聖書の誤解を解いて神の真実を見る | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神の言葉=トラー=教え、インストラクション=モーセの五書

に書かれた教えのどこの箇所でも、人間の勝手な判断基準で

神の言葉を価値下げし、書かれている内容を正しく理解せず、

完全無欠である神の言葉に対して一時的な不完全な呪いの律法

なので、昇天以降はモーセの五書は廃れて終わった教えであると

言う非聖書的異邦人思想創作の教え。神の言葉を人間が勝手に

否定しているだけ。勝手に神の言葉を分からないまま判定して

品定めしているだけ。でもその行為は神に禁じられている事。

そして神が言っても無い事を土台に信じる信仰。

 

自分の頭で考えてみれば良いのです。聖書に本当は何と書いてのか?神を愛する人、イエシュアを愛する人は神のトラー=神の

教え=父の言葉を愛して実際に生きる人と聖書には書いてあるのに、どうして神を愛すると言いながら同時に神の言葉のある部分に於いて敵対し、憎むように言い続けるのか?変な教えである事は、聖書の真実が見えるとはっきり見えて来ます。

部屋に明かりが点いたらゴミがどれほど散乱しているのか見えるのと同じ。

真実の光が闇に当てられたらゴミと真珠は見分けられる。

 

ゴミ=神の言葉ではない、イスラエルの神に属さない人の教え、神の真理を覆う人の教え、神の言葉を廃れた、呪いの律法で

無意味、生きる必要はない、神の言葉を生きる人は律法主義、

恵みを無駄にした生き方であると言うその様な異物な教え。

 

イエシュアや使徒、パウロ1世紀の信者達、ユダヤ人異邦人が

トラー=モーセの五書を100%支持して生きていた事実に

聖書の記述から全く気が付いていないだけなのです。

イエシュアや使徒、1世紀の信者はモーセの五書とは、

別の教えを生きていると教えられ、それが聖書の真実だと勘違いしているからです。どうして?モーセの五書に書かれている内容意味を知らないからです。いつもそこにたどり着く。そして神の言葉を否定する人の思想を聴き続けて信じているからです。

 

1世紀後半から出現したトラーを知らない異邦人西洋教父達の

思想を教える人達だけを教師として仰ぎ、彼らの色眼鏡=ヘレニズム思想による教えに沿った聖書解説の教えを学べば、

同じく反モーセの五書思想を受け継いでしまう。

でもトラーに書かれた意味を本当に知るユダヤ人はそんな教えを

決してしない。イエシュアもパウロも教えていない。人種により時代により神の言葉、教えがカメレオンのごとく変化する訳がないのです。その様な教えは、ユダヤ人には青、異邦人には赤と

聖書には書いてあると言っているのと同じ。

ユダヤ人は7と読み、異邦人は1と読み替えると教えている。

聖書を書いてある通りに読み直さないとならいのです。

 

同じ1つの人同じ要素アダマ=土=アダムから出てきた同じ人間

であるのに、それとも異邦人だけ違う物でできている?

 

別の要素、別の構造、別種の人間?異邦人だけ歴史の途中で

進化変化する生物なのでしょうか?皆同じ1つの神から出てきた

一つの人から出てきた同じ人間であり、1つ家族として繋がっている。太古の人も現代の人も同じ人間であり、同じニーズを

持っている。だったら太古の人だけ別の救いの方法、現代とは

違う、神は太古の人に別の関わり、別の救済方法、別の助けを

与えていたなどと言う教えが変だと分かるでしょう?

それでは同じ福音、1つの救い=イエシュアでは無くなります。

 

それとも神はイエシュアが来られるまで人を放置する冷酷な神

とでも言うのでしょうか?聖書にそんな事書いてありますか?

 

神は永遠から永遠に憐れみ深く、恵みと許しに富む神と紹介しているではないのでしょうか?そして神は同じ、変化なし、移り

ゆく影もない!約束を撤廃しない!と言っているその神の言葉を異邦人は否定して二面相の神、怒りの神、恵の神などと勝手に

言って聖書に書いてない偽の神像を本気で信じているだけなのです。

神の言葉を否定する事、敵対する事、反対する事が正義である、これが新しい時代、恵の時代の教えであ〜る!

イエシュアの教え、福音書以降が一番霊的にも優れた新しい教え

だから、古い呪いの律法に戻るなかれ〜。

古代の人は仮の許し、トラーを生きる事で義とされていた?

それでは神が伝える義とされる条件とはズレているでしょう!

”アヴラハムは神の言葉を信じて義とされた!”トラーを生きたら

義とされたなんて書いてありません。救いの方法は1つだからです。生贄を捧げても罪赦されない、義とされない。

動物の血は罪を消せない!と書いてあるでしょう!

 

2000年以降は聖霊により上から新しく生まれ聖霊に導かれて生きると教える。太古の人の方がよっぽど聖霊により導かれて

生きる意味を、神の教え=トラーから知っていたのです。

これって聖書ではない2つの福音、2つ別の救いの方法を語る聖書とは異なる思想です。

これが、異邦人の世界で語られる一般的な教えだと思います。

 

救い=イエシュアは1つ。救いの方法は1つ、信仰を通して

永遠から存在し完了するイエシュアの業を受け取り上から生まれる!

それ以外に救いの方法があると言っているのが異邦人の教え。

聖書の教えは道は1つ!その道がイエシュア”わたしが道であり真理であり命!”と言われたのはイエシュア=1つの救いしか

ない、それがモーセの五書、預言書に書かれた救いなのです。

 

オリジナルの神の言葉=トラー=神の教え、インストラクションに勝る霊的な新しい教えが福音書以降には書かれていると言う

人造思想を信じる人の教えに師事、支持すれば、その様な教えを自分の頭脳の中に叩き込まれ、複製し続けて行くのです。

その様な思考回路からだけしか、聖書=神の言葉を考えられなくなるのです。信仰、神の言葉の進化論を信じてしまう。

 

そして、神の言葉を額面通り、その通りには受け取らない、

取り扱わない、実際に生きない様に教えられてしまっている。

今は全て寓話、霊的比喩として違う解釈をしている。だから聖書を書かれた意味通りには学ばない、書かれている通りの神の記念日を異邦人は祝わないで、ローマ帝国が作った教えと記念日を代わりに祝う。預言書に書かれた未来預言も全て霊的寓話、比喩として解説し、事実を直視していない。置換神学では、異邦人が

イスラエルと取って変わったので、もうイスラエルは無用、

ユダヤ人も無用、今は異邦人クリスチャンが天の祭司だから

だからイエシュアの地上の統治もない、第三神殿もない、

よって神殿での祭りも捧げ物もない。この様な読み方をしたら

預言書は全て意味がなさなくなります。

実際にこれから地上で支配されるイエシュアの統治に対して

はっきりと書かれているのに、それを寓話、霊的比喩として

完全に曲解しているからです。

 

神の言葉は破棄されたので古い箇所は学ぶ必要なども無いと言う西洋教父、マルキオン、クリソストム、アウガステイン、その他諸々中世以降ではルター、19世紀以降はダービーやスコッフィールドなど異口同音に同じ思想を語り続ている。

19世紀以降ダービーの教え、そしてその教えをサポートする

ために作られたスコッフィールド チェーンバイブル。

ダービーの思想の注解を聖書に入れ、神の言葉を塗り替えた解説をしたその聖書、思想がアメリカでは爆発的に受け入れられ浸透したから、その思想を教えるのがアメリカ<異邦人>の神学校では定番となってしまったのです。

 

ヘブライ聖書、ヘブライ思想ではなく、西洋人の編み出した色眼鏡の教えを通して解説される非聖書的教えが聖書教育の土台と

なってしまったのです。それは1世紀後半からずっと続いている

異邦人の世界の現象なのです。ユダヤ人の世界は違う。

 

人の思想、人造神学で塗り替えられた教えを学びそれが聖書で

あると信じる人達に学べば、そこからはその様に同等の反モーセの五書の教えが掘り出されてしまうだけ。その教えからは

聖書に書かれたオリジナルの真実の意味を見出すと言う掘り出し物は全く期待出来ない。曲がったものをまっすぐには出来ない。

 

それらの教えの究極の逃げ場は、”聖霊に導かれるから何でも

理解出来る”と言うとんでもなく飛躍した、空想話なのです。

聖霊=神の言葉=トラー、ぴったり一体、マッチしているのです。聖書は聖霊により書かれたのです。世界の全ては神により

神の言葉により造られたのです。人は神の口から出る1つ1つの言葉=トラーにより生きる!と書いてあるのです。この言葉を

イエシュアは悪魔の大御所に言い放ち、悪魔を退けました。

聖書の中に書かれた内容がある箇所とある箇所では違う、互いに相反する、対抗し敵対し合う、反発し合うそんな人が作り出した思想=教えは聖霊から出たものでは無いのです。

聖書に照らし合わせたら全く辻褄が合わない教えそのものです。

 

聖霊により書かれた神の教えを聞かず、読まず、聖霊に何でも

教えられると言うなら、どうして神は人間に神の口から直接出た教えを伝え、それを文字にして人間に託したのか?

だったら福音書以降も読む必要などないと言うことでしょう。

どうして寝ても覚めても神の言葉から離れず、学び続け、考え

続け生きつづけよと教えているのか?全く矛盾している教えなのです。照らし合わせる鏡=神の言葉を捨てよ!と言う教えを聞いたら、何が神が伝えている言葉、教えなのか区別などつかなくなってしまうのです。教科書を読まず、勉強せずにテストを受けて100%満点取れると言う空想話と全く同じ世界の思想です。

 

神の言葉を知り、学び、そして聖霊に導かれて神の言葉を実際に生きると言うことで神の性質を生きることが初めて成立するのです。この世界がイスラエルの神により創造されたとトラーを

読んで知ったのではないのですか?

それか、トラーに書かれた言葉を誰かから聞いたからその事実が

神により根拠のある証拠だと信じてるのではないのですか?

何を根拠に全てを信じているのでしょうか?

 

誰かが創作した教えと聖書に書いてある事、どちらが真実か?

神の言葉とそうでは無い教えとどこで見分けるのか?

神の言葉に照らし合わせる方法以外に無いのです。

わたしの羊はわたしの声=言葉=トラーを聞き分けると書いて

あるのです。神の言葉に書かれた中身を知らなければ、嘘か誠かの区別はつかないのです。人の教えに騙されてしまう。

どちらを神の言葉と認めるのか?いつもいつもその問いが

自分の前に置かれているのです。その問いは聖書の記述からだけ

神の言葉の意味通り、書かれている内容通りを把握して初めて

確認出来るものなのです。だから忠実な丁寧な注意深い聖書から

の学び、考察が常に必要であると神が伝えているのです。