マタイ13章 収穫 最後の審判 神の教えを退ける人が刈り取る結末が書かれている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書のどの箇所も、モーセの五書をすべての教えの土台として

書かれています。聖書は1つとして繋がり同じテーマ、同じ教えが貫かれ、聖書の箇所の最初と最後では違う教えや、敵対し合う教え、神の言葉が途中で変化したり、変更したり、消滅するものではないのです。

そして、神と人との関係は、モーセの五書に書かれた婚姻契約の

詳細に基づいてのみ関係が成り立つと言う事を神が人に伝えている事実があります。神との関係を生きる、人が誰で、人はどんな生き方をする様に造られたのかの詳細が書かれているのがモーセの五書です。この神の教え=インストラクション=手引きを人が捨てたら、神が伝えている人の生き方がぼやけて、不明のままになってしまうのです。だからモーセの五書は終わり!と言うならば、神の言葉を捨てた部分、端折った部分を、人の創作した教えで埋めてしまうのです。それか空洞。

それが今の世界の現状なのです。

モーセの五書に書かれた婚姻契約の詳細は、神により”法的に

定められ保護されている”ものなのです。それは、異教の神々の

世界とは全く違うものです。異教の神々の性質は所詮悪霊です。

異教の神々は人に永遠不変の愛、約束や保証などしません。

神が人との関係を法的に定めている、それに加わる人達には、

変わらぬ約束を確定し保証していると言う事です。

 

こう言うと分かると思います。世間では婚姻は紙切れ一枚と

言いますが、婚姻関係は合法的、法に定められ保証される事実があるのです。責任を伴う関係に入っている事です。婚姻関係に

入るとは、婚姻を結ぶ相手に尊重、敬意、変わらぬ愛を与え続ける関係を続ける事を表明し誓うものです。

だから、事実婚、一緒に暮らしているだけでは法的根拠が何も

無いと言う事です。関係を証明する根拠を持たないと言う事。

何かあっても法的に相手に繋がれていないので、その関係を放棄する事が出来てしまうと言う事です。無責任な関係の持ち方です。相手に忠誠、責任、義務を果たすと言う献身の表明が法的に根拠がない状態と言う事です。事実婚でも色々なものが生じますが、それは神がデザインした婚姻の形態ではないのです。

 

神との関わりを表す、神が人との関係を結んでいる根拠は、

モーセの五書=婚姻契約書があるからです。

その事実から離れないで考えないとなりません。

だから、神の婚姻契約に反した勝手な生き方をする場合、

不貞を働く場合、不法=トラー無しの生き方をするならば、

その場合には、刈り取る結末があると神は教えているのです。

なぜなら、婚姻関係に入った後、嫁ぎ先に家の生き方をしないで

夫が伝える生き方を生きない、自分勝手な生き方をとする事は、夫に忠実では無い生き方であり、婚姻関係を無視する生き方なので、それを神は姦淫と呼んでいるのです。

自分勝手な定義の生き方の全て、偶像、別の宗教の教えが混ざった生き方をする事は聖書では姦淫に匹敵する行為なのです。

 

私達神に創造された人間=神の似姿に造られた人は、神の似姿

通りを生きるのが当然であり、一番理に叶う事です。

でも人は、自分定義の様々な教え、自分定義の聖別、自分定義の

生き方、自分定義の罪の定義etc etc 様々な教えを編み出し続け神の言葉を退けてしまっているのです。神の言葉を退け、

人が編み出した教えが正当であると考えているのです。

いや人が編み出した教え=神の言葉は呪いの律法で無用と言う

教えを神がしたのだと完全に勘違いしているからです。詰まり

聖書に書いてない教え、1世紀後半から異邦人が編み出し創作

し続けた教えが神の教え=聖書であると信じている。

聖書に書いてない教えを信じて実践しているのです。

 

もし人が神の言葉、神の伝える教えを退けて違う教えを主張するならば、それはイスラエルの神を正しく他者へ伝えてはいない、

イスラエルの神を歪めて人に伝えている、地の塩、世の光の

役割が、塩気のない塩、暗い淀んだ光に変わってしまうのです。別の宗教=人の教えが混ざった教えを伝えてもそれはイスラエルの神に属する純粋な神の言葉、教えではないのです。

 

人が創作した教えの解説を聞いても、それは聖書=神の言葉の

真実ではないので、神の伝える神の純粋な言葉の意味が見えません。異邦人創作の教えは世界に満ちています。

そして、神の言葉を破棄すると言う教えを聞くならば、それは

神が教えている永遠の真実=様々な教えに対して封印をして

神が教える真実、真理、宝、祝福の生き方を発見する事がない

状態を作り出していると言う事なのです。開かずの間がたくさん

出来ている状態を作り出し続けて行きます。

 

神の教えを捨てたら迷い出ると神が言われました。

そして異邦人クリスチャンは、神がモーセの五書で伝えている

人間の生き方を知ろうとしない、なぜならモーセの五書は終わりで古い無用は教えが書いてあると言う異邦人創作の教えを信じているからです。そして神の教えが抜けて、その部分を人の教えで埋めてしまっているのです。

福音書以降には、モーセの五書、預言書、諸書のほんの短い

内容しか記載されていないのです。福音書以降にはモーセの五書とは違う新しい教えなど1つも書かれてなどいないのです。

この事実を異邦人クリスチャンの世界では全く認識されておらず

新しい教えが出現したと誤解しています。最初の箇所をちゃんと

学べば、福音書以降にはモーセの五書以外の別の教えや

モーセの五書に敵対する教えや廃止する教えなど書かれてなど

いない事は容易に理解出来ます。最初の部分を学ばない、読まない、伝統で語られる人造の教え=神の言葉は廃れた、変化したと言う教えだけを聞き続けているから、神の言葉の真実が見えないだけなのです。

異邦人クリスチャンの世界の聖書解説は聖書に書いてある事とは

違う、異邦人思想の解説で塗り替えられている数々教えが

あるのです。マタイのイエシュアのたとえ話でも分かる通り

人が想像し、人の発想した意見を述べているだけで、聖書に

書かれたイエシュアがトラーの解説をしている事実から外れて

しまっています。

イエシュアが大衆から離れて弟子達だけに後から話された内容は、弟子達はこれからイエシュアが去った後人々へ正しく

トラーを教える事を任命された人達である事をイエシュアは

年頭に置いているのです。世界へ神の言葉=トラーが正しく教えられ伝えられなければならないからです。28:18−20

 

毒麦のたとえ話では、2つのグループに付いて話されています。

”神の王国に属する人々”と”悪に属する者”。悪と言うと極悪とか

犯罪と考えますが、悪と言うヘブライ語の意味は、ラと言う言葉で神の意図とは違う事を意味するのです。イエシュアが”不法”

トラー無しの者は私に属さない者、私との婚姻関係には居ないと言われた様に一般に考える、極悪や、犯罪を犯すと言う事だけでなくて、神のトラーに反したことを勝手に言ったりやったりしてもそれは神には異物、神に属さないので追い出されると書いて

あります。

彼らは熱心に神の名を使い、預言し、様々な不思議をし、

主のために働いているのだと自負していたと書かれていますよね。それがポイントなのです。神の意図、教えとは違うことを

どんなに熱心にしても、神の教えを無視=不法=トラー無しの

生き方を教えたり、生きても、それはわたしのものではない。

神に属さない!と言われますと言う教訓です。

マタイ7:22−23

神は良い種=神の純粋な言葉を人の中に蒔くのです。

そして、悪=ラは、人の中に神の教えではない種を蒔く

これがイエシュアのたとえ話の中で語られているのです。

そして良い種を頭脳に根付かせる人は、良い実をもたらし、

毒麦の種を頭脳に蒔くものは、御霊の実を実らせません。

7:16、20 12:33

そして、人の中にある純粋な実は最後の裁きの時まで目立たない

ものであるかもしれません。そして、毒麦も麦と共に収穫の時

まで一緒に留まる。収穫の時が来たら、麦と毒麦の区別がはっきりとつくのです。収穫とは、最後の裁きを表しているものです。そして、このたとえ話全体に終末に関しての要素が語られているのです。さらに、御使とは、収穫をするものであり、麦を一緒に集めるそして、毒麦は火にくべてしまうとあります。40節。

 

マタイ13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、

世の終りにもそのとおりになるであろう。

13:41 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと

不法=トラーに背く事を行う者とを、ことごとく御国からとり

集めて、

3:42 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

 

この様にたとえ話のこの箇所は、収穫に関してをフォーカス=

中心として話されているのです。イエシュアは群衆が居る時には

話されなかった事を弟子達に教えています。

”毒麦”が破壊される事は、群衆には伝えていませんでした。

終末の審判に関して、何度も語られています。

パウロやヨハネもマタイ16:27、24:31,2テモテ1:7黙示録14:15 17-19を引用しています。

 

御使は、天の国の警察隊の役割をして、不法を行う者を取り締まり、彼らの業を明らかにし、処罰を執行すると書かれています。

ユダヤ人の書の中にもあります。”御使とは、神の裁きを管理する神のしもべである。神はとても忍耐深く、許しに富み、彼らの

間違った行いを覆う。しかし、神の教え=トラーを蔑ろにし、

正しい道に生きる事に反抗する者達の上に最後大いなる怒りの炎が下る。永遠から残りの民、生き残る者以外、神の教えに逆らう者は残らない。" DC2.4-7

ミカエル、ラファエル、ガブリエル、ファヌエルは悪者どもを

捉え、最後の大いなる裁きの日に火の炉に投げ込む。

それは燃え盛る日であり、神の霊はサタンの使い、迫害の行い

様々な悪行をするサタンの使い、地上に生きる人を堕落へ導いたものを報復する。1エノク54:6

 

マタイもパウロもイエシュアが戻られる終末の時、御使が共に

来る事を書いています。

25:31 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。

25:32 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、

 25:33 羊を右に、やぎを左におくであろう。

2テサロニケ 1:6 すなわち、あなたがたを悩ます者には患難を

もって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。

1:7 それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。

 

イエシュアのたとえ話で、毒麦に付いてもっと発展させた解説を

しています。毒麦の特徴の見分け方です。毒麦とは、”つまづきの石”であり、不法=トラー無し=神の教えを蔑ろにすることに

専念している人達のことを指しています。

スカンダラと言うギリシャ語は、”つまづきの岩、石”と

訳されていて、マタイ16:23、18:7にも書かれています。つまづきを与えるもの=神の教えを妨害する全てを指して

警告されているのです。

マタイ16:23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、

「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。

あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

18:7 この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。
罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、
わざわいである。

イエシュアは、この言葉を詩篇141:9に書かれた言葉から

引用していると思います。

詩篇141:9 わたしを守って、彼らがわたしのために設けたわなと、悪を行う者のわなとをのがれさせてください。

悪を行う、不法=トラーに書かれた事を無視して生きる人達が
設けたわなから逃れさせて下さいと言う箇所です。

 

つまづきの岩とは、人が神の義を追求する事を妨害し、人々を

神の命ではない、神の真実から迷い出させる教えに導く事です。ラビ達はレビ記19:14にもっと広い意味での適用を見出しています。

レビ19:14 耳しいを、のろってはならない。目しいの前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。

 

続く