以降に書かれた内容は全てモーセの五書、預言書、諸書のみを指して話していると言う事実に気が付く必要があります。
毒麦の種と、パン種のたとえ話を考えると、1世紀後半から
蒔かれた毒麦の種とパン種とは人の思想、信仰に大きな影響を
与えているものである事実に繋がると思います。
神の教えとは違うもの=毒麦の種、悪い意味でのパン種は
確実に影響を与えている事からも分かります。
私は1世紀後半からモーセの五書を否定する教えを編み出した
西洋人の思想や神学だけを信じた始めから聞き続けて、それが
神の教えであると信じていました。
自分で聖書を読んでも、最初の70%と最後の30%の教えが
違うと教えられ続けて来たので、本気でその教えを信じて居ました。
1神は呪いの律法と罪とから救い出すためにジーザスをこの世に送られた。
2 ジーザスが来るまでの教えは全て仮の教えなので、ジーザスが来たらそれらの古い教えは終了した。神は人が生きる事が不可能な律法をイスラエルに与えた。そこから解放してくれたのだ。
律法に戻る生き方は神の恵みを捨てた生き方である。
3 聖書の最初の箇所は、最後の30%に導くための光、手引きであり、それらの役割は既に終わったので、ジーザスを信じる人はそれらの教えを生きる必要はなくなったのである。
4 神はジーザスが来るまで怒りの神であった。
ジーザスが地上に来て神の怒りは収まり、恵の神に変身した。
5 ジーザスが来てから初めて神の恵みが与えられる時代になった。
6 ジーザスが来る前の人達には救いはなかった。
7 又はジーザスが来る前の時代の人は動物の生贄で一時的な
罪の許しを得て居た。
8 ジーザスが来る前の人達は救い主を知らない、聖霊は人の内側に住まわれなかった。又は特別な人の内側だけに聖霊が住まわれて居た。
9 ジーザスが来られたので、神の創造された記念日、レビ記
23章に書かれた、シャバット、新月、過越、初穂、種無しパン
シャブオート、秋の祭り、ショーファーを鳴らす日、大贖罪日
仮庵の祭りは全て終わり、代わりに日曜日礼拝、クリスマス、
イースターを祝いなさいと神が言われて変更した。
この様な教えはパン種の教えなのです。神の永遠不変の真理、
教え、言葉を否定する教えだからです。これらの教えは聖書に
照らし合わせると全て”FALSE"間違いの教えであることは聖書に基づけば明らかです。これらの教え=パン種、毒麦の種を浸透させて、人々を神の言葉、教えから遠く遠く引き離し、人の教えが混ざった宗教をやらせることをしてしまっているのです。
神の教えと記念日を退けて、西洋人が作った教え、記念日を
異邦人クリスチャンが生きる様になったのは、その様な神の言葉を否定する教えを浸透させ、伝統で継承し続けて来たからです。
そして、異邦人がそれを伝統で継承しているから、パン種のパン
は膨れ上がり続け、毒麦はそのまま放置され育成されているだけ
です。本当に注意して、どうして神の言葉や教えを否定すること
拒否することが神の仰せであり、神の正義であると言う様な思考回路になっているのか?と考えないとならないのです。それは
全て畑に蒔かれた種、粉の中に浸透したパン種の問題なのです。
イエシュアが、語られたこの言葉は”強調” ”誇張”です。
神が創造した天と地は永遠に滅びないからです。
そして、最後には元の天と地の状態に再生されるだけ。
だから、天と地は永遠に消えません。もし消えると言うなら
あなたも私も全ての創造物も消えると言うことになってしまうのです。そんなことはあり得ない。聖書に書いてある事とは違う。神が創造された創造物は消えないからです。
だから、イエシュアがここで言われた事は、神のトラー=
モーセの五書=父の言葉の一点一画も永遠に同じで消え去らない!と言っていることを1世紀当時のユダヤ人なら理解出来るのに、異邦人には、神の言葉が消えた!と言う聖書とは全然違う
教えに変身させて、それを世界へ伝え続けてしまっているのです。神の言葉を見ていない、聞いていないと言う状態なのです。
マタイ5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラー=
トラー、預言書、諸書は、イエシュアが来られる前から
完成されて存在して、ユダヤ人は口頭でタナック=トラー、
預言書諸書を聞いて知っているのです。死海文書は1947年に
クムランで発見されましたが、それらは紀元前3世紀に書かれたものだそうです。現代にあるヘブライ語の聖書の中身と紀元前3年に書かれたヘブライ語の聖書とでは全く同じ、違う点は数カ所
詰まり意味が同じでもスペルが違うと言う様な極小の違いだけなのです。翻訳聖書とヘブライ語聖書の性質の違いでもあります。
ユダヤ人は神に選ばれ、神の言葉を変えずに神の言葉に正確に
忠実に記し続け、保存し続ける役割を与えられた事でも分かります。簡単に神の言葉を変えたり、変形させても良いと考える人の手に神は神の言葉を渡さず、確実に神の意図通りを保管し継承する役割を与えたのです。
そうでなければ、純粋な神の言葉ではなく、人の教えが混じった
不完全な教え=宗教が伝承されてしまうからです。
死海文書より古いものが発見され、ケテフ ヒンノム刻印は
7世紀のもので、民数記6:24−26 が書かれた巻物です。
そして、先月3月24日に考古学団体により、エバル山で発掘されたダブレットが出て来ました。申命記27章、
ヨシュア記8章に書かれた、エバル山と、ゲルジム山に立ち、
呪いと祝福のどちらかを選ぶと言う事が書いてあるものです。
それらは3200年前のものだそうです。
神の言葉の正確さは神の言葉が証明するのです。
福音書以降に聖書と書いてあったらそれら聖書とは全て
タナックのみを指して話していると言う事実があるのです。
イエシュアが神の言葉、教えをタナックからのみ教えた記録が
書かれています。