異邦人クリスチャンの中で恒久的に語り継がれている数々の教え
は、実は聖書に何も根拠が無い、人の創作した思想や考えであると言うものを書き出しています。
異邦人の世界で語られている非聖書的教えが、1900年近くも語られ続け、多くの信者が支持するから聖書の真実だと考えていると思いますが、聖書に根拠の無い教えは、誰がどう説明しようと、いかに長年1900年近く語り継がれても、どんなに多くの人に支持され信じられていても、それらはイスラエルの神に属する教えでは無い!聖書では無い、人が勝手に創作した神学、
思想、哲学、仮説進化論と全く同じものです。
真実に基づかない空虚な思想の数々。
神の言葉のどの部分でも否定する教えは、100%イスラエルの
神の教えでは無い、神から出たものでは無い!と言う事実に
はっきり目覚めて気が付く必要があります。
この世の中は欺瞞と、嘘に満ちているからです。
オレオレ詐欺に注意!と銀行のATMの前に張り紙がしてあるそうですが、オレオレ詐欺にかかるのは、電話の相手の声が自分の
家族の声にそっくりだと思うから騙されてしまう!と言うものだそうです。
”わたしの羊はわたしの声=コル=神の言葉、教え=トラーを
聞き分ける!”声=コル=カハール=神の声に呼び出された人は
神の与えられた言葉、教え=トラー=鎧兜で嘘を自分の頭脳に、体に侵入させない様に守られるからです。だから神の言葉に注意を払う必要がない!律法は廃れた〜、呪いだ〜恵のない生き方だ〜などと言う偽羊飼いの声を聞く場合、オレオレ詐欺=違う
教えに騙されてしまうのです。要注意です。
だから聖書だけに戻り、丹念に神が伝えている教えを慕い求め
続けよ!と神が教えているのです。聖書に書いてない事を信仰するのは空虚です。意味が無いどころか神の教えではなく、人が
作った宗教の教えを生きる事をしてしまうからです。
神の言葉、教えは、私達の安全が守られるためにあるのです。
異邦人クリスチャンの世界の教えは、鎧兜を脱いで捨てよ!
ある部分=大部分は捨てよ!神の言葉、教えに注意を払うな!
聖書の最初の部分を学ぶ必要などない!この声の出所はイスラエルの神などではない、エデンの園をはうあの動物の声!と
認識出来なくてはならないのです。成人は。
7 聖書の最初の70%と最後の30%には違う教えが書いて
あると異邦人は教えている、信じている。
最初の70%は最後の30%に導く光の役割である?
聖書の最後の30%が神の言葉、教えの完成形である?
最後の30%福音書以降が最も優れた教え、より優れた霊が
使徒2章のシャヴオート以降与えられたので、最初の部分は
読む必要がない?
最初の70%は昇天以降は不要、又はユダヤ人以外モーセの五書の教えは不要、又はユダヤ人と改宗儀式を経てユダヤ人に
なった異邦人以外不要なものであると言う異邦人創作思想。
モーセの五書は呪いの律法、人が生きられない厳しい教えを
神が与え、その厳しい教えを生きられない事に気がつき人々が
悲鳴を上げるのを神が待っていて、呪いの律法から
イエシュアを通して救い出した?
今は恵の時代なので、古い律法に戻るのは神の恵を捨てた生き方
であるから、古い律法に戻る生き方は愚かであるとまで考えている。これらの思想を信じる場合、大抵聖書の最初の70%に
何が書いてあるのかも実は知らない、又は異邦人が語る解説だけを聞いていると言う事であり、こんな教えをする場合、
聖書の最初の70%を書いてある意味通りには全く把握していないと言うことは明らかです。書いてある内容が把握できれば、
人間の読み込みの解説が空である事が分かるからです。
神の言葉だけに語らせれば、書いてある内容が見えて、捨てよ!
不要!などと言う声、言葉、教えは神から出たものでは無い事が
明らかに理解できる様になるからです。
神の言葉=聖霊=イエシュアである事実に盲目状態なのです。
福音、イエシュア、イスラエルの神の考え、イスラエルの神が
誰であるのか、神が創造された人間の生きる全ての詳細、
神が創造された人の本当のアイデンティティの全ての完成形が
聖書の最初の70%に書いてあるのです。
福音書以降の聖書の最後の部分の30%の内容は少量です。
福音書以降には、罪の詳細、聖別の定義の詳細、人が誰か
神は誰か、人はどの様に生きるのか?その詳細は書かれていません。神はこの世界をどの様に創造され、時を造られ、特別な時を
聖別し、神の記念日とした詳細なども書かれていません。
それは聖書の最初の部分の70%に既に完成形として全てが
書かれているから、重複していない、復唱していないからです。
聖書の最後だけ読めば良いと言う信仰は、大事な事が見えない
神が語っている教え、生き方の本当の意味、全貌が見えない!と言う事です。教科書の後書きだけ読んでいるので、教科書の
本体、本文に書かれた意味などが見えない!その現象が起きて
いるのが異邦人の世界の教えの出来事なのです。
聖書の最初の70%を熟知する人は、聖書の最後の30%を初めて読んだとしても何が書いてあるのかはっきり見えます。
なぜなら、聖書の最後の30%は最初の70%の短い解説だから
です。逆はあり得ません。最後の30%だけを読んで、最初の
70%の内容を理解、把握するのは不可能だからです。
福音書以降は、聖書の最初に書かれた70%の内容の使徒が書いた短いコメンタリー、解説でしかないのです。もちろん聖書の
70%と最後の30%はどの箇所も全く矛盾しない、敵対し合わない、モーセの五書とは違う教えは1つも書かれてなどいません。この誤解を解くのに大変苦労するのです。なぜなら異邦人の世界では、聖書が最初と最後で互いに敵対し合うと信仰の最初から教え続けられ、その教えしか聞かされず、最初の部分は呪いの律法で生きるものではない、律法に戻るな!と1世紀後半から
今に至るまで、異邦人教父達に教え続けられているからです。
聖書の最初の70%の中に書かれたもの、そして、トラーが人となって地上に現れ、永遠から存在する贖いの業、そして神が
オリジナルに創造した人間が生きたらこうなる=生けるトラーとイエシュアが言われた様にトラーをそっくりそのまま天的ヴァージョンで、人の解釈ではなく、神が意図する通りをイエシュアが
生きて見せた!記録。そしてタナックに書かれている約束通りに、イエシュアが実際に地上に来られて、タナックに書かれた
通りの事を地上でして、救い主である証拠、証明がされたのです。再臨も同じです。ユダヤ人はイエシュアが地上に再臨され、実際にタナックに書かれた通りに、エルサレムから全世界を統治し、全ての人がイスラエルの神の国の憲法=モーセの五書を生きる預言、エレミヤ31章、イザヤ、エゼキエル、ぜカリヤに書かれた通り、再更新される契約=モーセの五書を全世界が生きて、
そして神の創造されたオリジナルの記念日に全世界が上って祝う様になる事実で、イエシュアがタナックに書かれた救い主であると言う事に否定が全く出来なくなり、2000年前に来られた
あのお方がイエシュア=救い主であると認める!と預言されて
います。
ユダヤ人の世界は、異邦人の世界の様に思想を伝えてください!の世界ではないのです。あなたの語ることを事実として形で具体的に証明してください!だからイエシュアが2度来られる意味が見えて来ます。証明!!!タナックに語られた事が真実であると全世界に証明するためです。
そして、アヴラハムを通して与えた義、祝福、全世界の全民族が、アヴラハムの種=約束の子孫=イエシュアを通して祝福されるように!詰まり、同じ福音、同じ救い、同じ祝福が全世界へ運ばれる幕開けの印=シャヴオート=婚姻契約を受け取った記念の祭りが使徒2章です。神が創造されたオリジナルの祭りの時に、シナイ山の時と同じ様に印、不思議な現象=神が直接現れた、
そして使徒2章の同じシャブオートでは、シナイ山で起きた現象の再現でもあります。
異邦人クリスチャンはペンテコステがシナイ山で与えられた
婚姻契約を祝う日であると言う認識が全く無いと思います。
実際に神の記念日の意味なども教えられないし、神の記念日を
実践しないからです。
この祭りは、過越を祝い、種無しパンの7日間を祝い、
過越の日から3日目の初穂=新しくされた命を祝い、そして
新しい命が成長する7週間、7回のシャバットを経て次の日が
シャブオート=ペンテコステ=婚姻契約を受け取った事を祝う
記念日であるのです。神の記念日はシャバットを含めて全部で
ワンセット、1つだけを取り出して祝うのは神のデザインした
記念日の祝い方ではないのです。神のオリジナル記念日を祝う
ユダヤ人や異邦人は毎年祭りを祝う事でこの祭りの意味が理解
出来るのですが、神の教え、記念日を実践しない場合には、
出エジプトの19章と、使徒2章の出来事の繋がりが全く見えないのです。
出エジプト19:16 三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。
使徒2:1 五旬節=シャヴオート、ペンテコステの日がきて、
みんなの者が一緒に集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
2:3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
婚姻契約=トラー=モーセの五書が与えられ、全世界の異邦人へも同じ福音=トラーが運ばれた記録が書いてあるのが使徒行伝、そしてパウロの書簡からも諸外国の人々、ユダヤ人に混じる
異邦人達にトラーを教えていた記録がパウロの書簡です。
最後の黙示録はエデンの状態に全てが戻る記録です。
エデンから出てエデンに戻るで完結している。
続く