はじめの愛を忘れ聖書に根拠の無い創作の教えを支持する異邦人 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

デイスペンセーション神学の第5番目の時代は、恵みの時代

教会時代と呼び、今までの時代は過ぎ去ったので、前の時代の

モーセの五書は無効、終了になり、異邦人クリスチャンはモーセの五書=トラーを生きる必要は無くなったとデイスペンセーション神学では教えます。一体聖書のどこにそんな神の教えとは異なる異物の思想や、教えが書いてあるのでしょうか?聖書に書いてもない人が編み出した思想を信仰の土台とするのが人造神学の

特徴なのです。

 

この神学の破壊的致命的冒涜的教えは、これにあるのです。

”神の言葉は今は無用!異邦人は適用する意味がない時代に入ったから、神の言葉をもう生きなくて良い!”

エデンの園で起きた事の繰り返しです。神の言葉を曲げる、

神の教えから人の意識をそらす、真理をはぐらかす、違う教えに聞き入り、まことの命を生きる実態を損なう、聖別を汚す。

 

ある教えはどの時代にも生きると言う。例えば異邦人クリスチャンは十戒を取り出して唱えますが、クリスチャンの世界は

シャバットは無効!と主張しているので、それでは

"9戒と1つの提案"と言うお題目に変身しているのです。

 

神の言葉のどの部分でも否定する、無効とする、価値なし、

意味がない、終了となったと主張する教えは、破壊的危険冒涜的

な教えであると、神の言葉から認識しないとならないのです。

14年前に初めてユダヤ人でありイエシュア信者である教師

学者達に出会うまで、自分が神の永遠不変の言葉をないがしろにして来て、聖書とは違う教えに聞き入っていたなどと、知る由もなかったのです。変だなと思う箇所があっても、周りが異口同音に人造神学の教えから聖書を語るので、それが聖書だと疑いもなく思っていた。それを信じる人、教える人もそれが聖書だと疑いもなく信じているからです。異邦人クリスチャンの世界では

神の言葉の進化論説、神が変化進化、神の言葉が時代ごとに変化

進化、又は退化すると信じているからです。

 

神の前に随分ずれた意識を持ち、神の言葉を書いてある

通り額面通りには受け取らず、聖別を教える1番のシャバットもないがしろにしていた、と言うかシャバットとは何か?さえも

頭の片隅にも上らず、シャバットの意味も知らず、ローマ帝国が4世紀に創作した別物の記念日や儀式や教えが聖書だと勘違いしていました。そこから神の前に軌道修正し、神の前に異教の神々の要素との混ぜ物の教え、ズレた生き方、汚れたものを自分の

頭脳に、体に取り込むことが、どれほど自分を傷つけ破壊するものであるのか聖書の記述から気が付くに至ったのです。

 

はっきり聖書の事実が分かるまで4〜6年はかかっていました。

最初にシャバットを知って実践し始めたのも、学び始めて4年目

の夏、イスラエルに行って初めて体験的に学んで分かった

その様な機会があったからです。

永遠に忘れる事が出来ない衝撃的な印象を受ける体験でした。

 

しかも、神の語る教えは、ヘブライ原書の中では、トーン、声音が全く違う。宗教臭さ、人間的な色合いが無い。宗教の教えが

教える怒りの神、恵の神、変身する信頼に値しない神ではない、永遠に変わらない、永遠に言葉、約束を変えない誠実な神!

するしない厳しい掟リストを与える酷い神ではなく、人を上から目線で見張って出来る出来ない確認している神ではなく、自分が神の目に誰であるかをその通りに伝えてくれている、それが

神の教えであり、言葉であり、私達を守る臍帯、鎧兜である事を

聖書から発見出来る様になったのです。

 

神の言葉、教えから注意、意識を剥がす劣悪な教えは神から出たものではないのです。聖書には逆が書いてあるでしょう。

 

箴言3:1 わが子よ、わたしのを忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。

3:2 そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、

あなたに平安を増し加える。

3:3 いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。

 3:18 知恵は、これを捕える者には命の木である、

これ=トラー=命の木をしっかり捕える人はさいわいである。

 

詩篇19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。

19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。

19:9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

19:10 これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜

よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。

 

さばき、さとし、知恵etc etc 全部トラーを指して語っているのです。異邦人の様に呪いの律法だ〜捨てよ!などと詩篇の記者は

言いません。随分かけ離れた意識であるでしょう。

神の言葉を捨てよ!と言う冒涜、それはサタンの声であり

イエシュアの声=イスラエルの神から発生する声ではない!

サタンと言う言葉の意味は=敵対するもの!と言う意味なのです。神と神の言葉に敵対するもの=サタンと聖書には書いてあります。

 

呪いの律法だ〜恵みを捨てた生き方だ〜と言う意識と、

神のトラーは永遠不変の神の言葉は金、純金、蜜よりしたわしく甘い!両者の語る別の発言、意識は、まるで違う世界を見ているからです。詩篇の記者の教科書、テキストはモーセの五書のみ!であるのです。

モーセの五書からこの様な知恵、悟り、賛美が出てくるのです。

 

考えたら分かるでしょう。もし、試験勉強の時に、最初の70%

関係ありませんからねと言えばその箇所は、もう飛ばす、読まない、学ばないでしょう。最後の箇所の後書きだけをあんちょこ的

用途で読めば良いと教えられたら、そうするでしょう。

後書きだけ読んでも神の教えの全貌は見えないのです。

 

最初の部分=トラーに神の教えの全部の完成形である本文が

書いてあり、預言書、諸書がそれを説明しているのです。

罪の詳細の全貌も福音書以降には書いてなどありません。

人の生きる全貌、詳細も書いてない。

聖別の意味の詳細も書いてないから、深い内容は見えません。

決定的なことは福音書以降には、モーセの五書とは別の違う新しい教えなど1つたりとも書かれていない!と言う事実を知らないと神の言葉=聖書の真実が見えて来ないのです。

 

マタイ、特に福音書など、イエシュアは全てモーセの五書から

解説し、教え、さとし、実際にシャバットを祝い、祭りを

祝っていますから、クリスチャンには都合が悪い教えなのです。

ダービーはイエシュアが語られたトラーの教えはユダヤ人に

向けて話しているので、生きなくて良いと言いました。

本当にどこまでも神の言葉を都合良く曲解する教えです。

 

そしてマタイ5章など申命記そのものから解説していますから、

神の言葉を破棄するためではなく、成就するために来た、

神の言葉に手をつけるなかれ、天と地が消え去らないなら

神の言葉も消え去らない、神のトラーを教える人は天の国で

偉大なるものとされる、これらの教えはイスラエルにだけに向けてイエシュアは言っているのだと説明しますが、それなら聖書の

殆どはイスラエルへ向けて話しているのです。

 

イエシュアが語られたトラーの教えは教会には関係ない教えであ〜る。教会と言う言葉は本当に紛らわしい思想を刷り込む造語です。カハール、エクレシア=呼び出された人々の群、群、

集会と言う翻訳された言葉は、聖書の最初から最後まで同じ言葉

で書かれている神の家族に対して使われる言葉であり、同じ言葉を福音書以降では、今まで使わない創作翻訳用語=教会言う言葉を意図的に使っているのです。

教会と言う今まで存在しなかった別の群などは、聖書には登場しません。最初から存在する1つの群れであり、継続して人がその群に加え続けられている!

教会と言うコンセプトは、聖書に書かれた本来の意味、概念を

覆い隠す厄介な翻訳造語なのです。

 

しかも、エクレシアと言う言葉をイエシュアが使ったのは

マタイでもたった1度だけです。

その群の特徴は、ユダヤ人、異邦人混ざった最初からある神の

家族、最初から同じ神の言葉、教えを信仰により信じ、義とされた人達、上から生まれた人=イエシュアを信じて聖霊を

内側に受けて生きていた人の群れ=カハール、エクレシア。

終わりの時代=イエシュアが来られた以降も引き続き

人をくわえ続けると言う意味だからです。

自分の頭で聖書だけに照らし合わせて考えれば、人造神学が

唱える教えが聖書とは矛盾している思想である事がたくさん

見えてきます。

 

第6番目の時代は、艱難時代とデイスペンセーション神学は

言います。この艱難時代の時にクリスチャンだけ天に引き上げられる、イエシュアは実際に地上には来ないで空中でクリスチャンと会う、教会時代に生まれた人達は復活されて天に行く。

これを再臨とは呼ばないで、携挙と呼んでいるのです。

そして、ユダヤ人だけ地上に残されヤコブの災難に遭う時代で

あると唱えています。

 

デイスペンセーション神学の特徴は聖書に書かれている1つの

グループを、2つ別のグループ、ユダヤ人と異邦人に真っ二つに分けている事です。しかも、地上と天で永遠に分かれて別の場所を統治すると言う創作話までしているのです。

非聖書的、神の語る教えとは真逆な教え。

エペソ2章で、異邦人も同じイスラエルに加えられたとはっきり

パウロも説明しています。

 

エペソ2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と

称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、

2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。

2:13 ところが、あなたがた=異邦人は、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、

2:15 数々の規定から成っている戒めの律法=ユダヤ人が編み出した教え、口頭トラーを廃棄したのである。

それは、彼=イエシュアにあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、

 2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と

和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

 2:17 それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがた=異邦人に平和を宣べ伝え、また近くにいる者たち=ユダヤ人にも平和を宣べ伝えられたのである。

 2:18 というのは、彼=イエシュアによって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。

2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

 

 

 

続く