人が創作した教えは聖書の真実では無い | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書ではずっと1つの家族=エデンの園から始まった1つの家族として神の元引き寄せられ戻される事実だけが書かれています。

 

どうして2つに分裂するのか?ユダヤ人の中でも、異邦人の中でも人間関係の中にある問題は、分裂、敵対心、党派心です。

 

最初の最初ズレが人の間に入り込んだ時から発生したものです。

神の造られた人間の本来の性質が壊れたからです。

一体性、1つ、エハッド。それを神学では2つと分裂させて

神の言葉に対して逆流した教えをしているのです。

 

1体として造られた人が、そのデザイン、性質から外れたから

分裂した、2つに分かれた。本来1つなのに分裂。

今は二つどころかどの位分裂しているのか?様々な教え、

様々な宗教、政治、利権etc etc etc

 

それは、神の目から見る通りではない、食べもの食べ方をして、本来とは違う性質のものの見方の目が開かれて、神の性質通りとは別物の生き方を人は学習してしまったからと書かれています。

 

そのズレの代償、離れる、分離する、隔たりの壁、距離が出来る

お互いに本当には通じ合えない、相手の本来の性質が見えない、バイアス、偏見、先入観で歪んだ自己像、歪んだ相手像を学び、

互いを誤解し、距離を置き、敵対し合う、プラス別の思想で

歪められたイスラエルの神像を学ぶ、今まで見ていた通り、

神の見ている通りを見る世界から飛び出してしまった。

アダムとエバは一体でぴったり1つ、そして神と1体である状態

が破壊されてしまった。神と共にエデンの園、涼しい風が吹く園で手と手を取り、神と共に歩んだ状態。

それが破壊されて、その状態から飛び出してしまった。

神の中にある状態から外に飛び出し、

別離の中に入ってしまった。

 

アダムが神の性質通りに造られて、神の見る通りを神と同じ様に

見ていた事実が最初に書かれています。

アダムが神の創造された動物達に、神から名付ける様に言われてそれらにアダムが名前を付けた事でも分かります。

 

好き勝手な名前をランダムに付けたのではないのです。

名とは性質を表すもの、性質、評判、実態=名前です。

神が創造された動物の性質を、神が見る通りにアダムは見ていたから、アダムがそれらの動物に名前を付ける様に神に言われた

のです。

神が創造された動物の性質にぴったりの名前をアダムが動物に

名付けたのです。それらしく聞こえるでしょう。

豚、牛、カバ、猫、犬etc etc etc

 

神の性質通りの人間、神の性質通りを生きる、それらが神の言葉

教えで記されているのです。トラー=神の教え,インストラクション。神の教えは最初からエデンの園から口頭で神から人へ伝えられた神の同じ教えなのです。それが文字として正式に神から手渡されたのがシナイ山での最初のシャヴオート=ペンテコステ。

その人達は元に戻る、神に贖われ義とされ神の性質を生きる。

ズレ=罪が入り込む、神の性質、神の目から見る事とは違う事を学んだ人は、元居た場所、元居た状態、元見えていたことが見えなくなり、全てのものを歪んで見ることを学んでしまった。

互いの本質が見えず、お互いの本当の姿が見えず、本来の姿に

幕がかかった状態になってしまった。

 

ズレた結果は何ですか?分裂、別離、破壊。エデンの園を出た後すぐに書かれている罪は、一番重い罪、殺人です。

しかも兄カインが弟アベルを殺した事。

嫉妬、憎しみが殺意を生み、それを行動に移して弟を殺した。

自分の家族、自分の子供が兄弟間殺人などしたら、

その家族に取り、それはなんと悲惨で破壊的出来事でしょう。

自分の家族にそんな事が起きたら。どう受け止めるのだろう?

 

そして、ヨセフの人生でも表されている通り、イエシュアを通して分裂した家族を最後1つに戻す事が書かれています。

この問題の根も嫉妬と憎しみです。神の性質からズレたら、

本来の性質ではない事を学習し、自分の中にズレの原因を生む。

ヨセフの兄弟は父に可愛がられているヨセフを嫉妬し、憎み、

殺したいとまで思っていた。その結果物理的にヨセフは家族から

離れてエジプトに行き、そこで生きる人生を送ります。

 

福音の中心が書かれていますね。イエシュアの業が書かれています。分裂した家族を最後には1つに戻す。

ヤコブ=イスラエルは分裂した家族の苦悩を一身に負います。

 

エデン、カナンの地からエジプトへ、そして脱エジプト、約束の地に再び戻る。イエシュアもイスラエル、ベツレヘム=パンの家で生まれて、すぐにエジプトに下ってそこに住み、そしてまた

約束の地、イスラエルに戻ります。並行して同じ内容性質が書かれています。エデンから出て、最後は1つとしてエデンに戻る。

それがイスラエルと言う約束の地で表されています。

1つの神、1つ神の家に1つの家族が皆戻る。

それが都上りの祭りでも表されています。

皆が1つの場所に戻る、1つ神に戻ることがそれで表されています。絵画的教えです。

 

殺人は別離、分裂の最悪版。命が絶たれたら相手と繋がれない。

死は完全な隔たり。それが2つの家族として分断したものを元の1つに、神の性質通り、本来神がデザインした通りを生きることに戻るのに、人類は2つ分裂した家族であると言う思想を唱えるデイスペンセーション神学は、神の伝える真実な性質、プランとは真逆の事を言っている事を聖書の記述から発見出来ます。

 

ヨハネ10:2 門からはいる者は、羊の羊飼である。

10:3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。

<声=トラー=モーセの五書に書かれた神の言葉、教え>

そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。

10:4 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声=神の言葉、教え=トラー=モーセの五書

知っているので、彼について行くのである。

10:5 ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。

その人の声=神の教え=トラーを知らないからである」。

10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、
わたしの羊はまた、わたしを知っている。

10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、

わたしが父を知っているのと同じである。

そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。

10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊=異邦人が

ある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼ら=異邦人も、

わたしの声に聞き従うであろう。

そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

 

異邦人創作の教えは、聖書に書かれている事を曲げて自分が

感じる事、発想、想像する考えを述べているだけです。

 

イエシュアは良い羊飼い=羊の事を本当の意味で知っている

羊飼い、羊の門で例えて話しています。

神のトラー=教え、インストラクション=モーセの五書に書かれた教えを、異邦人も聞き、それを生きる!とイエシュアがユダヤ人に説明しているのです。聞こえますか?人の声が混ざらない

純粋で本物のイエシュアが語る声、何をイスラエルに向かって

説明しているのでしょうか?

 

12弟子は全て12部族からのイスラエルであり、神のトラーを

あらかじめ聞いて育ち、生きて知っていた人達です。そして当時のユダヤ人は異邦人とは完全に決裂し、関係さえ持つことも

なかったのです。

ペテロでさえ、使徒11章で神からの幻を見るまで、異邦人に

対する偏見=汚れた人達であり、関わってはならない、一緒に

食事したり、交わってはならないと言うユダヤ人の間にあった教え=戒めの戒律=隔ての壁とパウロが言っている、ユダヤ人世界での伝統の教え、言い伝えを生きていたのですから。

 

デイスペンセーション神学思想の時代分け

第七の時代 1000年王国時代

 

デイスペンセーション神学は、クリスチャンだけが艱難時代の

途中、三年半の時に、イエシュアのお迎えの元、天に引き上げられてそのままイエシュアと共に天国へおさらばなので、

神の教え=トラーには無関係になるのだと言う言い訳をします。

ユダヤ人だけ艱難時代を地上で経験し、ユダヤ人だけがモーセの五書を地上で永遠に生きると言います。

 

天の国とは神のトラー=教えを生きる人で構成する国の事、

主の祈りにもある通り、どの場所に行こうが神の教え、

神の似姿の人間の生き方は変化しません!と言う事実が

見えてない教えです。

その前にクリスチャンだけが天に軽挙されて地上から消えると

言うのは、聖書に書かれている教えでもなんでもありません!

19世紀にダービーがそんな考えを言い出すまで、誰もそんな

思想を発表していません。

もちろん、イエシュアも弟子もパウロもそんな事言ってない。

 

ここでこの神学の決定的破壊的冒涜的教えに気が付かないと

ならないのです。1世紀後半から異邦人教父達が編み出した教えと同等に、この教えの特徴は、神の言葉に注意を払う事

神の教えを知ることへの意識を、人から引き剥がす教えをして

いると言う事なのです。

古い教えは異邦人にはもう今は関係無い、もうこの時代には前の古い時代の律法は無用であ〜る、ユダヤ人だけが生きれば良い

ユダヤ人だけへの教えだからなどと教えられた結果、

どう言う事が起きましたか?

1世紀後半と同じく、異邦人の世界は、神の言葉を熱心に知る

追求すると言う事から益々離れる事に拍車がかかったのです。

もともと翻訳聖書しか知らない異邦人なのに、オリジナルに書かれた意味も知る事もなく、ついでに翻訳聖書も読まなくなった。

手引き、マニュアル、インストラクションを捨てたまま生きる事をしているのです。

新しいパソコンの全ての機能を知らないまま、いくつかの機能

だけしか知らないままで作業するのと全く同じ事です。

あれも、これもそれも、神から全ての無限の祝福が与えられているのに、その事実を知らない、神の似姿の人であると言う素晴らしく祝福された命を生きる詳細、意味、全貌、永遠をかけて知る

宝を、捨てている。

 

そして、神の言葉は終わりと考えるから、神が教える事がほぼ

全部自分とは無関係と思ってしまっているのです。聖書を書かれている意味通り今も有効な永遠不変の神の言葉である事実を曲げているから、学ばない、知らない。神の教えが考えにも上らない、考えた事もない。だからクリスチャンはほぼ聖書を読まない、読んでも福音書以降のある箇所をちらっと読むだけです。

言葉の意味を学ぶのではなく、適用や誰かの考えや、

証体験を聞くだけ。

 

頭の中に重要な神の教えが全然意味無し、終了と考えているので聖書に書かれている深い意味内容を知らない。聖書を一度も

ちゃんと読んだ事無い人は世界中の至る処に居るのです。

何が書かれているのか知らない。救い、贖い、祝福、聖別、

神が伝える教え、何が神の伝える罪の詳細など自分の言葉で

説明出来ない。

 

 

続く