聖書にはない創作用語や聖書に基づかない伝統的な考え教えについて | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書=神の言葉ではない、人が創作した言葉や思想。

伝統で語り継がれ、実践されているけど聖書に根拠がないもの。

それぞれの記事に飛び飛びに書いているのを、要約してまとめて

見ます。初めて読んで下さった方にも分かる様に書いてみます。

 

 旧約聖書 新約聖書と言う聖書のタイトル

1世紀後半のマルキオンの編み出した思想は以下の通り。

聖書の古い箇所は今はいらない、だから旧約聖書と言う題名。

古くて廃れて意味なくなったと言う印象を与えるもの。聖書は

新しい箇所のルカ書といくつかのパウロの書簡で事足りる?

この思想は、19世紀のダービー=デイスペンセーション神学の

生みの親である人も同じ思想を継承してその教えが爆発的に

語り継がれ続けて今に至っているのです。旧約新約と言うタイトルは人間が付けたものであり、神が付けたものではない。

聖書が聖書自身に与えているタイトルは、”トラーの書” ”証”

言うタイトル。

そして、聖書の最初の70%は、モーセの五書=トラー

預言書=ナヴィーム、諸書=ケトウヴィームと呼び、それらの

ヘブライ語名の最初の頭文字を取り、タナックと言う呼び名を

ユダヤ人が付けて一般的にそう呼んでいます。

福音書以降は、使徒の書簡と呼ぶのが一番ふさわしいタイトル

です。使徒が書いた、タナックに書かれたイエシュア、そして

トラーの教えの短い短い解説、コメンタリーだからです。

そこには人の生きる全貌は記されていません。最初の70%に

全て完成形の書として全てが記されているからです。

罪の定義、聖別の定義、人がいかに生きるのか,,イスラエルの神はどんなお方か?神との関係、人は神にどの様に近づくのか?

の全ての詳細がそこに書かれていますので、最後の30%には

復唱して書かれていないのです。最初を読めば分かるからです。

 

聖書の最初の70%と最後の30%には違う教えが書かれている

と勘違いしているのは、反モーセの五書思想を継承する異邦人教師達にそう教えられ続け、そして人の創作した思想から聖書を

曲げて読み、プラス重大問題は最初の70%の中身に書かれた

意味、内容を知らない、読まない、学ばないから、

福音書以降には100%トラー=モーセの五書が書かれている

事実に気が付かず、福音書以降は新しい教えが書いてあるのだと

勘違いしているだけなのです。イエシュアを知らない、信じない

タナックに根付き学び生きているユダヤ人が、福音書以降を初めて読んでもその中身が100%タナックが書かれていると気が付けます。でも最初の70%の中身は分からない、知らない場合、

聖書の最後の30%だけ読んでも、それがタナックの短い解説である事には決して気が付けないのです。

後書きだけを読んで、教科書の本文を読まないなら、その中身が良くは分からないと言う事と同じだからです。

本文を読む人=最後の後書きは分かる。後書きだけ読む人=

本文に書かれた内容は理解出来ない。

 

2 教会 

この翻訳用語も、翻訳にあるヘブライ語<ギリシャ語>言語を

全く反映していない、異邦人創作用語です。

教会と言う言葉は”クリアコン” ”主の”と言う意味のギリシャ語

元にあるヘブライ語、ギリシャ語の本当の言葉を反映しない

言葉に変えられてしまっています。

それをドイツ語、クーシェ、英語 チャーチと訳しています。

日本語に至っては教会=教える会、これも全く元の言語の意味を反映していない創作翻訳用語なのです。一般に浸透してしまっているので、便宜上使いますがやめたほうが良い言葉です。

原典言語の本当の意味が見えないからです。

元の言葉は、ヘブライ語、カハール、ケヒラ、ギリシャ語

エクレシア、ヘブライ語とその翻訳ギリシャ語も両方、

神の声に呼び出された群れ”と言う意味です。

”主の”=クリアコンと言う言葉は、元の言葉を全く反映していない言葉ですが、この創作用語=チャーチ=教会と言う翻訳が

一般に使われています。

その翻訳用語が使われている箇所は、福音書以降だけです。

同じカハール、ケヒラを、創世記からマラキまでは、集会、

群れと訳し、同じカハール、ケヒラ、エクレシアを、

福音書〜黙示録では、教会と言う造語にすり替えられています。

そうすると、どう言う意識を生みますか?

福音書以降、イエシュアが地上に来られた以降は、別種の

グループが出現した、前のグループとは別物であると言う

考えや意識を生み出すには好都合の創作翻訳なのです。

だから翻訳に頼るのではなく裏にある元の言語を知るだけで、

真実が目の前に飛び出して来るのです。

 

3 クリスチャンと言う言葉

これは、使徒11:26  26:28 1ペテロ4:16、

の3箇所にだけ出て来る言葉です。

これは1世紀当時、イエシュアに付いて行く人達に付けられた

あだ名です。クリスチアヌス=ギリシャ語と言うのは、当時の

イエシュア信者以外の人から付けられた、あだ名です。パウロや使徒たち、イエシュアはクリスチャンと言う言葉を信じる者達には使いませんでした。

ここでゆっくり1つ1つ考えてみる必要があります。

 

では、イエシュア、使徒達はイエシュアのフォロワーに対して

何と呼んでいたのでしょうか?パウロの書簡でも分かる様に、

聖徒たち。ギリシャ語=ハギオス ヘブライ語では、

”コデシュ”=聖別=神の上に取り分けられた人達と言う

意味の言葉です。

 

クリスチアヌスと言う言葉を、エデンの園から、そして2000年前までの創世記からマラキまで、そのあだ名が使われていなか

ら、古代は誰一人イエシュア知らないとか信じる人がいなかったと誤解するのは早合点なのです。

アヴラハムは、イエシュアを信じた、信仰により義とされた。

アヴラハムは、わたしの日を見て喜び楽しんだとイエシュアが

言われた言葉で表されています。アヴラハムもイエシュアに直接遭遇している事を示唆する内容が創世記にも書かれています。

メレキゼデク=義の王と宴会する場面です。

アヴラハムもイサク、ヤコブモーセ、ダビデ、預言者達皆

イエシュアを通して救われ、信仰により義とされている!

別の救いの方法、別の教え、別の福音は存在しないからです。

”わたしが道であり、真理であり、命である 誰もイエシュアを

通してでなければ父の元に来る事が出来ない”それは永遠不変。

 

残りの民=神の民は、古代はクリスチアヌスと言うあだ名で呼ばれていないだけ!異邦人の世界であだ名が定着して、キリストを信じる=クリスチャンという名が定着しましたが、ユダヤ人イエシュア信者は自分達をクリスチャンとは呼ばないですし、ユダヤ人信者同様にキリスト教の教えではないオリジナルの神の言葉を

信じて、1世紀のパウロ達と同じ生き方を実践する異邦人達も

自分はクリスチャンとは言いづらいのです。なぜなら、

クリスチャン=モーセの五書の教え、実践に決別したグループ

ローマ帝国教が作った教えや、儀式、記念日を生きる人たちと

認識しているからです。

彼らは、イエシュアに属するもの、上から生まれた新しくされた人、信仰により義とされた人は全て残りの民と呼ばれて

いるのです。

神の上に取り分けられた人達。神の声で呼び出された人達。

 

4 1世紀に現代の様なキリスト教、異邦人のクリスチャン

グループが存在していた?

キリスト教とは、その前身の教え=反モーセの五書を唱える

異邦人教師達は1世紀後半、神殿崩壊後から出現しますが、

ローマ帝国教〜カトリックの前身となるものは、4世紀まで

存在しませんでした。プロテスタントに至っては、16世紀以降

つまりは、聖書にはそれらの西洋宗教=モーセの五書を否定する

異邦人とユダヤ人の教えは違う!などと宣う宗教など存在しなかったと言うのが聖書の歴史の事実です。これをよ〜く考えれば

真理が見えてきます。聖書が書かれている、聖書の中に登場するのは1世紀当時はほぼユダヤ人のイエシュア信者ばかりでした。極少数の異邦人がユダヤ人信者達、その当時はパリサイ派が多数でしたので、パリサイ派のグループの中に加えられていたのです。ここで誤解してはならないのは、パリサイ派即偽善者と言う

定義が浸透していますが、これは完全なる誤解です。ユダヤ人の

中の偉大なトラー教師、ラビ達はパリサイ派に属する人達であり

そして1世紀当時の政治、法律、議会を担うのはパリサイ派の

トラー学者で占められていました。サドカイ派はレビ族で神殿に仕える人達。使徒5:34に、国民全体に尊敬されていたパリサイ派のガマリエルと書かれています。パウロのトラーの大先生である方。パウロも生涯パリサイの中のパリサイの子と議会で

表明した通りを貫いて生きたのです。

パリサイ派は人の立場に立ち、トラーに則り実践し、助けを与える人達であり、クリスチャンの世界で語られる様な、パリサイ派イコール偽善者の代名詞などと言う誤解は解かなくてはならないのです。

異邦人クリスチャンの世界にも、1つのグループの中にも色々な人が存在するでしょう。その一部の人の素行を取り出して

全体を形容してはならないのです。

クリスチャンの世界では、昇天以降古い教えは終わり、

怒りの時代は終わり、恵の時代、教会時代が始まったと教えられています。キリスト教と言う新しい教え新しい宗派、グループが出現したと考えていると思いますが、大変な誤解です。

 

これは、教会と言う名前ではなく、同じ福音、同じイエシュア

同じ救いの方法を信仰により受け取り義とされ上から生まれ

新生体験をし、聖霊を内側に受けていた聖徒=残りの民はどの時代にも存在するのです。

使徒2章以降に初めて聖霊が降りたとか、教会と言うグループ

クリスチャングループが出現したと考えているのは全く聖書とは違う誤解です。

最初から1つのグループ=神の家族=神の声に呼び出され応答した人達の群れ=1つの家族=イスラエルの神の家族に最初から

全ての人が継続して加え続けられ、それが継続されているだけだからです。使徒2章以前、古代の人は救いを受けていない、

仮の救いや、許しが与えられていただけと言う幻想=聖書の最初の70%に書いてある意味をしっかり知る、学ぶ、教えられれば

聖書には、全ての時代、どこの時代のどの人種でも

同じイエシュア=救いを受けて生きていた証拠がはっきりと

記されています。その事実が見えないのは、トラー、預言書、

諸書に書いてある意味が見えてないと言うだけのことなのです。

 

1世紀は使徒15章でも分かる通り、異邦人だけのグループなど

存在しませんでした異邦人は極少数。全ての異邦人イエシュア信者は、ユダヤ人のグループ=当時はパリサイ派が大多数ですから、パリサイ派の中に加えられた。シャバットに会堂でトラーの朗読を聞いて学びをしていた事実が聖書には書かれています。

しかも、異邦人はトラーを知らない、トラーの巻など誰も当時

個人で所有などしていない。トラーの巻物は相当高価なもの、

今の値段ですと何百万もする羊皮紙に書かれた手書きの巻物です。使徒15章でも分かる通り、何も知らない異邦人はイエシュア信者になりながら、同時に偶像礼拝や汚れた動物を異教の神々の神殿で屠る儀式に参加し、血まで飲み、そして異教の神々の

神殿に居る神殿娼婦と交わると言う、とんでもないずれた事をしていました。ユダヤ人=パリサイ派のグループに加わるなら、

交わりをする上で、とりあえず最低限4つのご法度!を知り、

それらをやらない事を前提で異邦人も私達パリサイ派のグループに受け入れます!と言うとても寛容な対応を異邦人にしたのが

エルサレム会議の背景なのです。それなのに、パリサイ派に加えられる事実も見えてなければ、異邦人は4つだけ守れば、あとは神の教えなど生きなくて良いなどの逸脱した教えを異邦人クリスチャンの世界では語ってしまっているのです。

ちゃんと書いてあります。使徒15:21に異邦人はとりあえず4つだけ教えておいて、毎週シャバットで会堂でトラーを学べば

そのうち神の教えを理解していくだろうからと言う大寛容策を

提示したのです。1世紀の異邦人信者は100%モーセの五書を学び、パウロ達と同じくシャバット、祭りを祝い、レビ記11章にある神が創造された人間が食するにふさわしい食事をし、

そして、男の子が生まれれば割礼を施し、神殿が存在しているので、エルサレムに住む人たちは、神殿で動物を捧げていた、

シャバットや、祭りの時、過越など子羊を屠神殿の周りで皆

BBQの屋台場で屠った羊を焼いてイエシュアが祝っていた

永遠に祝ってイエシュアがされた業を過越で思い出して!と

遺言された過越の祭りの宴会の準備をしたのです。

信じられないでしょうか?それが事実です。

動物の血は罪を消さない!罪の赦しのためにされているのではないからです。

 

続く